第83話 資産を囲む戦列
ブリッジでは通信席のジルが各社回線を束ね入ってくる声を次々と整理していた。
艦長席のヴァイスは背後から全体を見渡し要点だけを拾って必要な指示だけを落としていく。
カルディア本隊。アストレイアの遠距離支援部隊。グラウバッハの重砲陣。やせたUDFの前線指揮所からのかすれた声。
どこも画面の向こう側は余裕とは程遠い。それでもベヒモスの周囲に車列と砲列を並べる準備は着実に進んでいた。
『——こちらカルディア第三方面防衛隊。長距離射撃隊予定位置への展開完了』
『アストレイア試験部隊より報告。オーバードブーストリリス基幹ユニットグラウバッハ製フルアーマー一式――統合換装工程進行中。射出シーケンスおよびカタパルト連携は準備完了。本作戦は当艦カタパルトより射出する』
『グラウバッハ地上戦群。工業都市の借りは高くつけて返す。ついでにカルディアとアストレイアの切り札がどこまで使えるかも見せてもらおう。今日の戦場はどこもかしこも実験場だ』
どの声にも正義感より先に計算と打算の色が混ざっている。
ジルは短く息を吸い回線に乗る声色だけを整えた。
「こちらクレイブアクト陸上戦艦グレイランス。アストレイア艦射出の護衛に徹する。射出タイミングは当艦管制と同期――以上」
復唱するように通信を締めジルは次の回線へ指を滑らせた。
灰の向こうベヒモス周辺の空域と地表に三社の戦列が少しずつ円を描くように集まり始めていた。
*
同じころ後方ハブではサキが子どもたちを連れて外壁の観測窓に立っていた。
ハブの空気は消毒と乾いた毛布の匂いが混じっている。床には簡易ベッドが並び救護班が小声で動いていた。ここは安全なはずの場所だ。それでも壁の隅には灰が薄く溜まり非常灯が夜を冷たく照らしている。
窓の向こうでグレイランスがゆっくりと向きを変えた。
地面がわずかに震え粉じんが照明に引っかかって白く舞う。
遠いはずの低い唸りが硝子越しに腹の底まで届いた。あの艦が動くときの音だ。
子どもたちは声を出さない。眠い子はサキの外套の端を握り起きている子は窓枠を両手で掴んでただ目で追っていた。誰かが息を吐き硝子に白い曇りが咲く。小さな手のひらがそれを拭ってまた艦影を確かめる。
近くにいたときは大きすぎてただの壁のようだった。離れていくほど背中の輪郭が「艦」になっていく。守ってくれるものが戦列へ向かう背中になっていく。
サキは喉の奥が一度だけ動いた。声にしたらここに残っている子どもたちの体温まで揺れてしまう。代わりに握られた指を握り返す。小さな骨が驚くほどしっかりしている。
グレイランスの灯りがひとつふたつ灰の霧に吸われていく。最後に唸りが細くなってハブの発電音と混ざりどちらがどちらか分からなくなる。
それでも窓の外を見ている子の手が遅れて上がった。
誰に教わったわけでもないただの見送りの仕草だった。
サキも同じように静かに手を上げた。
*
医務室は艦内のほかの区画より少し暗かった。壁の向こうで主機が低く唸っている。その振動だけが艦が急いでいることを知らせていた。
「上着脱げ」
マティアスが椅子を蹴って近づいてくる。ヒロは無言で戦闘服のジッパーを下ろし上半身をさらした。
聴診器が当たる。冷たい金属が古い傷の上を静かになぞる。傍らのモニターにはかろうじて読める心電の波形が揺れていた。
「深呼吸」
言われたとおり息を吸って吐く。
「肺心臓。今のところは"軍隊基準で"良好だ」
「"今のところは"か」
「医者が未来を保証したらそれは詐欺だ」
マティアスは淡々と言いライトで瞳孔を確認し指を追わせ膝を軽く叩いた。脚は問題なく動く。震えもない。
「フルアーマーでベヒモスに突っ込む隊長にしてはまだ持ってるほうだな」
端末に数行入力してから視線だけを上げる。
「健康診断だけならこれで終わりだが」
ヒロは天井を見たまま短く吐き出した。
「それだけで済む話じゃないのは分かってるだろ」
「ベヒモス行きの隊長がその顔でここに来て"何もない"なら俺のほうが検査をやり直す」
マティアスは小さくため息をつき背もたれにもたれた。
「言葉にする気はあるか」
少しの沈黙のあとヒロが口を開く。
「ヘルマーチの増強剤。噂じゃなくて実物を見たことがあるか」
「やっぱりそこに行くか」
マティアスは机の引き出しを開け掌サイズの銀色のケースを取り出した。照明を受けて無駄のない角が鈍く光る。
「"元ネタ"ならな。ヘルマーチの配合そのものじゃないが出どころは同じ筋だ」
「本当に効くのか」
「脚も反応も一段ぶんは引き上がる。痛みも飛ぶ。撃たれても数分は走れる。そういう類だ」
説明は短く削れるところはすべて削ったような口調だった。
「代わりに何が壊れる」
「心臓血管神経。正直なところその日じゃなくその"あと"の保証は一切できん」
マティアスは自分の指先でケースの縁を軽く叩いた。
「短時間だけ身体をムチで叩き起こす薬だ。叩き起こしたぶんの皺寄せは必ずどこかで来る。繰り返せば先に悲鳴を上げたところから潰れる」
ヒロは視線を落とし一度だけケースを見た。
「一回なら」
「その言い方をするやつが"一回でやめた"例は少ない」
即答だった。
「生き残って"まだやれる"と勘違いする。それで一線を越えていく」
医務室に主機の唸りと機械のノイズだけが残る。ヒロはその音を聞いているのかどうか分からない目で天井を見ていた。
「それでも聞かないわけにはいかない」
低く押し殺した声だった。
「これ以上落としたくない命がまだ残ってる。コンラートに届かなきゃ今回で全部終わる。そこで止まるなら止まる前に打てる手があるかどうかくらいは知っておきたい」
そこまで言って口を閉じる。言葉にならなかった分は胸の内側で燃え残った。
マティアスはヒロを正面から見た。
「"届かない"って言葉を隊長の口から聞くのは趣味が悪いな」
「事実は事実だ。あいつには一度も届いてない」
自分の声に言葉より先に苛立ちが混じるのが分かる。橋の上もそのあとも守れなかった顔がいくつも浮かんでは消えた。
「そうか」
短く返してからマティアスは銀色のケースをヒロの前に置いた。
「これは処方じゃない。勧めてもいない」
声音がわずかに硬くなる。
「身体の状態とリスクは説明した。ここから先は医者の領分じゃない。軍人の仕事だ」
ヒロはしばらく動かずそれから静かに手を伸ばした。冷たい金属の感触と想像していたよりも重い質量が掌に乗る。
「効き目と代償はさっき言ったとおりだ。飲んで生き残っても後遺症がゼロとは言わん。飲まずに死んでも誰も訴えられない」
「救いがない話だな」
「戦場で出回る薬に救いを求めるな」
マティアスは肩をすくめた。
「カルテには何も残さない。"ベヒモス出撃前に健康診断をした"――記録に残るのはそれだけだ」
ヒロはケースをポケットに滑り込ませた。深く押し込まず指先が届く位置に。
「どっちに転んでも文句は言うなよ」
そう言うとマティアスはわずかに口元だけで笑った。
「医者はいつも文句を言う。飲んだやつにも飲まなかったやつにもだ」
椅子を回し端末に向き直る。
「生きて戻れ。壊れていてもいい。そのときポケットに何が残っているかはお前が決めろ」
ヒロは短くうなずき医務室を出た。
通路に出るとポケットの中のケースが妙に重く感じられる。そこに手を差し込むことはせず布越しに一度だけ指先で触れて離した。
(コンラートに追いつくための一歩か。あいつと同じ線に足を踏み入れる一歩か)
答えはまだ出していない。ただベヒモスへ向かう脚だけはもう誰にも止められなかった。
*
ブリッジ横の小部屋は灯りを落としてあった。膝ほどの高さの卓から灰色の光が立ち上がる。投影された地形図の中央にひときわ大きい影がある。
ベヒモス。
周囲には味方と他社艦隊の識別灯が点々と並び上空には輸送艇の周回軌道。白帯の導光が南北に細く伸びている。そのすぐ脇にアストレイア艦の射出デッキから伸びる増速軌道が重なっていた。
「アストレイア艦オーバードブースト射出ウィンドウ開きます」
報告したのは戦術管制のミナトだった。淡々としているのに言葉の端だけが硬い。数字の先に何が起きるかを先に見てしまっている声だ。
「各社艦隊との距離はここで頭打ちです。これ以上詰めると互いに射程へ入ります」
「いい。ここで止める」
ヴァイスがうなずいた。
「射出はアストレイア艦。タイミングはグレイランスの管制に合わせろ。護衛はグレイランスが張る。ベヒモスの挙動に釣られるな」
「了解」
隣で腕を組んで聞いていた戦術長アークが短く返す。ミナトも同じ速度でうなずき二人はブリッジへ戻っていった。ドアが閉まると外のざわめきが遠のく。
残ったのはヴァイスとヒロだけだった。
卓の上で灰色の巨体がゆっくり揺れている。その足もとを白帯の導光がかすめている。避難の流れはまだ止まっていない。
「最後の確認だ隊長」
ヴァイスは煙草の代わりに卓の縁を指で軽く叩いた。
「クレイブアクトにとってベヒモスは"資産"だ。ここで沈めれば終わる。だが終われば何も残らん。奪えれば契約も名も跳ね上がる」
事務的な声だった。会社の損得を述べているだけの口調。
「それが会社の都合だな」
「そうだ」
ヴァイスは表示を切り替える。周辺艦隊の灯が薄れ白帯の導光が強調された。
「だが避難ルートを潰すなら話は別だ。白帯を踏ませてまで資産を守る気はない」
白帯の導光の上に避難誘導のマーカーが並ぶ。小さな点滅がまだ"人が動いている"ことを示していた。
「会社としての計算はここまでだ」
ヴァイスはそこで言葉を切りヒロを見た。
「ここから先はお前の判断になる。何を優先して行く?」
ヒロはすぐに答えなかった。卓の光が顔の傷を淡く照らす。左ポケットの中で銀色のケースが冷たく当たっている。触れずに白帯の導光を見下ろしたまま口を開いた。
「橋で一度間に合わなかった」
低い声が落ちる。
「セーブルも俺のせいで死んだ」
言い切ったあと息を一つ吐く。
「それでもあの光を"道だ"って信じて歩く顔は残ってる」
グレイランス。光の園。VOLKの仲間。全部が白帯の導光のそばに重なって見えた。
「今回は通させる。避難を止めない。——その上でベヒモスも止める。どれか一つを差し出して帳尻を合わせる気はない」
ヴァイスは黙ってその横顔を見ていた。昔初めてVOLKを引き受けたときのヒロの顔を思い出す。守りたいものとそこに届かない自分の間で迷いを隠しきれていなかった目。
今は違う。白い導光に照らされた目は迷っていない。どこまで無理をするか本人が決めている。
「いい顔になったな隊長」
ヴァイスは短く言った。
「なら行け。VOLK隊長ヒロ。白帯の流れを止めるな。ベヒモスを止めろ。壊すか奪うかは現場で決めろ」
「了解」
ヒロはうなずき小部屋のドアへ向かった。取っ手に手をかけたところでポケットの冷たい重みがもう一度意識に浮かぶ。
(最後に決めるのは俺だ)
ドアが開きブリッジの明かりとざわめきが流れ込む。ヒロは振り返らずその中へ出ていった。
*
グレイランスの夜はいつも機械の音がしている。
冷却ポンプの低い唸りと遠くの格納庫から漏れる工具の響き。出撃前夜の今はそれに加えてどこか落ち着かない足音が混じっていた。
アキヒトは子ども区画の前で足を止めた。
ここはもう子どもを寝かせる場所じゃない。この艦はこれからベヒモス戦に入る。前に出るなら守るものは後ろへ下げる。サキと子どもたちは後方のハブへ退避した。泣き声も笑い声ももうこの区画には残っていない。
窓越しの部屋は空だった。ベッドは片付けられ棚には何もない。小さな上着の畳まれ方すらきれいに消えている。代わりに壁一面に紙が残っていた。
雑なテープ留めで重なるように貼られた絵。
黒い四角から脚が生えたようなRF。やたらとでかい盾だけが描かれたもの。白い帯とその横に並ぶ小さな影。
その中に見覚えのあるシルエットがあった。
細身の機体に肩のスパイク。胸のあたりにぐりぐりと濃い線で塗りつぶされた"顔"。
子どもの字でその横に小さく名前が書いてある。
『ストレイ』
アキヒトはしばらく何も考えないようにして眺めていた。
線は曲がっているし比率もめちゃくちゃだ。脚は三本に見えるし背中のブースターも四つ描いてある。
——こんな機体じゃまともに歩けないな。
喉の奥でかすかに笑いそうになる。けれど声には出さなかった。
子ども区画の窓はここから白帯がよく見える位置にある。何度も任務に出る前この窓の向こうでこいつらが自分たちの機体を指さして騒いでいたのを思い出す。
「ストレイはやい」「ヒロのはでかい」
その声をわざわざ聞きに来たことはない。ただここを通るたびに窓ガラス越しに動く小さな影が視界の端に入った。
今その影はない。壁に貼られた紙だけが残っている。
アキヒトはストレイの絵の前で立ち止まった。
テープの端に指を触れる。剥がれかけた角がわずかにめくれた。
指を離す。貼り直すことはしない。
——守るために前に出る機体か。
誰の言葉でもなく自分の中でだけその言い方が浮かぶ。
ヘルマーチにいた頃の機体には名前もなかった。番号だけが割り振られて壊れたら別の機体に乗り換えるだけだった。
今壁に残っているのは子どもが勝手につけた名前と歪んだシルエットだ。
アキヒトは一歩下がり区画全体を見渡した。
バッファローもスケルトンもファルコンも色とりどりに描かれている。どれも現物とは似ても似つかないが線の勢いだけは妙にまっすぐだ。
「帰るのは俺のほうだ」
誰にも聞こえないような小さな声でそれだけ言った。
踵を返し通路に出る。背中で紙の擦れる音がいちどだけ鳴った気がしたが振り返らなかった。
――次回、第84話「安全減衰、無効」へ続く




