第79話 白帯が裂ける
コンラートの前方モニタに映る市内は、もう「街」ではなかった。
砲撃の穴、倒れた街灯、崩れた壁。白帯の光だけが、まだ「ここが道だ」と主張している。
白帯の上には避難車列が詰まり、ラインガードが押し広げ、そこへキーテラが滑り込む。
白帯の外へ逃げようとした者もいた。
男が子どもの手を引いて線を跨いだ瞬間、足が止まる。
見えていたはずの路面が、半歩ぶんだけずれている。
次の一歩が空を踏んだ。
縁石だと思った場所は、崩れた側溝の口だった。
子どもが引かれ、男が腕で抱え直そうとしたところへ、キーテラの鉤爪が伸びる。
白帯の外は、助けを呼ぶ声すら、灰に飲まれて届かなかった。
白帯は地獄だ。
それでも、線を外れた瞬間に終わる場所よりは、まだ生き残る余地がある。
*
コンラート機を先頭に、灰風中隊のバッファローが白帯へ踏み込む。
半身盾が車列の前に立つ。倒させないための壁になる。
〈セルゲイ、左車線押し出す! 止まるな! 詰まりを解け!〉
セルゲイ機が民間車両の横腹へ肩を当て、路肩へ押し流す。乱暴に見えるが角度は正確だ。横転させないぎりぎりで擦り、進路だけを作る。
だがその隙間へ、キーテラがねじ込んでくる。
ラインガードの若い兵が盾を上げた瞬間、盾ごと腕が引き裂かれた。
若い兵は膝を折り、転がった拳銃を掴んだ。
握れたのは偶然みたいに、指が引っかかっただけだった。
銃口を頭に当てる。震えは止まらない。呼吸だけが浅く速い。
それなのに、口角だけが持ち上がった。歯がかすかに見える。
笑いとも泣きともつかない歪みが一瞬だけ浮かぶ。目は笑っていない。
白帯の光が、濡れた睫毛を照らした。
乾いた音がひとつ鳴り、頭が後ろへ跳ねる。
白帯の上では、間に合わなかったものから崩れる。
車列の隙間で、母親が倒れて動かないラインガードの腰から拳銃を引き抜いた。金具が擦れる音が、妙に大きい。
子どもを抱き寄せる腕が強く、肩が小さくすくむ。
「……ごめんね」
銃口を子どもの頭に当てる。
母親の手が止まり、すぐに外れる。力が抜けて、膝が崩れた。
「やだ……やだ……」
声にならない嗚咽が漏れ、息が詰まって、肩だけが小刻みに揺れる。口を押さえても止まらない。涙が落ちる。子どもを抱く腕がほどけそうになり、必死にもう一度締め直した。
顔を上げる。
目の焦点が戻っていくのが分かる。濡れた瞳の奥に、硬い光が差した。
母親は袖口で涙を乱暴に拭い、子どもの後頭部を抱え直した。
指を震えごと銃の握りに押しつけ、外れない位置に据える。
もう一度、銃口を当てる。今度は外さない。
引き金。
次の瞬間、母親は間を置かなかった。
銃口を自分へ向け、顎の下へ押し当て、迷わず撃った。
白帯の光は、それも照らした。
助けに行ける距離にいて、助けに行けない者たちの目の前で。
救助の手が伸びるより先に、別の民間人が転ぶ。
転んだ者の上に、また転ぶ。
詰まりが“動けない死”を作り始める。
そこでリフローが来た。
風が一度戻り、煙と灰が白帯へ押し返される。
交差点の輪郭が二重に滲み、停止と前進の判断が遅れる。
無線も短く乱れた。返事が二重に聞こえ、同じ言葉がわずかに遅れて重なる。
詰まりが増える。
詰まりが増えるほど、裂かれる人数が増える。
*
〈セーブル、前方の付着個体を剥がす。白帯から離せ〉
セーブル機の盾が白帯の上に壁を作り、腕でキーテラを叩き落とす。
叩き落としても、蜘蛛型は白へ戻ろうとする。白帯の光に執着している。
白帯に脚を突き立て、腹を押しつける個体がいた。
その瞬間、白帯の光が一段落ちる。誘導灯が沈み、信号が消え、ライトが鈍る。
白帯そのものが“弱る”。
〈ヴァイス、中央に到達。ラインガードと合流。避難列の切れ目を確保〉
〈白帯は通します〉
ヴァイスの声は若い。だが言い切った。
ここで曖昧な言葉は役に立たない。
*
リフローの戻り灰の中を、黒い影が滑るように降りた。
蜘蛛ではない。地面を這わない。
低空で、白帯の光へ寄る。翅が布のように波打ち、粉が降る。
「……骸蛾」
誰かが名を吐いた。
声はかすれ、言葉にならなかった。名を呼ぶだけで、周りの動きが止まる種類の存在だ。
粉が目を刺す。吸気フィルターが急に重くなる。
咳が連鎖し、立っていた者が膝をつき、そこへ次が倒れる。
ガイガは「裂く」のではない。
白帯の上の“詰まり”を増やして、避難そのものを止める。
動きが妙に整いすぎていた。
虫のはずなのに、逃げ道の少ないところへ人を追い込み、いちばん詰まる場所を選んで寄ってくる。
偶然にしては、判断が冷たい。
腹の下に、何か硬いものが食い込んでいた。
金属か、焼けた骨か。煤と灰で輪郭は定かでない。
――今は白帯を通す。
「全機、蜘蛛型は押さえろ。ガイガは――俺が行く」
返事が返る前に、白帯の上で銃声がいくつも鳴った。
だが、粉と戻り灰で視界が割れ、弾道がどこへ抜けたのか分からない。
避難列の背中へ飛び込んだ弾があった。誰かが短く叫び、すぐ沈黙した。
白帯の上で撃つほど、白帯が詰まる。
詰まれば、ガイガが喜ぶ。
コンラートは照準器を覗かず、盾を上げた。
「撃つな。白の上では、外す。――外へ出す」
セーブルが息だけで返す。
〈了解。蜘蛛型は押さえる〉
セルゲイが荒く応じた。
〈隊長、派手にやるなよ。白帯が割れる〉
「割らない。通す」
*
コンラートは白帯の縁で機体を止め、盾を“道”に対して斜めに立てた。
白帯の上に壁を作るのではない。白帯の外へ“滑らせる面”を作る。
ガイガが光に寄って低空で滑り、盾へ粉を叩きつける。
粉が弾け、視界が白く曇る。
コンラートは盾をほんのわずかだけ寝かせた。
ガイガが爪を掛けた瞬間、盾の角度を戻す。
――噛み合った。
「来い」
バッファローが踏み込み、盾ごとガイガを白帯の外へ“送る”。
引きずるのではない。白帯の上に滞在させない速度で、外へ押し流す。
ガイガが暴れる。翅が盾を打ち、乾いた金属音が続く。
その拍子に腹の内側が一瞬ひらき、硬いものが覗いた。
金属にも、骨にも見える輪郭。
――人の、形だ。
コンラートの指が、一瞬だけ止まる。
背後で、白帯の上から悲鳴が上がった。
指が動いた。
コンラートは腕で胴を掴み、白帯の外側――瓦礫のくぼみに押し込んだ。
撃つための“背面”を作る。弾が白帯へ抜けない位置だ。
一度叩きつけ、翅の根元が折れる音がした。
二度目で粉の降り方が変わり、咳の連鎖が途切れた。
ここなら撃てる。
コンラートは短く、中心だけを撃った。
反動も煙も、白帯のほうへは流さない。
ガイガは翅を広げたまま硬直し、沈んだ。
その瞬間、腹の内側から何かがこぼれた。
焼けた金属。折れた骨。認識票の欠片。
――人だったものを、撃った。
白帯の上で、止まっていた車輪がひとつ回る。
次が回る。
詰まりが数メートルだけ前へ動いた。
その数メートルが、生き残る余地だった。
〈……隊長、やったな〉
セルゲイの声が一瞬だけ軽くなる。
「油断するな。蜘蛛型が残っている。白帯を通せ」
コンラートは視線を戻した。
勝利の気分など、ここには置けない。
*
ラインガードの隊員たちは、最後まで白帯の上から退かなかった。
灰風も同じだった。
転倒したバスの前にしゃがみ込み、その身体ごと盾になって砲撃を受けた機体があった。
脚を吹き飛ばされながらも、最後まで白帯から動かなかった機体もあった。
その日、灰風中隊とラインガードの隊員の多くが、白帯の上で倒れた。
民間人の死者は、後の調査で300人を超えることになる。
数字にすると、一行で終わる話だった。
*
戦闘が収束しても、白帯の上に残るのは焼け跡と瓦礫と、動かないものだ。
救助の声は飛ぶ。だが、声は足りない。手も足りない。
そこへ白いスーツの一団が来た。
アストレイアの回収班だった。
足元の焼けた白帯も、動かないものも、見ていない。見る必要がない、という歩き方をしていた。
先頭の一人が、腕を小さく上げる。合図だけ。声は出ない。
その瞬間、数人が一斉に動いた。
白い手袋が器具を組み、切り分け、袋へ入れる。
粉が舞うたびに、フィルターの音だけが規則正しく鳴る。
コンラートが一歩前に出る。
(何をしている)
口を開きかけて、閉じた。
質問する権利が自分にあるのか、分からない。
こちらを見ないまま、作業は続く。
名札も階級章もない。あるのは、手順だけだ。
ガイガの開いた内部に、硬いものが一瞬覗いた。
金属にも見える。骨にも見える。
判別する前に、白いケースの蓋が閉じる。
封がされ、番号札が結束され、輸送車へ積まれていく。
現場の“止めた”が、企業の“持ち帰る”に変わる。
その変換は、戦闘より静かで、戦闘より速かった。
*
カルディアとアストレイアの主要施設は、最低限の機能を残していた。
代わりに、白帯を中心とした市街地の一角が、黒い穴のように焼けていた。
煙の向こうで、白かったラインが真っ黒に焦げている。
その上に、避難車両の残骸が幾重にも重なり、どれが道でどれが車体だったのか、もう見分けがつかない。
白帯は、線ではなく焼け跡になっていた。
コンラートの端末が震えた。
〈西の駐屯地。ご子息、保護〉
短い文字列が、指の感覚を奪うほど重い。
ヒロは生きている。部下が任務を果たした。
続けてもう一通。
〈奥様、病院に残留〉
〈「ここが危険なら、なおさら離れられない。医者は一人でも多く残る」〉
〈ご子息のみ輸送〉
ナオミの言葉が、報告の文面越しに伝わってくる。
ここが危険なら、なおさら離れられない。
それが、彼女の「役目」だった。
コンラートは、崩れ落ちた病院棟を見上げた。
白帯に近すぎたその建物は、砲撃と侵入で半分以上が崩れている。
瓦礫の隙間から、白いコートの裾らしき布切れが見えた気がした。
目を凝らしたが、次の瞬間、煙に飲まれて見えなくなる。
胸ポケットの中の写真だけが無傷で残っていることが、残酷なお守りのようだった。
*
数日後、この街の名前は、ニュース番組のテロップに繰り返し流れた。
『UDF、避難任務に失敗』
『市街地で民間人被害多数』
『特殊部隊“灰風中隊”が関与か』
スタジオでは、結論だけが先に置かれる。
「市街地で重火器を使う以上、判断ミスは否めませんね」
「企業は施設を守った。UDFだけが混乱したようにも見えます」
画面には、黒焦げになった白帯と、泣き崩れる遺族の姿。
“誰が撃ったか”は薄れ、“誰が失敗したか”だけが太くなる。
報告書は読まれない。
戦死者の名簿は映らない。
結果だけが、飾りつけられて流れていく。
*
コンラートは医務室のベンチに座って、それを見ていた。
包帯の下で、肋骨がまだ軋む。
生き残ったのは運に過ぎない。
盾になった部下のうち、何人の顔と名前を、いま即座に思い出せるか――自分に問い直す。
セーブル。
ベッドの上でも落ち着いていて、「状況は?」とだけ聞いてきた男。
セルゲイ。
全身ぼろぼろのくせに、「ほら見ろ、外周待機よりマシだっただろ」と看護師に噛みつき、怒鳴り返されていた男。
ヴァイス。
ぎこちない敬礼のまま、車椅子で運ばれながらも、「白帯は通せました」とだけ報告した一番若い士官。
あの地獄をくぐり抜けて、かろうじて生きて戻った顔は残っている。
逆に、二度と呼名に返事のない名前も、同じだけ胸の中に貼りついて離れなかった。
胸ポケットの写真は、まだそこにあった。
ヒロを肩車した自分と、「白を守るぞ」と笑っている息子。
あの日、会議室で自分が言った言葉が、頭の中で反芻される。
指揮を一本にしないと、現場は崩れる。
結果として死ぬのは現場の兵と、白帯の上の民間人だ――。
そのとおりになった。
止められなかった。
ヒロの母一人すら、守り切れなかった。
人は、結果しか見ない。
スクリーンに流れる「結果」を見ながら、コンラートはゆっくりと目を閉じた。
守ろうとした白帯が焦土になり、
守りたいと思った街が数字に変わり、
守るために踏み越えたものが、別の言葉にすり替えられていく。
この日から、彼の中で線の引き方は変わった。
守るべきものを「白帯」と呼ぶたび、焦げて黒くなった光景が先に浮かぶ。
救った人数より、救えなかった数が、命令より先に脈を打つ。
どこまでを守り、どこから先を切り捨てるか――白も、街も、人も、地図の上の記号みたいに並べて考える瞬間が、確かに増えていった。
コンラートはテレビを消し、窓の外を見た。
遠くに、白帯の光が見える。
焼けて、黒く、それでもまだ光っている。
上衣の内側に、写真の角が触れた。
小さな重みが、まだそこにある。
あの光を消さないために――何を捨てればいい。
窓の外を、彼は見続けた。
――次回、
第十六章 大艦巨砲の葬式
第80話「鋼鉄の誇り、爆沈」へ続く




