第81話 ルールを変える
最初に揺れたのは、カルディアの会議室だった。
壁面モニターの非常回線が、許可もなく立ち上がる。数秒遅れて、アストレイアの地下ブリーフィングルームでも、グラウバッハの工業都市の作戦室でも、同じ映像が開いた。
UDF前線指揮所では、テントの骨組みに引っかけられた旧式端末が、ノイズを噛んで明滅する。錆びた発電機のうなりの隣で、画面だけが不自然なほど鮮明だった。
クレイブアクトの母艦〈グレイランス〉でも同じだ。ブリッジのメインパネル。格納庫の片隅の小型端末。食堂の簡易モニター。作業の手が、一斉に止まる。
——同じ紋章が映っていた。
赤い斜めの3本線。片翼の折れた翼。
ヘルマーチの紋章。
その前に、黒いロングコートの男が立っている。
顔はガスマスクのような仮面で覆われ、企業の礼装でもUDFの制式でもない軍服を着ていた。右腕に縫い付けられたパッチだけが、紋章と同じ赤を返している。
『——聞こえているな』
くぐもった声が、回線が繋がっている場所すべてで、同じ調子で響いた。
『白帯を頼みにしている連中へ。——全員だ』
カルディアの会議室で誰かが息を呑み、アストレイアの地下で士官が椅子の肘掛けを掴む。UDFのテントでは、若い下士官が反射で背筋を伸ばした。
『灰原で燃えた部隊。消えた鉱山。黙った工業都市。見てるはずだ』
淡々と続ける。
『あれは事故じゃない』
『誤射でも、行き過ぎた報復でもない』
一拍置いて、言い切った。
『“片付け”の始まりだ』
仮面の奥の視線が、わずかに近づいたように感じられる。画面の向こうで、誰かが無意識に唾を飲んだ。
『白帯は、便利だったな』
『線は守るためじゃない。責任を切るために引かれる』
短い言葉だった。だが、その短さが刺さった。
『細い線を一本引いて、“ここから中は安全地帯です”と書けば済んだ』
『あとは報告書に数字を並べるだけだ』
『何人運んだ。何トンの資源を出した。何機のRFを通した』
『線の外で何人死んだかは、小さな欄外に押し込んでおけば済む』
カルディアで誰かが舌打ちし、グラウバッハで老将校が腕を組んだまま目を細めた。
『白帯は避難路じゃない』
声の温度は変わらない。
『企業と——傭兵評議会が、人間を“資産”として寝かせておくための棚だ』
『働けるやつも、戦えないやつも、一本の線に並べて』
『都合のいいときだけ、数字として取り出すための線だ』
『線の内側にいるかぎり、お前たちは本気で戦わずに済む』
『“ここさえ守っていれば大丈夫だ”と、自分にも部下にも言い聞かせていられる』
低い声のまま、言葉だけが鋭くなる。
『だから壊した』
画面の隅に、灰の海を進む巨大な輪郭が重なる。
灰を割り、地形を押し潰し、地表そのものを“履く”ように進む影。
『あれを、俺は《ベヒモス》と呼ぶ』
画面の隅に、灰の海を進む巨大な輪郭が重なる。
街ひとつ分の装甲。地下から浮上し、地表ごと引き剥がしながら進む影。
白帯も、建物も、線も——全てを履帯の下へ飲み込んでいく。
『白帯に寄生してる街も、工場も、鉱山も』
『あいつの履帯の下に入った場所は、もう"安全地帯"じゃない』
仮面の奥の目が、笑ったようにも見えた。
『勘違いするな』
わずかに声を落とす。
『俺は正義を名乗らない』
『弱い者を選んで救うつもりもない』
『民間人だけをきれいに避ける気もない』
『このやり方の結果は、俺が引き受ける』
『戦えない連中が巻き込まれて死ぬのは分かっている』
『それでも、いまの地図を引きはがすには——それだけの数が要る』
UDFのテントで拳が握られ、グレイランスの格納庫で整備兵がレンチを握り直した。
『これから灰の上で残るのは、1種類だけだ』
『戦えて、考えられるやつ』
『白帯の内側で指示待ちをしてるだけのやつは、ここで終わる』
『紙の上の安全地帯から一歩も出られないなら、古い線と一緒に沈め』
どこかの会議室で椅子が軋み、立ち上がりかけた影が、また座り直す。
『ルールを変える』
右手で空中に一本の線を引く仕草をした。
『今から、白帯の上を“安全”の名目で走る列は、全部敵だ』
『資源輸送でも、避難列でも、護衛部隊でも同じだ』
『白帯を盾にして動く武装は、まとめて狩る』
息を呑む音が、あちこちで重なる。
『逃げ道に白帯を使うやつもだ』
念を押すように、淡々と言う。
『白帯に縛られているかぎり、この世界は変わらない』
『お前たちはいつまでも、誰かが引いた線の上で数字を数え続ける』
仮面の奥の視線が、画面の向こうの誰かを見据えた。
『灰の上に、新しい線を引く』
『誰がいつ引いたか分からない白い線じゃない』
『ヘルマーチの脚で踏んだ跡を、そのまま線にする』
『その線の内側に残りたいなら——白帯を捨てて降りて来い』
最後まで調子を崩さない。
『灰の中に出て、自分の脚で立て』
『自分の頭で状況を見て、自分で引き金を引け』
数秒の沈黙。
『それができるやつだけが、次の地図に名前を残す』
UDFのテントの端で、古い地図が風に揺れる。
グレイランスのブリッジで、誰かが歯噛みした。
『できないやつは——俺の知ったことじゃない』
短く切り捨てた。
『助けもしない。悼みもしない』
『報告書の数字が一行増えるだけだ』
最後に、低く名乗る。
『俺はコンラート・ヴェルナー。ヘルマーチの隊長だ』
『線の外に立つ側だ』
わずかな間を置いて、締めくくる。
『どこに立つかは——お前たちが決めろ』
『線を引くなら、自分の手で引け』
『切った責任は、切った側が持て』
映像がぷつりと切れた。
ヘルマーチの紋章だけが一瞬残り、灰色のノイズに溶けて消える。
灰の世界のあちこちで、同じ沈黙が落ちた。
――次回、第82話「円卓は英雄を呼ばない」へ続く




