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灰の傭兵と光の園~人型兵器が、泥と血と油の中で唸る。装甲が砕け、信念だけが削れていく~  作者: 青羽 イオ
第六章 ヴァイス艦長のひまつぶし

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第26話 後編 ゼリーとマグカップと艦長と

 当直を次の班に引き継いだあと、ブリッジはめずらしく静かだった。外のモニターには、整った白帯の列と、その外側で待機するRFのマーカーだけが映っている。アラームもタグの数も、ほとんど動かない。


 ブリッジ管制主任のジルが、いつもの落ち着いた声で確認を終える。


「白帯タグ、変化なし。白外も反応なし」


 髪を後ろでまとめたまま姿勢を崩さず、端末を閉じる。規則には厳しいが、声を荒げることは滅多にない。


 そのタイミングで、ブリッジの扉が勢いよく開いた。


「うーっす」


 通信担当のアントニオが入ってくる。背が高く、落ち着きのない男で、手には湯気の立つマグカップ。


「おい」


 ジルの声が一段低くなる。


「ブリッジは“フタ付き容器以外持ち込み禁止”だと、先週言ったばかりだろう」

「分かってますって。これ、ちゃんと安定してるやつなんで」


 アントニオは取っ手をひょいひょい揺らして見せ、中のコーヒーが縁ぎりぎりで波打った。


「お前な。前回それをコンソールにこぼして、白帯タグが全部ブラックアウトしたのを忘れたのか」

「いや、あれは揺れが悪かったんですよ。俺じゃなくて艦のせいっていうか」

「記録では、お前が椅子の脚に引っかかって転んだことになっている」

「ログは消せるじゃないですか。ついでに俺の黒歴史も全部」

「消さない」


 即答に、アントニオが肩をすくめる。その横を、銀色の細長いボトルを抱えた男が通り過ぎた。戦術長のアークだ。細身で、いつも計算しているような目をしている。


「見ろよ、俺のは合法だ。フタ付き。耐衝撃。軍の備品。一切問題ない」


 ボトルを軽く振り、妙に得意げだ。


「中身、何です?」


 観測担当のミナトが、椅子にもたれたまま首だけ向ける。癖のある前髪越しに、ボトルをじっと観察していた。


「……茶だ」

「なんでちょっと間があったんですかね」


 小声の突っ込みに、アークが気まずそうに視線をそらす。


「茶でもコーヒーでもいい。フタが閉まっていれば」


 ジルは言い切ってから、アントニオのマグを見た。


「それはダメだ」

「大丈夫ですって。ここに置いとくだけですから」


 アントニオは自席のコンソールから一歩分離れたサイドラックへマグを置く。


「ほら、これなら万が一ぶつかっても――」


 ちょうどそのとき、ブリッジの床がわずかに揺れた。下層デッキで重い機材を動かした振動が伝わってきたのだろう。マグの中身が小さく跳ねる。


「……」

「……」


 ジルは無言でマグへ歩み寄り、静かに持ち上げた。


「ちょ、待って待って待って! それ俺の今日一番の楽しみなんすけど!」

「今日一番の楽しみがコーヒーなら、明日もあさっても楽しめるはずだ」

「なんすかその理屈!」


 そのやり取りを横目に、センサー長のセイナが自分の端末の横へ、小さなボトルをそっと置く。短くまとめた髪にヘッドセット、数値とログに強く、感情はあまり表に出さない。


「セイナさん、それ何です?」

「ミルクティー」

「かわいいな」


 ミナトが笑うと、セイナは少しだけ眉をひそめる。


「糖分は必要。長時間の監視では、低血糖のほうが事故につながる」

「言い訳が完璧ですね」

「これはフタ付きだから、規則上問題ない」


 会話の後ろで、プシュ、と缶が開く音がした。


 砲術担当のダンだ。白髪混じりの短髪に無精ひげ、何度も前線を見てきたベテランで、仕事終わりの酒がよく似合う。


「ダンさん、それ何です?」


 避難区画オペレーターのカエデが、おそるおそる尋ねる。黒縁メガネの奥の目は、さっきまで避難区画のモニターに固定されていた。


「ただの炭酸水だ」

「色、ちょっと琥珀色っぽいですけど」

「艦の照明が悪い」


 ダンはすました顔で一口だけ飲んだ。


「ジルさーん、あっちもあやしいんですけど!」


 アントニオが抗議するが、ジルは淡々とマグを掲げる。


「これは没収。あとで食堂で返す」

「冷めるじゃないっすか!」

「そうならないように、フタ付き容器を使え」


 アントニオは静かにうなだれた。


 そのとき、ブリッジの扉が再び開き、艦長のヴァイスが入ってくる。


 背は高くないが姿勢はいつも真っ直ぐで、飾りのない制服のまま歩いてくるだけで、周囲の空気がきゅっと締まる。ジルは反射で背筋を伸ばし、手に持ったマグを視界から外す位置へ下げた。アントニオは、なぜか手を後ろに組む。


「艦長」


 ジルが報告する。


「当直班、交代済みです。白帯安定、白外に変化なし。……それと、ブリッジ内、飲料容器の規律も――」


 そこで言葉を切り、手元のマグを見た。


「……概ね、遵守されています」

「概ね、が気になりますけど」


 ミナトが小声で漏らし、アントニオが「俺のことだろ」とさらに小さく返す。


 ヴァイスはそのやり取りを横目に、ブリッジを一周見渡した。アークの銀色のボトル、セイナの小さなミルクティー、ダンのラベルのない缶。カエデの席の横には、まだ何もない。


 しばらく黙ったあと、ヴァイスは自分の手元へ視線を落とした。


 紙コップ。半分ほど残った薄いコーヒー。


 ジルと目が合う。


「艦長」


 注意とも問いともつかない声だった。


 ヴァイスは視線を少しそらし、近くのゴミ箱へ向かう。紙コップを音を立てないように捨てた。


「……続けろ」


 それだけ言い、メインコンソールへ歩いていく。


 短い沈黙のあと、ジルが小さく息を吐いた。


「……はい。各自、飲料容器の規律を再確認するように」

「艦長、自分で捨てましたよ?」

「だからこそ、他が油断するとバランスが取れない」

「理屈が分かるような分からないような……」


 ブリッジのあちこちで、フタ付きボトルのキャップが、そっともう一段しっかり閉められた。艦長が捨てた紙コップのことを、誰も口には出さなかった。



――次回、第27話「隊長は責任を、艦長は夜を歩く」へ続く

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