第76話 灰をさらう風
夜の甲板は昼ほど明るくも騒がしくもなかった。
灰を払った鉄板の上でアキヒトは壁にもたれて座り込んでいた。腰のあたりにひんやりした鋼板の感触がある。艦の骨組みは昼の熱を少しだけ残していて落ち着かない温度だった。
視線の先には灰の荒野が広がっている。遠くで白帯の光がかすかに筋を引いていた。
昼間の殴り合いの名残で頬がじんじん痛む。拳を握ると指の節がきしんだ。ヒロの顔も殴り返してきた拳も妙に鮮明に頭に残っている。
(隊長が曇ってると死ぬのは現場のやつらだ、か)
さっき自分で吐いた言葉を自分で噛み直す。
橋の崩落。セーブルの最後。コンラートの横顔。ヘルマーチの頃コクピットから見たちぎれた導光の線。
それから——艦内の窓の向こうで無邪気に笑っていた子どもたち。ナロアの肩越しに覗いていた小さな手。
守るとか守れなかったとか。どの口で言える立場なんだろうな、と一瞬だけ思う。
気づけば同じところをぐるぐる回っていた。その輪が少しだけ緩んだのは背後から声が落ちてきたからだ。
「寒くないですか?」
振り向くより先に温かい匂いが鼻をかすめる。食堂の匂いだ。薄いコーヒーに粉ミルクの甘さが混じったような。
サキがマグを2つ、両手に持って立っていた。
「差し入れです。はるゑさんがまだ起きてて」
湯気の立つマグがアキヒトの前に差し出される。
「悪い」
短く言って受け取る。鉄のマグは外側まで熱が伝わっていて指先がじわっとほどけた。
サキはそのまま隣に腰を下ろした。甲板に直接座り込み同じ壁に背を預ける。その動きに迷いはなかった。
「子どもたちは?」
「寝ました。今日はさすがに起きてこないと思います」
サキがマグの縁に唇をつける。ひと呼吸置いてから横目でアキヒトの顔を見た。
「顔だいぶやられてますね」
「隊長も似たようなもんだ」
あえてそっけなく返す。
「VOLKのみなさんよく殴り合いますよね」
サキの声に苦笑が混じる。
「子どもたちもう驚かなくなってきました。"まただ"って顔してましたよ」
「いい慣れ方じゃないな」
自分で言って苦笑が漏れた。
サキもふっと笑った。
「でも帰ってきてから殴ってるぶんにはまだましだと思います」
「そうか」
「はい。戻れなかったら殴り合いもできませんから」
重くなりそうな言葉をサキは静かな調子で言った。責めるでも慰めるでもない。
それからマグを口に運ぶ音だけが続く。甲板の向こうで夜風が灰をさらさらと撫でている。星は見えない。
「アキヒトさんは」
先に口を開いたのはサキだった。
「怖くないんですか?」
「何が」
「いろいろです。あの巨大構造物とかヘルマーチとか。ああいうのを見てもまだ前に出るのって」
アキヒトは一瞬だけ考えてから答えた。
「怖いさ」
「そうですよね」
サキは素直にうなずく。
「怖くなかったらとっくに頭おかしくなってる」
それだけ言ってまたマグを傾ける。ぬるくなりかけた液体が喉を通っていく。
「じゃあどうして行けるんですか」
問い方は淡々としているのにどこか子どもたちと同じ匂いがあった。
「仕事だからな」
それは本心の半分くらいの答えだった。
「それに——」
少しだけ言葉を足す。
「誰も死なない戦場なんてない。それでも少しでもマシな判断にできるなら前に出るしかない」
自分で言いながらあの夜のセーブルの声がよぎる。隊長のこと。判断のこと。ヒロにぶつけた言葉のうちどれくらいが自分に戻ってきているのかはまだ整理がついていない。
サキはそれきり何も言わず灰の荒野を眺めていた。
「私ここに来るまで戦場なんてどこか遠い場所のことだって思ってました」
ぽつりと落ちた声は少しかすれている。
「今もちゃんとは分かってないと思います。でも子どもたちが"帰ってきてほしい"って言ってる人たちが本当に帰ってきてくれるのはすごくほっとします」
戦場の外側からの素朴すぎる言葉だった。
「だからその」
サキは言葉を探しながら続ける。
「殴り合いはちょっと控えめでお願いします。ここでまで怪我されたらさすがに困るので」
「気をつける」
即答するとサキが少しだけ肩の力を抜いた。
「約束ですよ」
「ああ」
やり取りはそこでいったん終わった。サキはマグの中身を飲み干しゆっくり立ち上がる。
「じゃあそろそろ戻ります。明日も忙しそうなので」
鉄板の上で靴底がかすかに鳴る。出入口へ向けて一歩踏み出そうとしたそのときだった。
アキヒトの手が無意識に伸びていた。サキの袖口を指先がそっと捉える。
サキが息を呑んで振り返った。
「悪い」
自分でも少し戸惑いながら言った。
「あと少しいいか」
夜風が二人のあいだを抜けていく。
サキは一拍だけ黙りそれから小さくうなずいた。
「はい」
それだけ言ってまた隣に腰を下ろす。さっきと同じように壁に背中を預け空になったマグを両手で包んだ。
今度はどちらも何も言わなかった。
遠くの機関音。甲板のきしむ音。灰をさらう風の気配と二人分の息づかいだけが静かな時間の中に残る。
アキヒトは空のマグを片手に持ったまま荒野の闇を見つめ続けた。さっきまでの張りつめた何かが少しだけ緩んでいく。
その変化に言葉は要らなかった。
――次回、第77話「写真立て」へ続く




