第4話 静寂を手放せない
休憩室は狭い。壁際に安いソファが二つ、潰れたテーブルが一つ。空調は効いているが、格納庫の匂いは完全には抜けない。
壁には大陸の地図が貼られていて、白帯の幹線が太い線で書き込まれている。線の途中に、ところどころ空白がある。上から描き直した跡もある。修正テープの白さが残り、端がめくれて影を作っていた。
アキヒトは地図の横に立ち、背を壁に当てたまま、手の置き場を決めないでいる。
扉が開いて、ヒロが入ってきた。
「ほら」
缶が飛んできた。手が動いて受け取る。温い。冷たいよりはましだ。
ヒロはもう一本を自分で開け、慣れた動きで安いソファに腰を落とす。煙草を持った手で、目にかかった前髪を面倒くさそうに掻き上げ、灰皿の位置を確かめてから火をつけた。吸う。吐く。室内の空気が少しだけ変わる。
「白帯、また消えたな」
地図の空白を見て言った。
ヒロは缶を一口飲み、煙草を指に挟んだまま地図を見た。
「道が消えて、増えた灰が道を潰す。守りが薄いところから先に」
声に感情はない。缶の縁を指でなぞる。
「ヒロ、お前UDFにいたんだろ」
「士官学校を出て、配属。普通に入った」煙を吐く。「そのあと抜けた。脱走だ。クレイブ・アクトに転がった」
クレイブ・アクトはUDFが正規戦力として認可しない非正規の戦闘集団だ。傭兵でもなく、民間でもない。灰の世界ではそういう場所が、抜けた人間の落ち先になる。
脱走。その単語が室内の空気を少しだけ硬くする。目線を地図から動かさない。掘れば長くなる。それで任務が軽くなるわけではない。
「脱走って言い切るの、珍しいな」
「言い方を飾るほど、いい経歴じゃない」
ヒロは笑わない。缶を鳴らさずにテーブルへ置き、煙草を一口吸った。
「俺も、ろくでもない側だ」
「今さらだろ」
短い返しで終わる。
缶を握り直し、別の角度から聞いた。話の重さは変えない。ただ、呼吸を戻したい。
「ヴァルケンストームのほうが良かったか。バッファローに替わって、手応えはどうだ」
ヒロは煙草を指で回し、背を起こしたまま答えた。
「運動性能も反応速度も、RF‐17系のほうが上だ。バッファローが悪い機体だとは思わないが、さすがにLSLもない旧式機だからな」
言いながら、前髪をもう一度払う。
「隊長として隊をまとめるぶんには問題ない。だが、前みたいな格闘戦はきつい」
「心配するな、前衛一人分くらいなら俺がカバーできる」
缶を一口飲んだ。甘さが舌に残る。現場で、好き嫌いは言っていられない。
「脱走して、傭兵になって、それで隊長なんてやってる。変な話だ」
「変じゃないさ。UDFが壊したあとに残ったのがこれだ」
ヒロは地図の空白を見て言う。
「道が消えて、仕事が増える。守りが薄いところから人が死んでいく。それを誰かが埋めるんだ。俺らみたいのがな」
返事を急がなかった。地図の空白に目が留まり、そこにあった街の名前を思い出そうとする。思い出せない。忘れていくものが増えている。
ヒロが煙草を灰皿に落とし、火を揉み消した。
「血の街路の前から、もうおかしくなってた」
唐突だった。だが、独り言ではない声だった。
アキヒトは顔を上げる。ヒロは地図を見たままだ。
「最初は、テロの芽を摘むとか言ってた。北壁まわりで、火が付く前に潰す。そういう任務だ。即応だから、毎日みたいに出てた」
缶を持つ指が少しだけ止まる。
「そのころ、別の部隊も見た。アッシュフォールだ」
アキヒトは何も言わない。アッシュフォールはUDFの特殊任務部隊だ。正規の戦闘記録には載らない。現場でその名前が出ると、話の空気が変わる。
ヒロは煙草を灰皿の縁で一度だけ止めた。
「あれを見た時点で、もう駄目だと思った。UDFは立て直せる段階を過ぎてた」
「ひとつの作戦で、そこまで言い切るのか」
「ひとつじゃない。ひとつじゃないが、あれで分かった。命令の文言はまだ整っていたんだ。治安維持、掃討、秩序回復。書類の上では、どれも軍隊の仕事として読める。だが現場でやっていたのは、そんなものじゃない。見せしめと報復だ。武装しているかどうかも曖昧な相手をまとめて敵にして、逃げ遅れた民間人まで巻き込んで、それでも報告書の上では『排除』で終わる。あの頃にはもう、それが珍しくもなくなっていた」
「現場が腐ってた、じゃなくて」
「組織が、それを通すようになってた」
アキヒトは缶を持ち直した。
「ヘルマーチも、そう見えてたのか」
「お前がいたヘルマーチも、アッシュフォールも、そういう流れの中で生まれた部隊だ。最初は理屈があったはずだ。通常部隊では足りない、戦線が持たない、急場を埋める戦力が要る。そういう理由で切り出したんだろう。だが一度ああいう部隊を作ると、組織はそこに甘える。止めるべきことを止めないまま使い続ける。結果が出れば、なおさらだ」
「便利な刃を、捨てなくなる」
「そうだ。特殊作戦軍だの突撃旅団だの、名前は何でもいい。最後には、何のために作ったかじゃなく、何を押しつけるのに都合がいいかで残るようになる。最初の理由なんて、もう誰も覚えていない」
少し間が空いた。
「怖かったのは、命令そのものじゃないんだな」
「逆だ。文面はきれいで、手続きも報告も揃っていた。つまり、おかしいことをおかしいまま通せる形がもう出来上がってた。ああなると、現場の狂いじゃ終わらない。組織そのものが、そういうやり方で回り始めてる」
「だから見限った」
「一つの作戦でも、一人の上官でもない。ああいうものを必要として、平然と使い続ける組織そのものをな」
ヒロは短く息を吐いた。
「まだ血の街路の前だ。それでも、先は見えてた」
休憩室の空調が細く鳴る。壁の地図の白帯が、誰かの手で無理に引き延ばされた線に見えた。
「血の街路のとき、お前は首都にいたわけじゃないんだな」
「いなかった」ヒロはすぐに答えた。「北壁にいた。潰して、戻って、また出る。その繰り返しだった」
そこで一度言葉が切れる。
「あの時、集められる部隊は、みんな首都へ寄せられた。ラインガードまで鎮圧に回された」
アキヒトは缶を持ったまま動かなかった。ヒロが続ける。
「恋人がいた。首都近くのハブだ。ラインガードの兵長だった」
声の高さは変わらない。変わらないまま、その一文だけが部屋の空気を変えた。
「血の街路で死んだ」
アキヒトは何も返せない。軽くならないようにすると、沈黙しか残らない。
ヒロはそれでいいという顔もせず、地図の空白を見たままだった。
「俺の部隊が着いた時には、だいたい終わってた」短い言い方だった。「終わってたっていうのは、片付いてたって意味じゃない。燃えるものがだいたい燃え終わって、撃つ相手の数だけ減ってたってことだ」
テーブルの上の缶を取り、また一口飲む。
「暴動の形はしてた。でも、そこへ行くまでに何が積み上がってたかは、もう見えてた」
アキヒトは地図へ視線を戻した。白帯の空白がひとつでは足りない気がした。
「……アン、って名前か」
ヒロが少しだけ目を動かす。
「前に呼んだか」
「一回だけ」
「そうだ」
答えたあと、ヒロの手が胸元へ上がった。制服の胸ポケットの上を、親指が一度だけなぞる。そのまま手を下ろした。本人は気づいていない動きだった。
「ヘルマーチも、似たような流れだった」
ヒロの言葉を受けて、アキヒトは缶を握り直した。ヘルマーチはアキヒトがかつて所属していた部隊だ。UDFでもVOLKでもない。灰の前から動いていた組織で、今は名前だけが残っている。
「騒ぎになる前に落とす。残る前に消す。そういう理屈で動く。現場を見る前に、座標だけで終わらせる仕事が増えた」
「キャンプごとか」ヒロの問いは短い。
「ああ」アキヒトは缶を握り直した。
「白帯ごともか」
「ああ、やった」缶を握った指先が白くなる。
言えることは少ない。どこで、何件、誰が命じたかを並べても、いまさら何かが揺り戻すわけじゃない。
「見なくて済む分、そっちのほうが長く残るな」とヒロ。
「ああ、残る」アキヒトは否定しない。
「目の前で見た連中は、まだ怒りの向け先がある。こっちは、何を消したのか後からしか形にならない」
しばらく、どちらも喋らなかった。
壁の地図。修正テープの白。めくれた端の影。消えた線の跡だけが残っている。
ヒロは地図を見たまま言った。
「俺は、血の街路を止められる立場でも、止められる場所でもなかった。上で決まったものが流れてきて、現場はその通りに動く。俺はその中の一人だった。ただ、変わっていくのは分かった。少しずつだ。命令の文言は同じでも、向ける先が変わる。守るって言葉の中身が、別のものにすり替わっていく。それでも任務は来る。出る。戻る。また出る。軍人としては、それしかない」
ヒロはそこで一度、黙った。
「血の街路は、その先にあった。急に始まったんじゃない。あそこへ行くまでに、もうだいぶ壊れてた。アンが死んで、ようやく切れた。嫌気がさしたっていうより、もう着ていられなくなったんだろうな。あの軍の形を」
その線引きは、誰に向けた弁明でもなかった。
ただ、自分の中で順番を間違えないために言っている響きだった。
アキヒトはようやく口を開く。
「俺も、ヘルマーチを抜けたのは、ひとつの任務だけじゃない」
ヒロが少しだけ視線を寄せる。
「積もってたか」
「積もってた。最後に形になっただけだ」
「そういうもんだろうな」
ヒロはそれ以上、踏み込まなかった。
缶を握ったまま、少しだけ頷いた。壁から背を離し、ソファへ移った。沈み込みが深く、腰が落ちる。ヒロの横に座っただけで、気力が少し抜けた。
缶は手から離れない。指先が硬いまま残り、頭だけが前へ落ちる。息を整える前に、言葉が遠のいた。
ヒロは黙っていた。缶を一口飲む。吸っていない煙草を指先で弄び、灰皿へ視線を落とす。その動きは雑に見えるのに、迷いがない。
手が肩に置かれた。押さえない。重さもかけない。
「お互い、簡単にはいかないな」
ヒロは立ち上がり、前髪を指で払って扉へ向かった。振り返らない。出ていく背中が、廊下の灯りに一度だけ切られ、扉が閉まった。
腕の端末が震えた。画面を見なくても分かる。ノルンだ。表示を開く。
[パイロット状態。休息を推奨します]
[水分摂取を推奨します]
[睡眠不足。休息を推奨します]
返事を入れず、ソファに横になった。背中にハーネスの跡が残り、寝返りがうまく打てない。
廊下から、小さな足音が走ってくる。続いて笑い声が短く重なる。明るい声だ。ここは子ども区画ではない。距離がある。聞き間違いだと片づけても、音の輪郭はすぐ消えない。
目を閉じると、繋いだLSLの感触が浮かんだ。あの瞬間だけ、頭の中に散らばった場面と音が遠のく。消えるわけではない。忘れるわけでもない。ただ、見えなくなる。聞こえなくなる。隅へ追いやる意志を使わなくても、そこから外れる。戦闘に必要なものだけが残る。それは自分にとって、静寂だった。その静寂を手放せなくなってきている。
アキヒトは端末を伏せた。
以前より戦いやすい。その事実が、いちばん信用できなかった。
目を閉じた。廊下の足音は、まだかすかに続いている。あの声が誰かの子どもなら、白帯の外へ出さないために誰かが今日も動いている。その誰かに、自分が入っていていいのかは分からない。それでも明日も前に出る。
意識が切れた。
To the Next Sortie.




