8.育児は戦場でした
「初めまして。ティナと申します。よろしくお願いいたします」
「あなたが乳母の代わりなの? ずいぶん若いのね。確か、王妃陛下のご親戚で、この国で働くために職業体験をしていると伺ったのだけれど」
「はい、その通りです。ちゃんお乳もでます! どうぞお任せください」
「若いのにお乳も出て……それなのに異国で働くなんて……苦労したのね」
「はい?」
どうやら何か勘違いをされているらしい。乳母の補助を務めている女性は、なぜか目を潤ませながら微笑んだ。
「私は乳母様の補助を担当していたの。まずは一日の流れから説明するわね」
そう言って部屋へ案内される。すると、揺りかごの中の王子が私を見るなり、小さな手をこちらへ伸ばした。
「あら」
「抱き上げてもよろしいでしょうか?」
「もちろんですわ」
そっと抱き上げると、王子はきゃっきゃっと嬉しそうに笑った。
「まあ、王子様。人見知りをなさる日もあるのだけれど今日はとてもご機嫌だわ」
「仲良くなれそうで安心しました」
腕の中の小さな我が子を見つめながら、私は心の中でそっと呟く。
――お母様ですよ。
もちろん、今は秘密だけれど。
「王子様のお世話係として、洗濯や身の回りのお世話を担当していただきます。まだお乳も必要な時期ですが離乳食も始まっております」
「乳母は、他に何をするのかしら?」
「王子様の身に直接触れることができるのは、乳母様と筆頭の世話係のみです。お着替えやお食事の介助などもお願いいたします」
「そうなのね」
「大丈夫ですか?」
「もちろんです」
乳母の仕事ぶりは何度も見てきた。本も読んだし、イメージトレーニングだってしてきたのだ。
――きっと大丈夫。
そう思っていた。
「ふぇぇぇぇん!」
「ま、また泣いたわ……」
抱き上げても駄目。揺らしても駄目。どうして泣いているのかしら。途方に暮れていると、世話係が声をかけてくれた。
「王子様は背中を優しくトントンして差し上げると落ち着きますよ」
「こうかしら?」
ぽん、ぽん、と小さな背中を叩く。
すると――。
「……あう」
ぴたりと泣き止んだ。
「本当だわ!」
思わず感動の声が漏れる。
「王子様は、その抱き方がお好きなのですよ」
「そうだったのね」
腕の中の王子は、何事もなかったかのように機嫌よく私の指を握っている。
赤ちゃんのお世話というのは、思っていた以上に奥が深いらしい。そうしてしばらく遊んでいるうちに、次の仕事の時間がやってきた。
「では、そろそろお食事にいたしましょう」
世話係が離乳食の入った器を運んでくる。王子を椅子に座らせ、私はスプーンを手に取った。
「はい、あーん」
けれど王子は、きゅっと口を結んだまま離乳食を見つめている。
「あら? 食べないわ」
「その場合は、美味しそうに食べるふりをしてみてください」
「食べるふり?」
言われた通りに、スプーンを自分の口元へ運ぶ真似をする。
「まあ、美味いしいわ!」
すると王子の目がぱっと輝いた。
「あー!」
「食べたわ!」
思わず拍手してしまう。一口食べると勢いがついたのか、その後はぱくぱくと機嫌よく食べ進めてくれた。
「偉いわね、王子様」
食事を終えた王子は満足そうに笑っている。――これなら案外うまくやれそうかもしれないわ。そんなことを考えたのも束の間だった。
「では次は、おしめ替えです」
世話係の言葉に、私は自信満々に頷く。
「任せてちょうだい」
だが――。
「きゃっ、動かないで!」
おしめを替えようとした途端、王子が元気よく寝返りを打った。
「そちらへ行っては駄目です!」
今度は反対側へころり。小さな体なのに驚くほど素早い。私は王子を追いかけるようにして手を伸ばした。
「こちらで気を引きますので、その間にどうぞ」
世話係が音の鳴るおもちゃを鳴らす。からから、しゃらしゃら。王子の注意がそちらへ向いた隙に、なんとか交換を終えた。
「で、できたわ……」
達成感より疲労感の方が大きい。やれると思っていた。見ていただけだから、簡単そうに思えていた。けれど実際にやってみると、次から次へとやることがある。
泣けばあやし、食べさせ、おしめを替え、着替えさせる。少しも目が離せない。
「世の中のお母様方は、乳母も世話係もいないのよね……」
思わず呟く。
「本当に尊敬だわ」
心からそう思った。気が付けば、窓の外の陽は、傾き始めていた。王子はたくさん遊び、たくさん泣いて、たくさん食べた。
今は小さな寝台の上で、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。長いまつ毛、ふっくらした頬、小さな手。
「ふふ……」
思わず笑みがこぼれる。私は今まで、眠っている時や機嫌の良い時のあなたしか知らなかったのね。
今日一日で、泣き顔も怒った顔も困った顔も見た。大変だった。本当に大変だった。それでも――。
「とっても可愛かったわ」
そう呟いて、そっと頬にかかった髪を払う。眠る王子は何も知らず、幸せそうに小さな寝息を立てていた。
――バタン!
大きな扉が勢いよく開かれた。
「ふぇっ……うぇぇぇん!」
気持ちよさそうに寝ていた王子が驚いて泣き出してしまう。何事かしら。
振り返ると、豪華なドレスをまとった若い令嬢が立っていた。
「あら。あなたが臨時の乳母?」
「そうですが……」
思わず言葉に詰まる。この方は――公爵令嬢エリスだったかしら? どうしてここに? エリスは王子を見るなり目を輝かせた。
「まあ、王子。可愛いわね。さあ、今日もこちらにいらっしゃい」
そう言って当然のように手を伸ばしてくる。
今日も?
周囲の世話係たちが顔を曇らせているところを見ると、常習犯らしい。
「失礼ですが」
私は一歩前へ出た。
「王子様には、決められた方しかお触れになることはできないと伺っております。その中に公爵令嬢様のお名前はなかったかと思います」
エリスは鼻で笑った。
「ああ、あなた知らないのね。公爵家は、王家に近い血筋なの。だから問題ないの」
扇子を広げながら胸を張る。――問題おおありよ。
そもそも、どうやってここまで入ってきたのかしら。
「大変申し訳ございません。確認のため上の者を呼んで参りますので、少々お待ちください」
「たかが乳母風情が、この私を待たせる気? 失礼ですわ!」
そう言うなり、私の腕の中から王子を奪い取った。
「きゃっ!」
「うぇぇぇぇん!」
王子は激しく泣き叫ぶ。エリス様は慌ててあやし始めた。
「王子、頑固な乳母でびっくりしたわね。ほら、お母様ですよ。安心して?」
――お母様? 一瞬、頭が真っ白になる。
「公爵令嬢様……王子様の母君は、王太子妃殿下でございます」
できるだけ冷静な声で告げた。
「そんなこと分かっているわよ。いずれそうなる、という意味よ。ねえ、王子?」
エリスは呆れたように肩をすくめる。当然ながら王子は泣き止まない。むしろ先ほどより激しく泣いている。
「王子様をこちらに」
私は手を差し出した。
「嫌よ」
「こちらに! 泣いているではありませんか!」
今度ははっきりと言う。王子は顔を真っ赤にして泣いていた。これ以上は見過ごせない。
私はエリス様の腕から王子を抱き上げた。すると王子は私の胸にしがみつきながら泣き続ける。
「なっ……! なんて失礼なの!」
エリスの顔が怒りに染まった。彼女は足を踏み鳴らす。
「今日は帰りますけれど、明日ここにいないのはあなたの方ですからね!」
そう言い捨てると、ドレスを翻して部屋を出て行った。再び扉が大きな音を立てて閉まる。部屋に静寂が戻った。
私は王子の背中を優しく叩く。
ぽん、ぽん。
すると少しずつ泣き声が小さくなっていった。
「まったく……」
腕の中の王子を見つめる。この子に、こんなにも簡単に近づけてしまうなんて。
――警備体制について確認が必要ね。
涙をいっぱいに溜めた王子の小さな手が、ぎゅっと私の服を掴んだ。
大丈夫よ、お母様に任せてね。




