第91話 胸ポケットの重み
崩れ始めたベヒモスの中で、灰の風だけがコンラートを撫で続けていた。音が潰れていく。灰だけが確かな重さを増していく。
外壁の隙間から灰が入り込んでくる。肩に膝に指の節に。少しずつ積もって、自分が埋もれていく感覚がした。
コンラートの手が無意識に胸ポケットへ伸びた。
指先が布地をなぞる。それだけで止まる。空だ。
さっき渡してしまった。もう二度と戻らないものを。
ナイフを抜く。
刃先で灰を押しのけ、地面に一本の線を引いた。まっすぐに。迷いなく。
それから顔を上げる。灰色の空がそこにある。
見上げても、何も答えはない。
だから、いい。
*
ストレイ・カスタムは、ベヒモスから飛び出したまま落下を続けていた。
「残りのブーストは」
〈ノルン〉『メインスラスター点火で約0.7秒分』
「足りない」
ヒロがシートに沈み、息を吐いた。
「アキ——」
「黙ってろ」
外部カメラに、影が走った。
細身の躯体に大きく開いた推進ユニット。翼のない鳥めいた輪郭が灰を裂いて真上へ突き上がってくる。
〈ノルン〉『識別――アストレイア社所属RF。RF-19A、複数接近』
「何の——」
答えを待たずに、左右から影が滑り込んできた。弧を描き、ストレイ・カスタムの落下速度へ合わせる。
〈??〉『中の奴、暴れるな。そのまま――』
〈??〉『右取る。左、合わせろ』
次の瞬間、機体が横から鈍く打たれた。
硬い衝撃。ストレイ・カスタムの腕と肩フレームへグラーチの腕部が食い込む。ほぼ同時に左の1機が側面へ張り付き、腰フレームごと抱え込んだ。金属が噛み合う音。ロックが決まる。
〈ノルン〉『左右側面にグラーチが接触。推力同期を要請されています』
「やれ」
アキヒトは短く命じた。状況を理解する前に、体が動く。
〈ノルン〉『了解。全機、降下制御リンク開始。三、二、一』
落下の重さが引かれた。左右で推進炎が噴き上がり灰の流れを逆向きに削る。
〈ノルン〉『減速率、20%向上。まだ不足。追加噴射に移行』
〈右側パイロット〉『右、保持。17系、姿勢合わせろ。脚を出して受けろ』
〈左側パイロット〉『左も掴んだ。潰す気はない。膝を入れろ。衝撃、逃がせ』
「ノルン」
〈ノルン〉『機体姿勢、わずかに前傾。脚部ショックアブソーバー、最大許容まで解放。今です』
アキヒトはペダルを踏み込んだ。
ストレイ・カスタムの両脚が空中で着地姿勢へ入り張り付くグラーチも脚部を伸ばして揃える。三機分の脚が同時に地面を探す。
眼下に灰原。
〈ノルン〉『最終減速。三、二、一』
衝撃が突き上げた。
三機の足裏が灰原を踏み抜きショックアブソーバーが限界まで沈む。視界が跳ねシートベルトが胸を締め上げる。
そのまま止まらない。足裏が灰を掻き、深い溝を刻みながら引きずられた。
灰が波のように盛り上がり、減速のたびに機体が軋む。だが、折れない。
〈ノルン〉『着地確認。機体状態――ストレイは関節多数に過負荷。グラーチ2機は脚部フレームに深刻な歪み。いずれも生命維持と機体保持に問題ありません』
アキヒトは息を吐いた。
外部カメラには左右で膝をついたグラーチに肩を預けるように立つストレイ・カスタムが映っている。三機が互いの重さを渡し合い、形を保っていた。
周囲へさらに数機のグラーチが降下してくる。武器は構えない。距離を取りゆっくり旋回して位置に落ち着く。
灰の向こうでは、灰に埋もれかけたベヒモスの巨体が、まだ遠くで軋んでいた。
「助けられたな」
アキヒトが低く言った。ヒロは答えない。
灰の向こうでベヒモスの巨体がゆっくりと沈んでいく。街ひとつ分の鋼鉄が埋もれていく。
中腹から火柱が噴き上がった。
心臓部――コアを吹き飛ばした爆炎が、遅れて地表へ噴き出す。
巨体が上げた、最後の叫びだった。
*
アストレイアのリリス搭載艦、その艦内監視室でベヒモスの反応が一気に潰れた。
輪郭を縁取っていた点群が内側へ折り畳まれるように消える。
床から低周波の唸りが突き上げた。
管制員が机の縁を掴む。
画面の外縁――周辺観測の灰が息を止めたように動きを失う。
ベヒモスの外周だけ、巨大なリフローが立ち上がる。風向表示が一斉に反転し、あらゆる方向から灰が引かれ始めた。遠方の灰まで薄い層が剥がれ、筋になって伸び、要塞の周囲へ流れ込む。寄せられた灰は輪を描き、輪が太るほど吸い込みが増す。
室内の空気圧が歪んだ。耳の奥が詰まる。デスクの水が波打ち縁から零れた。
――同じ頃。
ベヒモスの周辺に散っていた兵士たちは、足元の灰が《《逆に走る》》のを見た。風が変わった、では済まない。灰の流れそのものが向きを変え、地面を這って、要塞へ向かっていく。膝までの灰が一斉に引かれ、靴が取られる。誰かが踏ん張って転び、別の誰かが腕を掴んだ。
無線が短く割れる。意味のある言葉が続かない。音だけが先に来る。唸りが骨に響き胃の底が持ち上がるような感覚が遅れて追いつく。
少し離れた町では、窓枠が鳴った。戸の隙間から灰が逆流し、室内の薄い堆積が一度だけ持ち上がって、また落ちる。洗い桶の水面が震え吊った布が不自然に膨らんだ。大人は咄嗟に子どもを抱え通りの真ん中で立ち尽くした。何が起きているか分からない。ただ、方向だけは揃う。みんな、同じ方角を見てしまう。
遠くの空が、ひとつ暗くなったからだ。
画面のノイズが白く跳ね測距の数字が揺れた。吸われた灰が噴き上がった。外周のどこか一箇所ではない。リング状に、いくつも同時に立ち上がる。灰の柱が天へ突き、上空で広がって、要塞の上に重い天井を作る。
壁のパネルがびりびりと震えた。オペレーターの一人が椅子から立ち上がる。
「……こんな規模、自然じゃない」
別の声が、吐き捨てるように続けた。
「MEMだろ」
天井がたわみ、落ちる。灰の滝だ。吹き上げた分だけ戻ってくる。粒がぶつかり合って重さを増し、上部構造の角を削り、縁を塗り潰していく。
――光の園では、もっと静かに始まった。
サキは最初に《《耳の詰まり》》で気づいた。子どもたちが一斉に口数を減らし、目を瞬かせなくなる。誰も転ばない。泣きもしない。空気の薄い膜が一枚、部屋の中に張られたみたいに、音が遠くなった。
壁際のコップの水がわずかに揺れる。棚の軽いものが擦れて鳴る。外からは、遠い地鳴りのような響き。
サキは足を止めた。胸の奥が説明のつかない不快さで締まる。嫌な予感とは違う。もっと、身体の反射に近い。
「みんな、こっち――」
言いかけたところで、サナが立ち上がった。
サナがサキの横をすり抜けるように出た。
声はない。いつも通りだ。けれど歩き方だけが違う。迷いがない。目は外を向いたまま、焦点だけが遠い。
サキが腕を掴む。細い腕が驚くほど冷たい。
「サナ」
呼ぶと、サナは一拍遅れて瞬きをした。目は開いているのに、どこか遠い。返事はない。けれど唇が動き、声にならない息が漏れる。
――「……いま」
それだけだった。
窓の外で、灰がひとつの方向へ吸われた。遠くの空に、灰の柱が立つ。子どもたちの誰かが、ようやく小さく息を吸う。
サキはサナを引き寄せ抱え込むように背中を撫でた。心臓が速い。サナのではなく、サキ自身の。
その速さが、なぜか《《見られている》》感覚と結びついて、背筋でも喉の奥でもなく、皮膚の表面だけがざわついた。
下腹部が、引きつるように痛んだ。
サキは息を止める。ないはずのものが、痛みを訴えている。
*
ベヒモスが傾いた。脚部のあるはずの基部から輪郭が消えていく。沈下ではない。灰が"上がってくる"。外周から内側へ、段々に埋められていく。
振動が連続する。遠くで何かが砕ける音。地鳴りに似ている。
アストレイア艦内監視室の誰も、声を出さない。
最後まで残っていた突出部がふっと灰の中へ溶けた。
スーツの男が舌打ちする。
「各社で金も人員も積んだ。あれを"起動したまま"押さえるために」
画面の灰が波打つ。渦はさらに太り、周囲から灰を集め続けている。巨体は、もう戻らない形へ傾いていた。
室内の照明が一瞬だけ揺れて、戻る。
「瓦礫か。最悪だ」
*
〈ノルン〉『内部構造の崩壊が加速しています。あの中に、もう"戻る場所"はありません』
「戻る気はない」
ヒロの呼吸が聞こえる。荒いが安定している。
アキヒトは視線だけ横へやった。ヒロの頬にわずかに血の気が戻っている。
〈ノルン〉『隊長のバイタルは安定。このままグレイランスまで運べれば、命の心配は低いと判断します』
「そうか」
アキヒトはサブモニタを見る。
「ノルン。外との回線は」
〈ノルン〉『広域はノイズ。近距離なら――』
割り込むように別回線が開いた。
〈ヴァイス〉『こちらクレイブアクト陸上戦艦グレイランス。識別信号確認。ストレイ、そっちか。生きているな?』
〈アキヒト〉『VOLK-1ストレイ・カスタム。ヒロ回収、こちらも生存。そっちは』
〈ヴァイス〉『詳しい話は後だ。まずは戻ってこい。こっちも、どうにか沈まずに済んだ側だ』
〈ヴァイス〉『グラーチ班、感謝する。着艦ハッチまで護衛を頼みたい』
〈グラーチ班〉『了解。指定座標までエスコートする』
グラーチが一斉に軌道を変えストレイの周囲を固めるように灰原の上を滑った。
後方表示に、遠ざかるベヒモスの残骸が映っている。
アキヒトは短く目を留めて前へ視線を戻した。
「ベヒモスの"心臓"は持って帰る。これが欠片だ」
胸ポケットには、小さな透明プレートの重みがあった。
――次回、
終章 白い灯りの下で
第92話「巣に灯る声」へ続く




