第93話 眠りの扉と、番号だけの名
夜の《グレイランス》は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
走行機関の振動だけが、ゆっくりと艦体を揺らしている。子ども区画は消灯済みで、廊下には足音ひとつない。
ヒロはブリッジに近い通路を歩いていた。内線で「ブリーフィングルームへ」と呼び出されたのは、ついさっきだ。
扉の前で一度だけ息を吐き、開閉スイッチに手を伸ばす。
*
部屋の中には、すでに3人いた。
テーブルの上に肘をつき、つまらなさそうにペンを回しているジル。隣で背もたれにもたれ、煙草の代わりにコーヒーを口にしているヴァイス。
そして、UDFの制服を着た男がひとり。
男は立ち上がり、ヒロを見た。
「来たか。……VOLKの隊長」
声は低く、押しつけがましさがない。年はヴァイスより少し上だろう。こめかみに白いものが混じり、目尻の皺が現場の長さを物語っていた。
男は次に、ヴァイスへ視線を投げる。
ほんの一瞬。言葉はない。
だが、ヴァイスの指がカップの取っ手で止まる。視線だけが返り、男は小さく顎を引いた。
――挨拶と、確認。それだけで十分だ、と言っている。
「座れ」
ヴァイスが低く言う。
「客だ」
ヒロは軽く会釈して、空いている椅子に腰を下ろした。
男は短く名乗った。
「セルゲイだ。UDFから来た」
ジルが眉を上げる。
「ずいぶん雑な名乗りだね。“どこ”のUDF?」
「必要な肩書きだけでいい」
セルゲイは淡々と言った。
「今は方面軍の直轄で動いてる。所属は……聞かないほうがいい」
言い切って、セルゲイはテーブルに薄い封筒を置いた。古い、公文書用の紙だ。
「まずはこれだ。方面軍からの公式な感謝状」
ヒロが封筒を見る。
「ベヒモスのコアを落とした。《グレイランス》とVOLKへ、とな」
「紙か」
ジルが身を乗り出す。
「まだこういうの使ってるんだ。インクの匂い、ひさしぶりだ」
「偉い連中は形を残したがる」
セルゲイは小さく息を吐いた。
「それと、戦闘ログの一部。ヘルマーチとベヒモスに関するデータの閲覧権限。ジル宛に回してある」
「助かるよ。こっちのログとも突き合わせたい」
ジルが目を細める。
ヴァイスはカップを置き、短く言った。
「礼は受け取る。だが、うちは仕事で動いただけだ。白帯と艦を守る。それが契約だ」
「分かってる」
セルゲイは頷いた。
「その“仕事”ができる部隊が、今はほとんど残っていない。だから伝令じゃなく俺が来た」
ヒロは封筒に指をかけた。紙のざらつきが妙に現実を押し付けてくる。
「感謝状だけなら、俺を呼ぶ必要はない」
「話が早い」
セルゲイが言う。
「用件は2つ。礼の受け渡しが1つ。もう1つは――白帯の“外側”の話だ」
ジルが肩をすくめた。
「外側。面倒な匂いしかしないね」
「面倒だ」
セルゲイは否定しない。
「白帯の内側は守るものがはっきりしてる。だが、白帯を削る手はいつも外から伸びる。企業も、武装集団も、レゾナンス由来の技術も」
ヒロの眉が動く。
「お前は、それを潰しに行く側か」
「“先に折る”側だ」
セルゲイは言葉を選ぶように続けた。
「企業が灰の外に流してる兵器の図面を止める。流通に紛れた部品を押さえる。勝手に軍を名乗ってる連中を散らす。書類の上では『治安維持』だ」
声に色はない。現場の報告みたいに平たい。
ヒロの指が、無意識にテーブルの縁を押さえた。
治安維持。その言葉の響きが、古い記憶を引っ掻く。
「実際は、もっと泥だらけだ。表に出せない手で、白帯の寿命を延ばす」
ヴァイスが、そこで一言だけ挟む。
「“直轄”って言ったな」
セルゲイはヴァイスを見る。言葉は返さない。
代わりに、胸元の識別票に指先が一度触れた。
刻まれているのは部隊名ではなく、数字だけだ。かすれかけた「108」。
ヴァイスはそれ以上聞かない。目だけで「了解」を返した。
セルゲイは話をヒロへ戻す。
「今すぐ来いとは言わん。ここには、ここで守るべきものがある。さっき廊下で、子ども区画の消灯も見た」
ヒロは黙って聞いている。
「だが、いつか白帯を守るだけじゃ足りない、と感じる日が来る。守ってるはずのものが、外から削られていくのを目で見る日がな」
「種まきか」
ヒロが言う。
「そうだ」
セルゲイはあっさり頷いた。
そこで一度、間を置く。
「もう1つだけ、個人的な確認をする」
ヒロが顔を上げる。
「何の」
セルゲイの視線が、ほんのわずか揺れた。躊躇というより、古い記憶を触るような揺れだ。
「コンラートの名を、戦場で聞いた」
空気が一段冷える。ヒロの表情が硬くなるのを、セルゲイは見逃さない。
硬くなった理由は、一つじゃない。だが、ヒロは何も言わなかった。
「俺は昔、あの男を“隊長”と呼んだことがある。だから、お前の顔を一度見ておきたかった」
ヴァイスが、何も言わずに視線を落とす。言葉にすると壊れる種類の事情だ。
セルゲイは話を戻した。
「外側の仕事は褒められない。給料は出る。代わりに、正面から胸を張れる戦い方は回ってこない」
「汚れ仕事ってやつか」
ヒロが低く言う。
言ってから、自分の声に棘があることに気づいた。
「綺麗には言わない」
セルゲイは真正面から頷いた。
「白帯の内側を守るには、外側で“先に折る”必要がある。折らないと、いずれ内側が戦場になる」
ヒロの視線が、わずかに逸れた。先に折る。その言い方が、喉の奥に何かを引っかける。
ジルがまとめるように言う。
「要するに、こっちが寝られるように、外で殴り合ってる連中がいるって話ね」
「そういうことだ」
セルゲイは肯定した。
そして制服の内ポケットから、小さな樹脂製のカードを取り出す。擦り切れ、印字の一部が薄い。
「直通コードだ」
テーブルに置く。
「軍の窓口じゃない。正規の手続きだと届かない回線で、俺たちに繋がる番号だ」
ヒロはカードを見下ろした。
「使えと?」
「使わなくていい」
セルゲイは即答する。
「お前の居場所が当分ここにあるならな」
少しだけ間を置いて、続ける。
「ただ、白帯の上だけじゃ届かない、と感じたら。――その時に思い出せ」
ジルが横から軽く言った。
「今ここで返事しなくていいよ、隊長。とりあえずポケットに突っ込んどけば」
ヴァイスも短く頷く。
「進む方向を変える気になったときに使えばいい。変えないなら、それも選択だ」
ヒロはカードに手を伸ばし、掌に収めた。樹脂の軽さ。角の丸い感触。指先で挟める程度の重さしかない。――なのに、その向こう側に積み上がっている現場は軽くない。白帯の縁、灰の湿り、押し寄せる列の圧。誰かの判断ひとつで崩れるものばかりだ。
「今はここでやることが残ってる」
ヒロは視線を落としたまま静かに言った。言い訳にはしない。確認として口に出す。
「白帯と艦と――あいつらを守るのが先だ」
セルゲイは短く頷いた。否定もしない。分かっているという顔だ。
「ヴェルナー。UDFに戻る気はないか」
その問いにヒロはすぐに返せなかった。戻るという言葉の意味がひとつじゃない。組織に籍を置くこと。命令系統に乗ること。過去に戻ること。あの名の下にもう一度立つこと。――どれも簡単に「はい」か「いいえ」で片付くものじゃない。
ヒロはカードの縁を親指でなぞり、呼吸を整えた。
「今はない」
答えは短くした。それ以上を言えば揺れが見える。
「そうか」
セルゲイはもう一度頷く。押し込まない。代わりに次の一文だけを置く。
「その上で、外側が必要になったら連絡しろ。俺たちはいつでも"外"にいる」
"外"という言い方が妙に現実だった。艦の内側からも、白帯の内側からも、少しだけ離れた場所。そこに立ち続ける連中がいる。ヒロはカードを掌の中で握り直し、軽さを確かめるみたいにもう一度だけ頷いた。
*
セルゲイが去ると、ブリーフィングルームの空気が少しだけ軽くなった。扉の閉まる音が遠ざかり、残ったのは3人と作戦卓の薄い光だけだった。
ヴァイスは椅子に深くは座らないまま、端末の表示から目を上げた。
「どう見る」
ジルは迷わず肩をすくめる。癖みたいな所作だった。
「怪しい。けど嘘じゃない」
言い切ってからジルは一度だけ画面に目を落とした。確認するのは結論じゃなく、結論に至る筋のほうだ。
「ログの出し方も筋も通ってる。きれいじゃないけど、現場としては要るやつ」
ヴァイスは何も言わず、その視線をヒロへ移した。
カードはまだヒロの掌にあった。樹脂の軽さが逆に落ち着かない。指先で縁をなぞると、現場のざらつきが思い出される。白帯の光の内側だけで完結する話じゃない、と、さっきの言葉がしつこく残っている。
ヒロはすぐに返さなかった。返す言葉がないというより、言葉にした瞬間に決まってしまうのが嫌だった。
「今はここを離れるつもりはない」
ようやく口にすると、声は自分でも驚くほど落ち着いていた。言い終えてからもう一度カードを見る。
「でも、見てしまった」
ジルが小さく頷く。笑いはない。
「白帯の内側だけが世界じゃないってこと」
「ああ」
ヒロはカードを胸ポケットに滑り込ませた。捨てる動きじゃなく、しまう動きにした。薄い樹脂が布越しに当たって、そこにあると分かる。
「捨てない。必要になる日が来たら使う」
ヴァイスはそれを見てひとつだけ息を吐いた。許可でも否定でもない、区切りの呼吸だ。
「それでいい」
短く言い、視線を作戦卓へ戻す。その言葉の先を少しだけ柔らかく続けた。
「どこで何を守るか決めるのは自分だ。誰かに押しつけられた持ち場じゃ長くはもたん」
「分かってる」
ヒロは答えた。
分かっているで済む話じゃないのも分かっている。胸ポケットの中でカードの角が布に当たり続けた。軽いのにやけに存在感だけが残る。
*
部屋を出ると、廊下は相変わらず静かだった。
子ども部屋の前を通りかかると、扉の隙間から、かすかな寝息が漏れてくる。
ヒロは立ち止まり、しばらくそこに佇んだ。
この艦の中で眠っている者たち。
白帯の外側で、名前も知らない誰かと戦っている者たち。
そのどちらにも、自分はもう関わってしまっている。
かつて、どちらかを選べなかった。
選ぼうとして——両方を失った。
(ここから先、か)
胸ポケットの上から、指先で軽く叩く。
すぐに答えは出ない。
出すつもりもない。
ただ——いつか、この艦を離れて別の場所に立つ日が来たとしても。
この夜の静けさと、扉の向こうの寝息だけは、忘れたくないと思った。
ヒロは背を扉から離し、ゆっくりと歩き出した。
白帯の光は、まだ船の下で細く続いている。
その先で、自分がどんな役目を選ぶのか。
答えを出すのは、もう少し先の話だ。
――次回、最終話「線の先へ」へ続く




