第78話 白帯の判断線
市街地の中心を、一本の白い光が貫いていた。
避難誘導ライン《白帯》。灰の世界で、あれだけが「迷わずに進める道」だった。
白帯の両側には、店、住宅、役所、病院が立ち並んでいる。
平時なら、ただの街の風景だ。
だが最近、この白帯沿いだけは空気が落ち着かなかった。
風が一度、戻る。灰が逆向きに流れて、景色が薄く二重に滲む。遠近が信用できなくなる瞬間がある。
現場はそれを短く呼ぶ。リフロー。
経験の浅い者は、気のせいだと言った。
古参は知っていた。「気のせい」で済ませた者から死ぬ。
――このときコンラートには、まだ幼い息子がいた。名はヒロだ。
*
会議室は明るすぎた。
スクリーンに映るのは、北側から接近するキーテラの反応と、市街地の区画図。避難車列の流路シミュレーションが、淡々と上書きされていく。
コンラート・ヴェルナーは席を立ち、机に手を置いた。
「指揮を一本にしないと、現場が持ちません。綻んだ瞬間に潰れるのは、白帯の上の民間人と、最前線の兵です」
言葉を選んだ。怒鳴れば、議論は終わり、感情だけが残る。
「市街地防衛を企業が担うのは理解しています。ですが、白帯と病院の動線はUDFが握る。そこを“現場調整”に投げると、判断がぶつかります」
UDF上層の男が椅子に深く沈み、薄い笑みを浮かべた。
「君は現場を心配しすぎる」
カルディアの席から声が上がる。
「工業区を落とすわけにはいきません」
すぐに、アストレイアが被せた。
「試験施設には重要データがあります」
コンラートは会議室を見回した。
誰も、病院の話をしない。
患者の数も、歩けない者の比率も、搬送に必要な人手も。
白帯の上にいるのが「数字」ではなく「人」であることが、この部屋では一段遠い。
会議の端で通信士が資料を回し、控えめに口を挟んだ。
「白帯沿い、リフローの報告が増えています。距離がずれて見える、と。射線管理に影響が――」
上層は視線だけを流し、その話を終わらせた。
「優先順位が違う」
コンラートの指が机の縁を強く押した。
誰も気づかない。
その一言で、白帯の上の不穏が、紙の外へ押し出される。
「結論だ。UDFは白帯護衛と避難誘導を実施する。企業は市街地防衛。各所の衝突は現場で調整しろ。灰風中隊は外周待機、必要に応じて投入」
コンラートは敬礼を返し、会議室を出た。
*
「隊長、戻ってきましたね」
コンラートがテントに入るなり、セーブルが立ち上がって一礼した。
淡々とした声だが、わずかな警戒が混じっている。
「上はなんて?」
セルゲイが先に投げる。軽さの裏で、目だけが笑っていない。
「読めば、話の半分は分かるだろう」
コンラートは答えず、手に持った命令書を机の上に放った。
そこには「灰風中隊 外周待機」とだけ記されている。
セルゲイが紙をひったくって目を通し、鼻で笑った。
「はは。さすが“現場を知らない立派な頭”だな。白帯が燃えたら、外で拍手でもしてろってか」
「やめておけ、セルゲイ」
セーブルが軽く制する。
「命令書は命令書です」
「分かってるよ。分かってるけどさ」
セルゲイは頭をかきながら、コンラートを見た。
「隊長は、どう思ってるんです?」
ヴァイスは黙っていた。
ただ、机の端に指を添えたまま、命令書とコンラートの顔を交互に見ている。
コンラートは、3人の視線をまとめて受け止めた。
「……上は、市街地防衛をカルディアとアストレイアに任せると言った。UDFは白帯護衛。灰風は、その“予備”だ」
「予備、ねぇ」
セルゲイが苦笑する。
「白帯の近くで綻びが出るたび、うちに“都合よく”出てこいってことですか」
「綻びが見えたころには、もう遅い」
ヴァイスが小さく口を開いた。若い声だが、言葉自体は淡々としている。
「白帯に流れ込んだキーテラを、外周から叩いても間に合わない。中に入るなら、最初から指揮を一本にするべきです」
その意見は、先ほど会議室でコンラートが言ったこととほとんど同じだった。
コンラートは若い士官の顔をまっすぐ見た。
「……そうだな」
それだけ言って、司令部への回線を開きにテントを出た。
*
指揮車へ戻ると、コンラートは端末を開いた。
宛先は市街地中央病院。受信者の名を選ぶのに迷いはない。
『数日中に北から大きな群れが来る。すぐ避難しろ』
指が一度止まる。
短く、間違いなく伝えるために、言葉を削る。
『西のUDF駐屯地へ。手配済み。ヒロを連れて、車に乗れ』
そして追記した。
『白帯沿いは今日は風が信用できない。景色がずれる。迷わず西へ出ろ』
送信直後、端末が震えた。発信者名はナオミ。
「……俺だ」
『さっきの、どういう意味? 避難って……病棟の搬送、まだ終わってないのよ』
彼女の声に焦りがある。
焦りの奥に、医師としての固さがあるのも分かる。
「北が崩れたら、市街地まで降りてくる。企業とUDFの指揮は割れている。どこが抜けるか、誰にも読めない」
『止めるんじゃないの? あなたたちが』
「だが、カルディアとアストレイアとUDFが、別々の指揮で動く。必ずどこかで綻ぶ。場所は、机の上からは見えない。」
言い方が冷たくなった。自分で分かる。
それでも、甘い言葉は危険だ。
「……分かった。遅れるな。ヒロを先に車に乗せろ。搬送は必ず誰かに引き継げ」
『……分かったわ』
少し間が空き、彼女は声を落とした。
『あなた、たまには帰ってきて。ヒロが、あなたの古い制服を出して着てた。真似してたわよ』
コンラートは上衣の内側に指を滑らせた。
写真の角が触れる。小さな硬さが、現実にだけ残る。
「……次の休暇でな」
約束にならないと分かっていながら、そう言った。
「すぐ出ろ。いいな」
『待ってる』
ナオミの声が、一瞬だけ柔らかくなった。
『ヒロと一緒に、待ってる』
通話が切れる。
画面が暗くなり、上衣の内側の写真の角だけが、そこにあると告げていた。
白帯の光を思い浮かべると、そこにいるのがヒロではないことだけが、救いになりそうだった。
*
上層との通信を開く前、コンラートはもう一度、写真に指を触れた。
(もう一度だけ、試す)
「この配分では、白帯に抜けてきたキーテラを食い止められません。
企業は自分たちの施設を最優先する。
白帯に流れた個体を誰が止めるのか、明確になっていない。
加えて、白帯沿いでリフローの報告が増えている。
距離が信用できない状況で、重火器を市街地に落とすのは危険です」
『現場で調整しろ、とさっき言ったはずだ』
返ってきた声は、会議で彼を押し切った男のものだ。
『灰風中隊は貴重な戦力だ。むやみに突っ込ませるわけにはいかん。外周で待機し、必要に応じて投入する』
「必要に応じて、では遅いんです」
コンラートは声を抑えたまま、言葉だけを強くした。
「白帯が破られてから出ても、もう間に合わない。中に入るなら、最初から指揮権を――」
『君は命令に従えばいい』
通信は、一方的に切られた。
コンラートはヘッドセットを外し、しばらく何も言わなかった。
上衣の内側にある写真の角が硬く、黙れない現実だけを残している。
軍人として命令に従うか。
「白を守る」と息子に言い切った自分を守るか。
どちらも「正しい」と信じてきたものだった。
*
戦闘は、予告どおりに始まった。
北の灰の縁からキーテラの群れがにじむ。
カルディアの重装部隊が工業区の前へ展開し、アストレイアの砲台が高台から火を吹く。
最初のうちは、計画どおりに見えた。
だが、群れの一部が白帯のほうへ流れた瞬間、綻びが見えた。
企業は施設を守る。
白帯へ向かったものは「UDFの領分」として処理が遅れる。
遅れた分だけ、白帯の上の人間が裂かれる。
白帯沿いの遠景が、薄く二重に揺れた。
リフローだ。
距離が信用できない日。射線の整理が難しい日。
なのに、カルディアの重砲の砲塔が、ゆっくりと向きを変える。
照準の先には、白帯と、その手前で暴れるキーテラの塊。
そして、その間に避難車列とラインガードがいる。
「……射線に人がいる」
コンラートは声にならないほど低く呟いた。
次の瞬間、砲口が閃いた。
砲弾は白帯へ落ちた。
狙点など、もう関係ない。
射線に民間人がいると分かった状態で撃った――その事実だけが残る。
爆炎が白帯をかすめ、車列が跳ね上がる。
リフローで戻された灰と煙が、逃げ道をさらに潰す。
続いてアストレイアの砲撃が入る。名目は掃討。
だが、火線は工業区にもかすり、現場の空気が一段冷える。
狙いがキーテラだけではない。互いの施設に傷がつく位置へ、わざと寄せている。
調整ではない。ぶつかり始めた。
*
コンラートの端末には、命令が表示されていた。
《灰風中隊 外周待機》
白い文字が、あまりに綺麗だった。
彼は一度だけ目を閉じ、画面を閉じた。
受領も、返信も、しない。
切り替える。開くのは中隊回線だけだ。
「灰風中隊、聞け」
自分の声が、自分の耳に乾いて聞こえる。
「上の命令ではない。俺の命令だ」
軍人としての自分が、そこで終わるのを感じた。
回線の向こうで息が揃う。
「市内へ入る。白帯の上の避難列を通す。キーテラの排除はその次だ。盾になる覚悟がある者だけ、ついてこい」
〈最初からそのつもりだ、隊長〉
セーブルの低い声。
〈外周で突っ立って終わるくらいなら、白の上でやる〉
セルゲイの声は荒いが、震えていない。
〈ヴァイス、追随します。白帯は通します〉
若い声が、言い切った。
「よし。行く」
コンラートの指が、スイッチの上で一瞬だけ止まった。
上衣の内側に、写真の角が触れる。
指が動いた。
スイッチが倒れ、機体が白帯へ向けて走り出す。
フロントモニタの向こうに、白帯の光が見える。
焼けていない、まだ守られている白帯。
その上を、人の列が歩いている。
回線の向こうで、3機の駆動系がうなりを重ねた。
セーブル、セルゲイ、ヴァイス。
沈黙だけが続く。
ただ、同じ方向へ走る音だけが、回線を満たしていた。
――次回、
第十五章 コンラート・ヴェルナー(オリジン)
第79話「白帯が裂ける」へ続く




