第113話 空を飛ぶ敵と、節約という保険
十階層へ続くゲートの前で、優奈はいつもより露骨に嫌そうな顔をしていた。
「……なんか、嫌な予感がするんですけど」
「するだろうな」
俺がそう答えると、優奈はすぐに唇を尖らせた。
「否定してくださいよ、そこは」
「否定できる材料がない」
いつものやり取りだったが、今回は冗談で済ませていい話でもなかった。
日本ダンジョン十階層。
ここまで来ると、さすがにこれまでと同じ感覚で攻略できるほど甘くはない。
それまでの九階層までは、地上戦の延長線上にある厄介さだった。暗闇、爆発、透明、毒。面倒なギミックや相手は出てきたが、少なくとも敵は地面の延長で相対できた。
だが十階層で、ようやく日本ダンジョンにも本格的な“空”が出てくる。
「十階層の魔物は、空飛ぶぞ」
俺がそう言った瞬間、優奈の顔が分かりやすく曇った。
「うわあ……」
「反応が正直すぎるだろ」
「だって嫌じゃないですか」
優奈はゲートの向こうを見ながら、本気で嫌そうに言った。
「空飛ぶってだけで、もう絶対面倒ですもん」
「面倒だ」
俺はあっさり認めた。
「しかも初参戦だからな。日本ダンジョンにおいて、本格的な飛行型魔物はここが最初だ」
モニターに映していた簡易資料を切り替える。
そこに表示されたのは、翼の生えた小型の悪魔みたいな魔物だった。
黒に近い赤色の皮膚。
痩せた小柄な胴体。
顔つきは人間に似ているのに、目だけがぎらついていて、そこが妙に気味が悪い。
背中には蝙蝠に似た翼が生え、手足の先には鋭い爪。
そして、口元には獰猛そうな牙。
「リトルデーモン」
資料の名前を読み上げると、優奈はますます嫌そうな顔をした。
「名前からして嫌です」
「見た目もだろ」
「見た目もです」
優奈は即答した。
「なんでこう、十階層に来た途端、ファンタジー感が増すんですか」
「知らん。ダンジョンに言え」
だが、見た目の悪趣味さより問題なのは性能だ。
「こいつら、ただ飛んでるだけじゃない」
俺は資料の次のページを開く。
「群れで動く。高度差をつける。上から小さな魔力弾みたいな牽制もしてくるし、近づくと急降下して爪で切り裂きに来る」
「うわ、最悪です」
「しかも、単純にちょこまか動く」
「だから“飛んでる敵”に慣れてないと、目で追うだけで疲れる」
優奈は腕を組み、資料を見ながら唸った。
「空飛ぶせいで戦いづらいんですけど!」
「そりゃそうだ」
「いや、そこで納得しないでくださいよ!」
さすがに少し笑いそうになったが、今の優奈の文句は真っ当だった。
地上戦なら、優奈の強みはかなり分かりやすい。
《発射》で位置を取り、《延長(斬撃)》で距離を誤魔化し、《思考強化》で最短の答えを選ぶ。
だが飛行型が相手になると、そのままのやり方では燃費が悪くなる。
「発射があるだろ」
俺は一応そう言った。
「あれの一番の優位性は、空中戦に対応できることだ」
「分かってます!」
優奈はすぐに返した。
「でも、一体倒すごとに使ってたら魔力いくらあっても足りないです!」
「何のために《延長(斬撃)》を取ったと思ってるんだ」
「だ・か・ら!」
優奈は机に両手をつき、半ば叫ぶように言った。
「魔力が足りないです!」
……まあ、そこも正しい。
《発射》で飛んで、届く位置まで行って、そこで切る。
理屈としては簡単だ。
でもそれを空飛ぶ小型相手に一体ずつやっていたら、燃費が悪すぎる。
《延長(斬撃)》を飛ばすにしても、相手が空中で高度差をつけながら動く以上、地上の直線みたいにはいかない。
角度の調整もいる。
視線の移動もいる。
何より、地上戦以上に“外した時のロス”が大きい。
「仕方ないな」
俺はそう言って、椅子の背にもたれた。
「優奈も知ってる魔法を狙うか」
「知ってる魔法?」
「《節約ー初》だ」
優奈は一瞬きょとんとしたあと、納得したように目を瞬かせた。
「ああ……」
「十階層以降を考えるなら、そろそろ取っておいて損はない」
俺は続ける。
「今のためだけじゃない。空中戦も長期戦も、これから確実に増える。なら節約は腐らない」
「うーん……」
優奈は腕を組み直した。
「でも節約って、そんなに変わるんですか?」
「劇的ではない」
「ですよね」
「ただし、ないよりはずっといい」
俺は言う。
「もしくは、弓を使うかだな。どっちがいい?」
優奈はそこで、本気で悩んだ。
弓。
たしかに飛行型への対処としては理にかなっている。
高度差があっても狙えるし、魔力の消費を技術である程度ごまかせる。
だが、それは別武器だ。
今まで剣と《発射》と《延長(斬撃)》を軸に積み上げてきた優奈にとって、弓へ手を出すのは戦い方の芯をズラすことでもある。
優奈はしばらく考えてから、はっきり言った。
「……武器、変えたくないです」
「そうか」
「今ある自分の戦い方を、ちゃんと最後まで伸ばしたいです」
優奈は少しだけ真面目な顔になって続けた。
「弓を覚えた方が楽なのかもしれないですけど、私は剣と発射と延長を使いこなしたい」
その返答に、俺は小さく頷いた。
優奈らしい。
楽な別解へ逃げるんじゃなくて、今ある答えを伸ばしたいというのは、かなりこいつらしい選び方だった。
「じゃあ節約で行くか」
「はい」
「ただし、最初に言っておく」
俺は人差し指を立てた。
「節約魔法はあてにするものじゃない」
優奈が少し驚く。
「え?」
「魔法っていうのはそもそも、使用率と練度が高ければ、多少は魔力消費を抑えられるようになる」
「慣れれば無駄なロスが減る。だから節約系があるからって、それだけに頼ると逆に感覚が鈍る」
「なるほど……」
「だから節約は、あくまで保険だ」
「あると楽になる。ないよりはずっといい。けど“これがあるから大丈夫”って考え始めると、多分どこかで痛い目を見る」
優奈はそこで、少し考えてから聞いてきた。
「節約魔法そのものを使うごとの魔力消費って、どれくらいなんですか?」
「ほぼなしだ」
「……はい?」
「《節約ー極》でも、ほぼなし」
数秒、優奈は本気で固まった。
「え⁉」
そして次の瞬間、かなり大きな声が出た。
「強すぎません⁉」
「そう見えるだろ」
「いや、だって」
優奈は完全に納得いっていない顔だ。
「自分はほとんど減らないのに、他の魔法の消費は軽くなるんですよね? それ、普通に壊れじゃないですか?」
「壊れではない」
俺は首を横に振る。
「理由は二つある」
「二つ?」
「一つ目。節約で減るのは“使う側のロス”だ。魔法そのものの必要量をゼロにするわけじゃない」
「例えばお前が百必要な魔法を撃つ時、節約があっても必要量そのものが十になるわけじゃない。せいぜい八十とか七十とか、その程度だ」
「それでもかなり大きくないですか?」
「大きい」
俺は認めた。
「だから優秀なんだよ。けど、万能じゃない」
「二つ目は?」
「二つ目は、節約があるからって雑に使うと意味が薄い」
俺は答える。
「外せばロスはロスだし、無駄撃ちすれば無駄撃ちだ。結局、うまいやつが使うほど強い魔法ってだけだ」
優奈はそこでようやく、少し落ち着いた顔になる。
「なるほど……節約が強いっていうより、うまい人の強さをさらに底上げする感じなんですね」
「そうだ」
「だからお前と相性が悪くない」
今の優奈は、もう昔みたいに雑な魔力消費はしない。
《発射》も《延長(斬撃)》も、前よりずっと使い方が洗練されてきている。
なら、節約の恩恵はちゃんと受けられる。
逆に、魔法を雑にばらまくだけのやつが節約を持っても、思ったほど強くならない。
そういう性質の魔法だ。
「じゃあ……」
優奈が俺を見る。
「取るなら今、ですよね」
「今だな」
俺は机の上に、魔法ガチャ飴を一つ転がした。
色は薄い緑。
節約系統を引きやすい調整をかけたやつだ。
優奈はそれを見て、少しだけ緊張した顔になる。
「なんか、久しぶりですね」
「そうか?」
「最近ずっと、既に持ってる魔法を磨く方が多かったので」
言われてみればそうだ。
七階層で探知を覚え、八階層で肉体強化の耐久寄りを扱い、九階層ではその延長で継戦能力を上げた。
新しい魔法を取るというより、今ある魔法の運用を詰める期間が長かった。
だからこそ、ここで一つ補助系を入れる意味は大きい。
「行けるか」
「行けます」
優奈は飴を手に取った。
「武器は変えたくないので」
「なら、引け」
優奈は頷いて、飴を口へ入れた。
しばらく沈黙が落ちる。
魔法ガチャ飴は、食べた瞬間に確定で何かが起きるわけじゃない。
魔力の流れが変わり、感覚が少しずつ馴染み、身体が“覚える”までに一拍ある。
優奈は目を閉じたまま、数秒後、小さく息を吐いた。
「……来ました」
「何だ」
「《節約ー初》です」
「よし」
狙い通り。
優奈もほっとしたように胸を撫で下ろした。
「なんか、感覚としては不思議ですね」
「何かを増やすっていうより、流れが滑らかになる感じです」
「それで合ってる」
「でも、これだけだとどれくらい変わったか分からないです」
「だったら試すしかない」
俺は立ち上がった。
優奈もすぐにそれに続く。
「今から十階層ですか?」
「今からだ」
「魔法ってのは取った直後に一度使わないと、自分の感覚として定着しづらい」
「なるほど……」
十階層ゲートの前に立つ。
向こう側から漂ってくる空気は、地上の階層より少し冷たく、妙に高い天井を感じさせた。
飛ぶ相手がいる場所は、それだけで空間の印象が違う。
「最後に確認するぞ」
俺はゲートへ手をかけたまま言う。
「リトルデーモンは飛ぶ。高度差をつける。魔力弾も急降下もある。群れで来る」
「お前は《発射》と《延長(斬撃)》を軸にする。節約は保険だ。あてにしすぎるな」
「はい」
「節約があるからって、全部発射で追い回すな」
「はい」
「狙うべきやつを狙え。群れの中で一番邪魔な位置のやつから落とせ」
「はい」
返事が少しずつ早くなる。
緊張もあるだろうが、同時にやることがはっきりしている顔だった。
ゲートを抜ける。
十階層の空間は、まず天井が高かった。
広い。
縦方向に余白がある。
それだけで、地上戦の感覚が少し狂う。
「うわ、やっぱり嫌な感じです」
優奈が率直にそう言う。
「だろうな」
その直後、羽音が聞こえた。
正面上空。
壁際。
そして左奥。
リトルデーモンが三体。
いや、すぐに五体へ増える。
群れだ。
小さな魔力弾が一発、上から飛んできた。
優奈は反射で横へ流れる。
発射は使わない。
まずは脚だけで避けた。
「来ました!」
「ああ、見えてる」
俺は短く答える。
「上二体は放っていい。先に左奥の低いの落とせ」
優奈が即座に《延長(斬撃)》を振るう。
角度は斜め上。
まだ少しぎこちないが、ちゃんと届く。
一体、落ちる。
同時に、別の一体が急降下してきた。
「今!」
優奈が今度は《発射》で半歩上へ身体を逃がし、そのまま至近距離で斬る。
二体目。
そこで、優奈が少し驚いた顔をした。
「……あれ」
「どうした」
「いつもより、ちょっとだけ軽いです」
「だろ」
節約の効果は劇的じゃない。
でも、こういう連続処理になると差が出る。
《発射》一回。
《延長(斬撃)》一回。
その積み重ねの中で、ほんの少しだけ余る。
その“少し”が、飛行型相手には大きい。
リトルデーモンは、ただ飛んでいるだけじゃない。
高度差をつけ、こちらの視線を散らし、魔力弾で気を引いてから、急降下の爪を合わせてくる。
群れでやられると、普通に面倒だ。
だからこそ、燃費改善の価値が出る。
優奈は三体目へ《延長(斬撃)》を飛ばし、四体目へ発射で追いつき、落とす。
そこで一度だけ息を吐いた。
「まだ余裕あります」
「ならその感覚を覚えろ」
俺は言う。
「節約は“急に楽になる魔法”じゃない。こういう小さな差を最後まで残すための魔法だ」
「はい!」
五体目のリトルデーモンが、天井近くへ逃げる。
優奈はすぐには追わない。
さっきまでなら焦って追っていたかもしれない。
だが今は、少しだけ待てる。
相手が降りるタイミングを見る。
魔力弾を撃つ軌道を読む。
その上で《延長(斬撃)》。
仕留めた。
「いいな」
思わずそう言うと、優奈は少しだけ得意そうに笑った。
「今の、ちょっと良かったです」
「ちょっとじゃない」
「空飛ぶ敵相手に、“追いかけない”判断ができたのはでかい」
リトルデーモンは厄介だ。
だが、追えば追うほど相手の土俵へ乗る。
だから全部を発射で追い回すんじゃない。
切るべき相手だけを切る。
降りてくるやつを待つ。
節約は、その選別の余裕を少しだけ広げる。
優奈はそこで、ようやく本気で実感したみたいに呟いた。
「……これ、ずっと効きますね」
「だから言っただろ」
「今の十階層のためだけじゃないんだ」
「そうだ」
俺は頷く。
「空中戦、長期戦、消耗戦。どれが来ても腐らない。だから保険として優秀なんだよ」
優奈は小さく息を吐いてから、真っすぐ前を向いた。
「じゃあ、ちゃんと使いこなせるようにします」
「そうしろ」
十階層の本格攻略は、まだこれからだ。
リトルデーモンはあくまで入口に過ぎない。
けれど、その入口で、優奈は一つちゃんと答えを増やした。
飛ぶ敵。
高度差。
燃費の悪い対空。
そこへ《節約ー初》という、派手ではないが確実に効く保険が加わった。
地味だ。
だが、こういう地味な一手ほど、後で差になる。
空を飛ぶ魔物を睨みながら、優奈が小さく笑う。
「ちょっとだけ、勝てる気がしてきました」
「ちょっとでいい」
俺は答えた。
「そういうのは、最初から満点を狙うもんじゃない」
十階層。
初めての飛行型。
そして、優奈にとっての新しい消耗戦。
面倒なのは間違いない。
でも、たぶん越えられない壁じゃない。
そう思えるくらいには、今の優奈はもう、前よりずっと強くなっていた。
(つづく)




