第94話 線の先へ(一期最終話)
夜の甲板は、照明が落とされていた。
足元の誘導灯だけが細く伸び、金属の床を灰が薄く流れていく。荒野から吹き上げる風は濃く、頬に当たるたびざらついた。
煙草に火を点ける。
肺の奥に熱を落として、しばらく吐かない。
――煙の匂いが、別の匂いを連れてきた。線香。消毒。湿った布。
あの日の、葬式の空気だ。
母の棺は、UDFの簡易礼拝室の中央に置かれていた。
床は樹脂マットが敷かれ、角のあちこちが灰で黒ずんでいる。靴裏の泥と消毒液が混じって、甘いような酸っぱいような匂いが残っていた。
白い布がかけられ、花の色だけが浮いている。泣き声は少ない。声を出せる人間が、最初から少ない場所だった。
扉が開く音がして、振り向いた。
父――コンラートが入ってきた。
赤いベレー帽を被っていた。だが、制服ではなかった。戦闘服の上に外套だけを羽織り、肩口には灰がこびりついている。
袖の端が黒く焼け、手袋の指先だけが白っぽく擦り減っていた。
顔は痩せ、目の下に影が落ちている。泣いた痕はない。だが、瞳の奥が乾いていない。水じゃない。もっと重いものが溜まっている。
彼は棺の前で止まり、敬礼もしないで、ただ一度だけ頭を下げた。
その動きで、赤いベレー帽の影が一瞬、目元を深く切った。指が小さく震えて、すぐに止まる。
それから、ヒロの横まで来た。
近いのに、遠い。息づかいだけが、距離を測る。
父は何か言おうとして、口を開きかけ――閉じた。
棺の白い布ではなく、部屋の隅の出口を見ている。いつ呼ばれても立ち上がれる目だ。
内ポケットから、薄い透明袋を出した。封緘テープと回収番号。
中には、煤で角が欠けた職員証。母の顔写真は熱で波打って、名前だけがかろうじて読めた。
もう一つ。
小さな指輪が、袋の底で光った。銀色の輪は少し歪んでいる。指から外すときに曲がったのか、熱で捻れたのかは分からない。
父は袋を開け、職員証と指輪を取り出した。
ヒロの前――供物台の端、白布の影に、そっと置く。乱暴さはない。丁寧でもない。任務の手つきだ。
指輪が、かすかに鳴った。
硬い床に触れて、金属が短く音を立てただけなのに、その音が部屋の沈黙を切った。
父はヒロを見た。
まっすぐではない。視線が一瞬だけ逸れる。躊躇いではなく、痛みの回避だ。
そのまま、何も言わない。
通信のバイブが父の胸で鳴った。
父は反応を顔に出さず、外套の前を一度だけ押さえ、踵を返した。
外套の背中に、灰が粉のように揺れている。
赤いベレー帽も、揺れに合わせてわずかに沈み、徽章が灯りを拾って消えた。
最後に見えたのは、顔じゃない。
振り返らない背中と、扉が閉まる音だった。
――そこで記憶が途切れる。
ヒロはようやく息を吐いた。煙が夜気に溶ける。
現実の鉄と油の匂いが戻ってきて、胸の痛みだけが遅れて追いついてきた。
ヒロは手すりの前に立ち、遠くの黒い地形を見ていた。ベヒモスが沈んだあたりは、まだ熱が残っているのか、空気がわずかに揺れて見える。
背後でブーツの音が鳴った
「起きてたか」
アキヒトだった。ポケットに手を突っ込んで、上着の襟を立てている。風に押されても姿勢が崩れない。
「寝るほど暇じゃない」
ヒロは前を向いたまま返す。
アキヒトは隣に立ち、同じ荒野を見た。少し間を置いてから、低い声で言う。
「さっき、UDFが来てたな。何の用だった」
「感謝状とログだ。あと番号」
「番号?」
アキヒトの目が細くなる。
「あれは、ただの軍人の匂いじゃなかった。白帯の外側で、灰を吸って生きてきた匂いだ」
言い方は乱暴だが、観察は正確だった。
ヒロは短く息を吐く。
「セルゲイと名乗った。方面軍の直轄で動いてる」
「ヴァイスの知り合いか」
「ああ」
ヒロは横を見ない。だが、答え方がそれだけで十分だった。
「何者だ」
「白帯の外側で、勝手に伸びてくる手を折る連中だ」
ヒロは淡々と言う。
「企業の裏、武装集団、妙な技術。表に出せない仕事だと本人が言ってた」
「勧誘か」
「今すぐじゃない。種を置いていっただけだ」
風が少し強まり、床の灰が走った。誘導灯の光が一瞬だけにじむ。
アキヒトはポケットに指を滑らせた。布越しに紙の角が当たる。
コンラートから預かった写真。
軽いのに、妙に重い。握れば握るほど、余計なものが頭に混じる気がする。
「白帯を守るには、外側で先に折る必要がある。そういう理屈だ」
「理屈は分かる。匂いもな」
アキヒトは荒野に視線を置いたまま言う。
「で、その番号はどうした」
ヒロは上着の内ポケットに手を入れ、小さな樹脂のカードを出した。擦れた印字。軽い。軽すぎる。
「これだ」
アキヒトは受け取ろうとしない。代わりに言う。
「今夜は俺が持つ」
ヒロが視線だけでアキヒトを見る。
「勝手に押すなよ」
「押さない。預かるだけだ」
アキヒトはようやく手を出し、カードを受け取った。胸ポケットにしまう。動きは早い。儀式みたいに大げさにしない。
「分担か」
ヒロが言う。
「そうだ」
アキヒトは即答する。
「お前は隊長だ。立つ場所は変えるな。ただ――余計なものが手元にある時は、荷物を分けろ」
ヒロは返さない。否定もしない。受け止めるだけだ。
沈黙が落ちる。重い沈黙ではない。風が埋める沈黙だ。
やがて、ヒロが口を開いた。
「今回、止めたぶんだけ助かった」
短い言葉だ。言い訳も、飾りもない。
「それでも、死んだやつはいる」
アキヒトは頷く。
「いる。だから忘れない。それでいい」
「答えはないな」
「現場にいる限りはな」
アキヒトの声は乾いている。乾いているから、嘘がない。
ヒロは荒野の上に薄く伸びる雲を見た。雲というより灰の層だ。星は薄い。夜なのに空が重い。
「昼も弱い。太陽があるのに、影が薄い」
「雨が降れば、もっと嫌になる」
アキヒトが言う。
ヒロが続ける。
「灰が水を吸って、黒い泥になる。靴の裏に貼りつく。匂いも変わる。洗っても落ちない」
2人は同じものを見てきた。だから説明はいらない。言葉は確認で足りる。
少し間を置いて、ヒロがふいに言った。
「コンラートは最後に何か言ったか」
アキヒトの肩がわずかに動いた。
ポケットの写真が思い出される。言葉を探す前に、喉が一度だけ詰まる。
ヒロはその気配で察したのか、すぐに言う。
「いや。言わなくていい」
命令じゃない。弱さでもない。戦友としての判断だった。
次の瞬間、ひときわ濃い灰風が吹いた。
床の灰が舞い上がり、2人の足元を叩く。ヒロは腕を伸ばして風の中の灰を掌で受けた。粉は指の隙間に溜まり、すぐに冷たくなる。
その手首を、アキヒトが掴んだ。
強くはない。止めるためではなく、共有するための掴み方だ。
「一人で受けるな」
アキヒトが言う。
ヒロが視線を横に向ける。怒ってはいない。笑ってもいない。だが、表情は崩れていない。
「ただの灰だ」
「ただの灰でも、積もる」
アキヒトは手を離さないまま続ける。
「お前が掴むものは、俺も掴む。お前が伸ばす手は、俺も横で見届ける」
ヒロは一度だけ息を吐いた。掌を握り、灰を落とす。
「だから迷うな、ってやつか」
「そうだ」
アキヒトは短く言う。
「迷っていいのは、立ったあとだ。立つ場所を捨てるな」
ヒロは手首を軽くひねって掴みを外す。乱暴じゃない。合図だ。
「分かった」
それだけ言って、拳を作る。
アキヒトも拳を作る。
軽く合わせる。乾いた音がして、それで終わりだ。
灰の風はやまない。荒野は暗い。だが、暗いままでは終わらない。
ヒロが踵を返す。
「戻るぞ。明日も回す」
「ああ」
アキヒトは半歩横につき、同じ速度で歩き出した。
誘導灯の列が、2人の影を短く切っていく。背中には、白帯の灯りがある。前方には、まだ名前のついていない戦場がある。
灰の夜の中、2人の足音だけが、明日へまっすぐ残った。
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エピローグ
巨大移動要塞ベヒモスは、最終的に企業連合軍の迎撃作戦によって「撃破された」という扱いになった。
公表されるのはその筋書きだ。現場で落とした手の中身は、報告の上では綺麗に整理され、功績は旗の下へ回収される。
だがこの一件にUDFが正面から関与することは叶わなかった。かろうじて残っていたUDFの権威は、ここで決定的に剥がれ落ちる。
一方で「撃破を主導した」とされる3企業の威信と影響力は急速に増大し、ベヒモス撃破以降の秩序と勢力図は彼らを中心に組み替えられていく。
世界はその書き換えを無視できなくなる。
灰だけが黙って降り続けていた。
──第1部 完──
――続報を待て!




