第77話 写真立て
執務室のドアが閉まる音がやけに耳に残った。
ヒロは背中で扉を押さえたまましばらく動かなかった。殴り合いの名残で右の拳がじんじんと痛む。頬も肋もどこかしらが鈍く主張していた。
深く息を吐いてからようやく足を動かす。
狭い部屋の中に机と簡素なロッカーと小さな棚がひとつ。艦内の他の部屋と大して変わらないはずなのにここだけ空気が重い。音が吸われる。呼吸までゆっくりになる。
机の端に写真立てが3つ並んでいた。
一枚は古い紙焼きの写真だ。軍服姿の男が椅子に座りその横に膝の上で手を組んだ女。真ん中にやけにきれいな制服を着せられた小さな自分。
父の肩章。端のほうに光る階級章。母は笑っているようにも見えるし今にも泣き出しそうにも見える。父の表情はやはり掴めない。きちんと正面を向いているのに目だけがどこか遠い。
もう一枚。少し色の褪せた写真の中で父――コンラートは立っていた。
肩車された自分がその肩の上で大きく手を伸ばしている。指先は空を掻き届きもしない何かを掴もうとしていた。笑っていたのか叫んでいたのか口元は半開きで――とにかく必死だ。
そしてその下のコンラートが――笑っている。歯を見せるほどじゃない。だが口元が確かにゆるんでいて目尻に短い皺が寄っている。軍服の写真で見慣れた「読めない顔」とは違う。そこにはたしかに父親がいた。
その写真だけは妙に覚えている。あの頃の自分はいつも上を見ていた。父の肩の上は世界が少しだけ高くて伸ばした手の先にはいつも"届きそうで届かないもの"があった。
隣の写真立てには別の光景が写っていた。
《グレイランス》の甲板へ出る手前――観測モニタの前。雑然と並ぶ子どもたちとその後ろに立つサキ。誰かがふざけてピースをしていて誰かがそれを止めようとしていてサキは困ったように笑っている。
撮ったのがいつだったかはっきり思い出せない。艦に乗ってすぐの頃だった気もするしつい昨日のような気もする。時間の感覚が灰と一緒に削れていく。
ヒロは指先で写真立ての縁をなぞった。家族。肩の上の世界。今の艦内。並んだ3枚は別々のはずなのにどれも同じところへ戻ってくる気がした。
別の声が浮かび上がる。
——『救った命も救えなかったものも全部お前が抱えることになる』
甲板で煙草をくゆらせていたセーブルの横顔が鮮明によみがえる。白い煙と排熱の蒸気。その向こうで目だけが真っすぐこちらを見ていた。
——『白が敷かれている世界ごと見ろ。白の内側も外側もまとめて抱えろ。それができない判断はいずれ曲がる』
白帯の光。ちぎれた高架。巨大構造物の影から逃げる列。守れなかったもののほうばかりがどうしても目に焼き付いて離れない。
ヒロは子どもたちの写真のほうをそっと持ち上げた。
指先に薄いガラスの冷たさが移る。雑に肩を寄せ合う笑い顔ばかりが並んでいる。灰の色も砲声もまだこの写真には映っていない。
自分の声が少し遅れて頭の中に流れてきた。
——『正しいかどうかで迷って止まるな。子どもの声が聞こえる方に動け。そこで止まったら俺がお前を殴る』
アキヒトにそう言った日のことを思い出す。あのとき自分は迷っていなかった。白帯の内側と外側を見比べる余裕もなく「どっちに倒れてほしくないか」だけで動いていた。
別の会話も続くように重なる。
——『任務のたびに少しずつ取り返せ』
——『何を』
——『子どもの明日だよ。俺たちがもらうのは報酬と次の一息ぶんの時間だけでいい』
あれは誰に向けて言った言葉だったか。アキヒトにVOLKにそれとも自分自身に。
「持ってたんだろ」
小さくつぶやく。
答えはどこか遠くにあると思っていた。セーブルがどこかから持ってきてくれるか父がいつか示すか――そんなふうに考えていた時期もたしかにあった。
でも本当はずっと前から自分で口にしていた。
子どもの声が聞こえるほうへ動け。任務のたびに少しずつ取り返せ。報酬と次の一息ぶんの時間だけもらえればそれでいい。
それが自分の選び方だったはずだ。
セーブルに言われた「全部抱えろ」という言葉が少しだけ形を変える。
全部抱える。全部守るじゃない。救えなかったものも一緒に持ったままそれでも前に出るという意味だ。
「全部守ろうとするから動けなくなるんだよな」
写真の中の自分は小さすぎて表情がよく見えない。父の軍服の裾を握っている小さな手だけが妙にはっきりしている。離れるのが怖かったのか。離したくなかったのか。たぶん両方だ。
ヒロは子どもたちの写真をそっと父母の写真の前に置いた。少し角度を変えてサキの顔と子どもたちの頭がまっすぐこっちを向くように。
守れなかったものは消えない。セーブルも橋で落ちた列もポートランスも。
それでも——。
「少しずつか」
声に出してみるとどこか腑に落ちた。
一度の任務で全部取り返そうとするから足が止まる。ひとつの判断で過去ぜんぶをやり直そうとするから迷う。
だったら今まで通りにするだけだ。
子どもの声が聞こえるほうへ少しでも近いほうへ。正しいかどうかはあとになってから勝手についてくる。まず動け。動いて拾えるものを拾え。
「セーブル大佐」
誰もいない部屋で名前だけを呼んだ。
返事は返ってこない。けれど甲板で聞いた声の残り香がまだどこかに残っている気がした。
「あんたの顔増やしすぎないようにする」
「増やさない」と言い切る自信はまだない。だから今はそれが精一杯だった。
写真立ての位置を指先でそっと整えてからヒロは椅子に腰を下ろした。
机の上には次の任務の概要が表示された端末。巨大構造物の影と避難ルートの印。その端に小さく《VOLK-隊長裁量》の文字。
全部は守れない。でもまったく守れないわけでもない。
セーブルの言葉と自分が昔口にした言葉と。その両方を並べてヒロは短く息を吐いた。
曇りはまだ晴れてはいない。それでもその向こうにかすかな輪郭だけは見えている。
自分がどこに近づきたいのか。どこまでならまた殴られてでも前に出られるのか。
答えはきっと大きくは変わっていない。
ただそのことを――ようやく少しだけ思い出した。
――次回、
第十五章 コンラート・ヴェルナー(オリジン)
第78話「白帯の判断線」へ続く




