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灰の傭兵と光の園 〈ロボットイラストあり〉  作者: 青羽 イオ
第二期 ハロー・グッドバイ 灰の傭兵と光の園/第一章 灰霧の縁

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第5話 触れた境界

 休憩室の前を、サキが静かに通り過ぎる。艦の子ども区画を担当する世話係で、夜間の巡回は彼女の仕事だった。艦内灯は夜間モードで落ちていて、通路の奥から青い表示灯が一定の間隔で瞬くのが見えた。


 薄く空いた休憩室の扉から、灯りが通路に細くこぼれている。歩幅を詰め、足音を消す。開いた隙間の奥に、ソファ。


 アキヒトが寝ていた。


 背中を沈めて、肩の力が抜けている。缶コーヒーは指から落ちないまま握られて、肘から先だけが少しずれている。口がわずかに開き、呼吸は一定だった。起きているときの硬さが、今は顔にない。


 扉を押し広げず、その隙間から滑り込む。備え付けの棚の前で膝を落とし、上段のブランケットを一枚だけ引き抜いた。折り目を崩さないように持ち上げ、床に擦らないよう抱えてソファへ戻る。


 ブランケットを広げると、空気が少し動いた。サキは身を寄せ、アキヒトの肩から胸へ、余りを足元へ流す。体に沿わせ、端を軽く押さえて落ち着かせる。起こさないために、指先の圧を最小にする。


 前髪が目元に落ちかけていた。手を止めて、少しだけ迷い、髪の流れを見てからそっと横へずらした。起きない。眉間も動かない。睡眠の深さが、そのまま今の消耗を示していた。


 立ち上がらず、低い姿勢のまま近づいて、手の甲をアキヒトの額に当てた。熱は高くない。ただ、汗の名残が薄く残っている。戦闘服の襟元は乾き切っていない。艦内の冷えと、帰艦後の慌ただしさが混じった温度だった。


 手の甲を離すとき、撫でるような動きが一度だけ入った。意図はない。その動きごと引き取って、指先を自分の膝に戻した。


 足音が通路の奥へ遠ざかる。休憩室には、再び静寂が戻った――。


 アキヒトの端末が淡く光る。


[ノルン/監視通知]

[MEM値/+0.7 一時的上昇を検出]

[要因/不明・外的刺激の可能性]


 ソファの下で、灰が薄く渦を巻いた。空調の流れとは無関係に、粒子が引き寄せられるように集まり、ゆっくりとほどけて沈んでいく。


 アキヒトの呼吸は、変わらず穏やかなままだった。


 *


 医務室は消灯時間のあいだも稼働している。走行機関の振動が床から伝わり、装置のファンが一定の音を保つ。イズミは夜勤台帳の横に端末を置き、子どもたちの健診結果を一人ずつ開いていた。


 体温は平熱。呼吸音も問題なし。灰膜過敏の反応は軽度。栄養状態も及第。いつもの並びを確認していき、最後の欄で指が止まる。


 MEM値。


 灰への被曝履歴が蓄積すると、体内に微細な共鳴反応が残ることがある。その痕跡を数値化したものだ。正常値は限りなくゼロに近い。


 表示が薄くなっている子が多い中で、数人だけが帯から外れていた。0.010より上。0.050に近いものもある。確度の表示が低いものもあれば、中程度で固定されているものもある。測定の揺れで済ませられる範囲ではない。


 イズミは過去ログへ切り替えた。同じ子の前回、前々回。数値の並びを重ねる。上下はしているが、落ち切らない。生活の乱れがある子ほど、残りやすい。灰の濃い区画を通過した経歴がある子に偏る。


 センサーの癖かもしれない。採血のタイミングかもしれない。空調の状態、睡眠の浅さ、そういうものは数字を動かす。


 それでも、とイズミは画面を見つめ直した。


 MEMが直接の原因かは断定できない。医療側の扱いとしても、まだ決まっていない。だが相関は見える。灰膜過敏――灰の粒子が皮膚や粘膜に定着して炎症を繰り返す状態――や、レゾナンス異常――LSLの接続経験がある者に出る神経系の過応答――と並んで現れる。ならば、医務としては「要観測」としか書けない。書いたところで、次の手順が続かないのが問題だった。


 全員にモニターを付ければ、異常が出た瞬間に気づける。心拍と睡眠と、MEM値の変動。


 イズミはペンを置き、空のパッチケースを見た。


 ここは研究施設ではなく、子どもたちは番号ではない。サキが毎晩、誰の寝息が乱れたかを音ではなく気配で拾っているのを知っている。そこへ警告音を足せば、日常が壊れる。


 では、異常値が急に上がったとき、どうする。


 対応という語だけが残る。手順がない。上がった先に何が起きるかも、分からない。危険ではないのかもしれない。何も起きないのかもしれない。


 それでは、守る計画にならない。


 アストレイアの研究施設なら、もっと多くの記録を持っているのだろうか。企業が管理する医療データには、この艦の医務では届かない蓄積がある。だが、そこへ問い合わせれば、子どもたちの数値が別の場所へ渡る。監視網の外にいる艦の医務が、それを知る道は細い。知りたいと思う時点で、踏み込んではいけない線も見える。


 結論を書けないまま、所見欄に短く「継続観測」とだけ打った。


 そのとき、壁のモニターが一瞬だけ乱れた。波形が潰れ、画面の端に白いノイズが走って消える。瞬きほどの時間で戻ったのに、イズミは端末を閉じず、ログ保存の表示を確認した。


 部屋の隅で、灰の粒がふわりと持ち上がった。空調の風ではない動きで、遅れて床へ落ちる。落ちたあとも散らず、重く残る。


 立ち上がり、吸気フィルターの圧を見た。数値は正常のまま。


 艦内が、一度だけ息を呑んだ。


 音ではない。圧の変化。耳ではなく肌が拾う、空気の薄さ。どこかの区画で換気の流れが一瞬止まり、また戻った。屋外では起きても、艦内では起きないはずのことだった。


 リフロー――。


 モニターへ視線を戻した。画面は、何事もなかったように波形を刻み続けている。医務ができることは、少ないままだった。



 To the Next Sortie.

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