第5小節目:『雨と雫』
「ひゃー! すっかり濡れちゃったね! 大変大変」
「いや同じ立場みたいな感じで言ってるけど。そっちは自分から勝手に濡れてって、おれは被害者だから」
傘を取り合いながら店まで戻っている数十秒の間でも、それなりに大雨だったので、結構濡れてしまった。
「あー、うける」
言いながら、東条は傘を傘立てに置いて、カウンターの方に向かう。
おれはピアノの近くに置いた自分のカバンからタオルを取り出した。
「東条はタオル持って——」
るのか、と言いかけて振り返った瞬間、おれの動きはフリーズする。
「ん?」
「タタ、タタタタ…」
「たたたた?」
東条はその少し前かがみの姿勢のまま首をかしげる。
「なんでもない!」
おれは慌てて壁の方に向き直る。
「……あ、タイツ脱いでたの、嫌だった?」
そうなのだ。東条はなんと、タイツを脱いでいた。
「い、嫌とかそういうんじゃなくて……そっちが嫌だろ……!」
ちょうどタイツの穿き口が太もものあたりにおりてきているところで、しかも前屈みのブラウスの隙間から、多分見えてはいけない深淵がこちらをのぞいていた。
濡れ髪とあいまって、日陰者のおれには眩しいどころか網膜を焼き切るほど。
目をしばたたかせてどうにかその光景を追い出そうとするも、すればするほど脳裏にしっかり刻まれてしまう。
「いやー別にパンツ見せてるわけじゃないし……。靴下脱ぐのと一緒っていうか」
おれの必死の抵抗などお構いなしに、「いやーごめんねー」とかのんびり言ってる東条。
「はい、もう脱いだから大丈夫だよ」
「脱いだら大丈夫じゃないんじゃないか?」
「いや、ただの裸足に過剰反応されても困るんだが」
それはまあ……たしかに。
と思って意を決して振り返る。
「いや、東条……」
おれは目を閉じて自分のブレザーを脱いでそちらに放る。
「え? なに?」
「その……服が」
タイツは脱ぎ終わっているが、今度はブラウスが濡れている。……必然的に、中にあるものが透けていた。
キャミソールというのかなんなのか、黒い服を中に着ているようだったので、さっきほどは動揺しないで済んだが。もはや呆れに近い。
「あー……これは、お目汚しを……」
「お目汚しとかではなく……」
ではなく、とは言ったものの、そのあとになんと続ければいいのか分からず口をつぐんだ。眼福とかいいたいわけじゃない。目のやり場に困るというそれだけのことだ。
「ごめんね、あたし中学女子校だから……」
「その言い訳、万能じゃないからな……」
「たははー、ごめんって……ちょっと待ってね、Tシャツに着替えてくる」
そう言って、カウンターの奥の扉の向こうに引っ込んだ。
「はい、今度こそ本当に大丈夫!」
カウンター奥の扉から赤いTシャツにスカート姿の東条が出てくる。
「Tシャツ、よくあったな。置いといてるのか?」
「あー……うん、たまたま、ね」
よくみると、Tシャツには『MUSAKOKU DANCE CLUB』と書いてある。
MUSAKOKUはうちの高校・武蔵野国際高校の略だ。ダンスチームは言わずもがな、ダンス部のことだろう。
『正確には……ダンス部だった、だね。ついこないだ辞めちゃったんだ』
「……そうか」
おれは立ち上がり、ピアノの前に座る。
「さっきの詩、もう一回読ませてもらってもいいか」
「え? あ、うん」
東条は『私詩』を持ってきて、そのページを見せてくれる。
おれはそれをピアノの譜面台に立てかけて、ぽろん、と一つ音を鳴らしてみる。
そして、
『だって、雨ってなんか文学的じゃん?』
東条の言ったことをふと思い出し、そこから音を低い方に等間隔で落としてみる。
「おお……」
そう。
雨は、たしかにどことなく文学的なのだ。
それは晴耕雨読という言葉が浸透して、雨=読書というイメージがついているからかもしれない。
もしくは、雨が上から下に線を引く様子が、縦書きの小説みたいに見えるからかもしれない。
粒でもあり、線でもある。
「うわぁ、なんかめっちゃ雨だ……!」
ピアノは、雨と相性がよさそうだ。
今なんとなくテンポなしでぼんやり弾いているところに、リズムを与えていく。じゃないと、東条のリズム感が生きないから。
おれはそろそろ入ってきていいぞ、と東条の方を見る。
『MUSAKOKU DANCE CLUB』
……そっか。東条はダンス部だったから、リズム感があるのかもしれない。
「じゃ、いくよ?」
おれが頷きを返すと、東条は息を吸って、ピアノの雨音の中、緊張しながら歩み始めた。
* * *
『雨と雫』
透明の傘を粒が叩く
校門まで行って忘れ物をしたフリ
本当に忘れ物の多い彼も
今日の部活は中止
透明の傘を粒が叩く
下駄箱 昇降口に見えて立ち止まる
本当に勘違いの多いあたし
紫陽花の柄が綺麗な傘
* * *
そこまで読んだところで、東条が「あ」という顔をする。
……ああ、そうだった。
おれもその顔を見て思い出した。
おれは右手でピアノを弾きながら左手でスピーカーの方を指さす。
東条はしっかり頷いて、スマホを操作した。
——いくよ。
口パクでそういうと、スピーカーから先ほど録った雨音が流れ始める。
「「おお……」」
演奏中なのについ二人の声が漏れる。
なかなか悪くない。
* * *
安物の傘はやっぱりダメだ
顔を隠せない
すれ違う相合傘
雨粒にしのばせた
あたたかい雫 ぽつりぽつり
* * *
止まない雨を見せるべく、東条が読み終わった後も数小節弾いてから、おれは音をフェードアウト気味に止めていく。
「…………やばい、めっちゃ雨。エモい」
「詩人の語彙じゃないな……」
呆れたポーズをしてみるが、おれも内心だいぶ興奮していた。
「ううううううう!!」
そういってまた地団駄を踏む東条。その奇行が毎度嬉しいな。
「ていうか、小泉、天才では?」
「いや、そんな……おれは子供の頃から習ったことをやってるだけで」
「あ、ごめん。努力不足みたいなことが言いたかったわけじゃなくて……!」
「? 別にそんなこと思ってないよ。もうちょい合わせてみるか」
「うん!」
そのあと何回か合わせて、その日は解散した。
そして、翌日の朝。
「おはよ、小泉!」
「おはよう……」
おれがあんまり動揺しない方がいいとわかっていつつも、どうしても学校だと緊張しちゃうというか、なんというか。
「今日放課後、来てくれる?」
心をなんとか落ち着けたそばから、こそこそ声がおれの耳をくすぐる。
「……まあ、問題なければそのつもりだけど」
「よかったっ。じゃあさ」
東条はいたずらを打ち明ける子供みたいな顔で、こう言った。
「今日は一緒に帰ろ?」




