9.王子に「お母様」と名乗る令嬢
「大丈夫でしたか!?」
世話係長が慌てた様子で駆け込んできた。どうやら誰かが呼びに行ったらしい。
「ええ、大丈夫」
私は腕の中の王子を見下ろした。
「ただ、王子様が驚いてしまったようなので……少しベランダで風に当たってもよろしいかしら?」
「もちろんです。ただ、手すりには近づかれませんようお願いいたします」
「ええ、分かりましたわ」
王子を抱いたままベランダへ出る。夕方の風が心地よく頬を撫でた。
「アリシア」
小声で呼ぶ。すると隣室のベランダから、アリシアがそっと姿を現した。
「はい、こちらに」
私が口を開く前に、アリシアは深々と頭を下げる。
「言いたいことは分かっております。すぐに調べて参りますので、少々お待ちください」
話が早い。
「お願いね」
「お任せください」
アリシアの姿が消える。腕の中では、涙で頬を濡らした王子がようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
「驚いたわね。お母様は一人だけなのに」
私は柔らかな頬をそっと指先で撫でる。
「あー」
まるで返事をするような声が返ってくる。思わず頬が緩んだ。
「世の中には変わった人もいるの。だから騙されては駄目よ?」
「あー!」
真剣な顔で聞いている、ように見える。ふふ、可愛いわ。
「あ、そうだわ。フェニ!」
私は空へ向かって呼びかける。すると、どこからともなく飛んできた。王子の目がまん丸になる。小さな頭が左右に動き、飛び回るフェニを一生懸命追いかけていた。
「あう!」
「王子、フェニよ。綺麗でしょう?」
先ほどまで泣いていたのが嘘のようだ。王子は嬉しそうに手を伸ばす。どうやら動くものが好きらしい。フェニが旋回するたびに声を上げ、飽きることなく見つめていた。
機嫌はすっかり直ったようだ。
「ふふ、さあ、湯浴みでもしてさっぱりしましょうね」
王子を抱き直し、私は部屋へ戻った。その後は世話係へ引き継ぐ。本当は今日、添い寝にも挑戦してみようと密かに張り切っていたのだけれど。
「……それどころではなくなってしまったわね」
エリスの件もある。警備の見直しもしなければならない。母親というのは、子どもを可愛がるだけでは務まらないらしい。
私は小さくため息をつきながら、それでも穏やかな寝顔の王子を見て微笑んだ。
「王太子妃殿下。私です」
自室に戻るとアリシアの声が扉の向こうから聞こえた。
「入って。どうだった?」
「調べて参りました」
入室したアリシアは一礼すると、すぐに報告を始めた。
「公爵家の紹介で王宮に入った者たちが数名、手引きをしていたようです。門番もその一人だと」
「手引き?」
「エリス様は『父である公爵の付き添い』という名目で、先月から週に二度ほど王宮へ出入りしております」
「週に二度も……」
思わず眉をひそめる。――暇なのかしら。そんな感想が真っ先に浮かんだ。
そもそも公爵は出仕していないのだから、週に二度も王宮へ来ることなどない。その付き添いという理由にしても、あまりにも安直すぎる。にもかかわらず、それがまかり通っていたというのなら、問題はエリスだけではない。
「門番が通した後の役割分担です。まず文官が王子宮まで案内し、宮に入りましたら世話係が部屋まで誘導していたようです」
「あの方、目立つでしょう? こっそり忍び込むなんて無理よね」
「はい。ですが、隠れていたわけではありません。堂々と王宮へ入り、堂々と王子宮まで向かっていたようです」
告げられる事実に、私は言葉を失った。これは、許しがたい。
王宮の警備とは、何のためにあるのだろう。特に王子宮は、王族の中でも幼い王子を守るため、より厳重に管理されなければいけないはず。
それなのに、これほど簡単に部外者が出入りできていたとなれば、管理がずさんだったというだけでは済まされない。
「……それで、今まで誰も問題にしなかったの?」
「エリス様が公爵令嬢であることを理由に、深く確認することを避けていた者が多かったようです」
「身元が確かなことと、王子宮へ自由に出入りさせていいことは別でしょう」
思わず声が低くなる。
「ええ。その点も含め、今回関与した者たちについては改めて調査しております」
王子に何かあってからでは遅い。
「王族を守るべき者が、その立場を利用されることを許したのですもの。二度と同じことが起こらないよう、責任の所在を明確にして、相応の罰を与えてなくてはいけないわ」
「承知しております」
エリス様が悪い。それは間違いない。
けれど、王宮という場所に、何人もの人間が手を貸さなければ侵入できないはずの場所へ、何度も入り込めていたこともまた事実なのだ。
誰か一人を罰して終わりにしてしまえば、きっとまた同じことが起こる。
今度は、もっと取り返しのつかない形で。
「それにしても、週に二度も来て、何をしていたのかしら」
「調べたところ、乳母や世話係の交代時間の隙を狙い、王子殿下を抱き上げていたようです」
「何ですって?」
「下の世話係たちは知っていたようですが、口止めされていました」
「口止め?」
「逆らえば職を失うと脅されていたようです」
今日私を脅したときと同じね。思わずため息が漏れる。まったく。公爵令嬢の権力をそんなことに使うなんて。
「でも、王子は全然懐いていなかったわ。短い時間とはいえ、何が目的だったのかしら」
今日の様子を思い出す。抱き上げられた瞬間から大泣きだった。アリシアは少し考えるように視線を伏せた。
「王子殿下に懐いていただくことかと」
「懐く?」
「『お母様ですよ』と話しかけていていましたよね」
「……」
思い出した瞬間、再び腹が立った。勝手に抱き上げるだけでも許し難いのに。母親を名乗るなんて。
「つまり、母の座を狙っていたということ?」
私が低い声で尋ねると、アリシアは首を横に振った。
「いえ。狙っていたのは王太子妃の座でしょう」
その言葉に、私は目を瞬かせた。
「ご存じないかもしれませんが、エリス様はかつて王太子殿下の筆頭婚約者候補でした」
「ああ……」
思い出した。結婚式の日。祝福の声に混じって感じた、ひどく鋭い視線。会場の隅に立っていた金髪の令嬢がエリスだったわね。
その後も直接近づいてくることはなかった。けれど、夜会や式典のたびに視線だけは感じていた。まるで獲物を見失わない猛禽のように。
「そういうことだったのね……」
ギルバートを諦めきれなかった、だとしても――。
私は机の上で指を組む。
「つまり、留学中にギルバートが婚約者として私を選んだことが気に入らないのね。だからといって、私の息子を利用していい理由にはならないわ」
静かに呟いた声には、自分でも驚くほど怒りが滲んでいた。私が拳を握りしめると、アリシアは静かに頷いた。
「おそらく、考えが浅はかではありますが、『王子に懐かれている自分こそ、王太子殿下の隣に相応しい』と示したかったのではないでしょうか」
アリシアは、わずかに呆れを滲ませながら言う。
「随分と長期的な計画ね」
「全くです」
王子に取り入り、その母親のような立場になる。『では、王太子妃に』となるわけがないのに。アリシアも同じ感想だったらしい。二人してため息をついた。
「それにしても、今日に限って、なぜ私がいる時に入ってきたのかしら」
私はふと疑問を口にした。今までは乳母や世話係がいない時間を狙っていたはずだ。それなのに今日は堂々と姿を現した。
「ティナ様を高位貴族ではないと判断したのではないでしょうか。王太子妃殿下の縁故で入ったとしても、働くくらいなら爵位は低い娘、とでも思ったのでしょう」
「なるほど」
「もしくは、『王太子妃の親戚が乳母として職業体験をしている』という噂も耳にし、何かしらが刺激されたのかもしれません」
アリシアは肩をすくめる。
「むしろ私の口から『王太子妃』にこの件が漏れるとは思わなかったのかしら」
「さあ、愚かな令嬢の考えなど、私にはさっぱり分かりません」
アリシアの声に棘が混じった。その言い方に思わず笑いそうになる。
「そういえば、私を辞めさせるようなことを言っていたわよね」
私は昼間のやり取りを思い出した。『明日ここにいないのはあなたの方ですからね』あの捨て台詞。
「どうするつもりだったのかしら?」
「私も不思議に思いました。そもそも、こっそり王子宮に通っているのに、誰を頼って辞めさせるするつもりだったのでしょう。悔し紛れの捨て台詞ではありませんか?」
「父親も無理でしょうね」
それならそれでいい。だが――。私は表情を引き締めた。王子の寝室へ続く廊下を我が物顔で歩くき、王子を抱き上げる令嬢。誰も止めない世話係たち。思い返すだけで背筋が冷える。
「もしあれが本当に捨て台詞ではなかったら? 明日、何かしてくる可能性もあるわよね」
エリスが今日の屈辱を黙って飲み込む人間とは思えない。
「その可能性は否定できません。どうなさいますか?」
私は少し考えてから答えた。
「ギルバートには相談する。でも、明日、エリスを締め出したりしないわ」
アリシアが目を細める。
「泳がせるのですね」
「ええ。真正面から受けて立つわ」
何を考え、誰が協力し、どこまで入り込んでいるのか。今ここで蓋をするより、全部明るみにした方がいい。
「分かりました。死角になる場所へ暗部を配置します。世話係長にも極力近くで待機してもらいましょう。準備は滞りなく行いますので、お任せを」
「お願いね」
これで王子の安全は確保できる。
あとは――。明日、あの令嬢が何をしてくるのか。何をしてきても、負ける気はないけど。私は窓の外の夜空を見上げながら、静かに目を細めた。




