7.神獣より手強い王太子妃
陽の光が柔らかく差し込む執務室は、本来であれば国の政務を扱う場所らしい張り詰めた空気に満ちているはずなのに、今日はどこか穏やかな雰囲気に包まれていた。
理由は、言うまでもないわ。
陛下の掌の上で、フェニが気持ちよさそうに羽を揺らしているからよね。
「ははは、かわいいな、フェニは」
陛下はすっかり頬を緩ませ、指先に乗せたフェニを楽しそうに眺めている。
神獣フェニキア――そう呼ばれる存在だというのに、その姿はあまりにも愛らしい。黄金色の羽は陽の光を受けて柔らかく輝き、小さな瞳で陛下を見上げる姿には、神獣としての威厳よりも先に庇護欲を掻き立てられてしまう。
けれど、見た目の愛らしさだけで判断してはいけない。フェニは神獣なのだから。
「失礼します。陛下、報告を……」
そんな穏やかな空気を壊すように扉が開き、宰相オスカーが入ってきた。
いつもと変わらない、隙のない声音だったけれど、室内へ足を踏み入れた彼の視線が陛下の手元へ向いた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
けれど、それも一瞬のことだった。すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻る。
「おお、宰相。見てくれ、神獣というのはかわいいな」
陛下はそんなことには気づいていないのか、実に楽しげにフェニを見せている。オスカーはしばらくフェニを見つめていたけれど、やがて静かに目を細めた。
「……そちらが、神獣なのですね」
アリシアから報告は上がっているからかしら。思ったほどの動揺はない。
「陛下、どういたしましょう」
オスカーの一言で、それまでの穏やかな空気がわずかに変わった。先ほどまでフェニを眺めていた陛下も、少しだけ表情を改める。私も何となく背筋を伸ばした。
「どうとは?」
「神獣様のことでございます。公表するのであれば――王太子妃殿下の仕事の体験は、これにて一区切りとすべきかと」
「ええ!?」
思わず声が出てしまった。まさか、そんな話になるとは思っていなかったわ。
「ま、待って、オスカー。フェニはね、常に私の傍にいなければならないわけではないの」
私は慌てて、こちらへ戻ってきたフェニをそっと撫でる。指先が羽毛に触れると、フェニはくすぐったそうに小さく羽を震わせた。
「普段は、王宮の周囲を自由に飛び回って、見回りもしてくれるそうよ」
フェニ自身から聞いたわけではないけれど、そういうことができると本には書かれていたのだから、間違いないはず。オスカーは少しだけ眉を上げた。
「……『してくれるそうよ』とは、本にそう記されていた、ということでしょうか」
オスカーの問いはあくまで冷静だった。声を荒らげることもなければ、私の言葉を疑っているような素振りもない。ただ、慎重に一つずつ確認しているのだろう。
神獣という未知の存在を前にして、確かな情報と推測を混同することはできない。そんな宰相らしい探りが、言葉の端々から感じられた。
「ええ、そうよ。でもね、それをフェニに聞いたの。そしたら、できるって」
私はそう答えてから、腕の中にいるフェニへ視線を落とした。小さな身体をそっと撫でながら、確認するように声を掛ける。
「ねえ、フェニ。そういうことでいいのよね?」
するとフェニは、私の言葉を待っていたかのように、ぴょこんと身体を跳ねさせた。
「ピ、ピピッピー♪」
澄んだ鳴き声が執務室に響く。さらに、こくこくと何度も頷くように頭を動かしている。その様子があまりにも分かりやすくて、私は思わず頬を緩めた。
「ほらね」
顔を上げてオスカーを見る。
「それに、どこにいても呼んだら来てくれるのよ」
私がそう付け加えると、それに応じるようにフェニがもう一度、小さく鳴いた。
「ピピッ」
まるで「当然でしょう」とでも言っているような堂々とした鳴き方だった。
「……」
オスカーは何も言わない。
きっと頭の中では、今のフェニの反応だけでは判断できないことを、いくつも考えているのだろう。
だから私は、少しだけ先回りするように言葉を重ねた。
「見つからないようにしてくれるって言っているもの。だから、公表はもう少し待ってほしい」
今すぐ神獣の存在を公表すれば、王宮だけではなくフェニ自身にも余計な危険が及ぶかもしれない。
「この子はね、私と絆を深めることで成長するって、本に書いてあったわ。いずれは、私よりも大きくなるみたい」
そう話しながらフェニを見つめると、腕の中の小さな身体が嬉しそうに揺れた。
「ピッ」
すると、それまで黙って話を聞いていた国王陛下が、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「それは楽しみだな。だが、いくら強くても小さいうちは狙われやすい。大きくなってから公表でも遅くはないのではないか?」
「立派になるのであれば、フェニの家も用意してやらなければな」
ギルバートも楽しそうに話す。
「まあ、素敵。お庭に作りましょうか。それとも、塔の上がいいかしら」
「高いところが好きそうだな。いや、日当たりも考えないと――」
次々と案が浮かんでくる。庭の一角に大きな木を植えて、その上に巣を作るのもいい。けれど、塔の上なら遠くまで見渡せるし、フェニも気に入るかもしれない。陽当たりを考えるなら、南向きの場所がいいかしら。
考えているうちに、どんどん楽しくなってきた。
けれど、そんな私たちとは対照的に、ただ一人、どうしても現実へ引き戻そうとする人物がいる。
「そうであれば……公表は、見送る方向で調整いたします」
低く抑えられた声だった。やったわ。こちらの希望を受け入れてくれた。けれど、それが心から納得した結果ではないことも分かる。あくまで現時点では公表を見送る。
「ただし」
やっぱり、来るのね。ただし、が。私は心の中で小さく息を吐いた。
「フェニキア――神獣の能力に関しては、検証が必要です。『してくれるそうよ』という曖昧な情報のまま、王宮で育てるわけにはまいりません」
……もう、本当に真面目ね。
言っていることはもっともなのだけれど、せっかくフェニの家の話で楽しくなっていたところなのだから、もう少しくらい夢を見てもいいと思うのだけれど。
私は思わず腕の中のフェニへ視線を落とした。
「あら?」
そこで気づいた。さっきまで柔らかく膨らんでいた羽毛が、ほんの少しだけ逆立っている。
「オスカー、見て。フェニが怒っているわ」
思わずくすりと笑いながら、背をそっと撫でてやる。フェリの視線はオスカーから離れない。オスカーの顔がどんどん青ざめていく。
「そ、それでも、確認は必要です」
……やっぱり止まらない。というより、止まれないのだろう。フェニがどれだけ可愛らしく鳴こうと、私がどれだけお願いしようと、王宮を預かる宰相として「分からないものを分からないままにしておく」ことだけは、どうしてもできないのだ。
私はフェニをもう一度撫でながら、小さく苦笑した。
「神獣の存在が外部に漏れた場合、狙われる可能性は飛躍的に高まります。万が一、漏洩が確認された時点で、各国への公表に切り替える――その時点で王太子妃殿下には、本来の職務へ専念していただきます」
私が「もう少し待ってほしい」とお願いしたことは認めてくれる。でも、もし秘密が漏れた場合には、職場体験終了。逃げ道を、きっちり塞ぐ言い方だわ。
「これが条件です。陛下、王太子殿下。それでよろしいでしょうか」
オスカーは淡々と確認する。
陛下と王太子のギルバートは、しばらく何も言わずこちらを見ていたけれど、先に口を開いたのはギルバートだった。
「ああ、いいんじゃないか?」
あまりにもあっさりと頷くので、少し拍子抜けしてしまう。
「そうだな。オスカーの条件はもっともだし、王太子妃にもフェニにも無理はさせたくない」
陛下も穏やかに頷きながら、掌の上にいるフェニの頭をそっと撫でた。
「な?」
「ピィ」
フェニは嬉しそうに鳴く。その様子を見ていると、どうやら二人ともオスカーの条件に異論はないらしい。そうだとするのなら、漏洩には絶対気を付けないと。
「オスカー、私もそれで構わないわ。でも、フェニのことは、あまり『管理対象』として扱わないでちょうだいね。この子は、私の大切な子なんだから」
できれば、そこだけは分かってほしい。
フェニは神獣で、特別な力を持っている。だからといって、研究対象や兵器のように扱われるのは嫌だった。この子は私と一緒に過ごし、私を慕ってくれている大切な存在なのだから。
ほんの一瞬だけ、オスカーの表情が固まった。
「……承知いたしました」
渋々と言ったところね、ふふ。これでフェニのことは一段落ね。そう思ったところで、ふと次の予定が頭に浮かんだ。
「あ、そうだわ。オスカー。次の仕事なんだけど、乳母の仕事をやるわ」
ぴたり、とオスカーの動きが止まった。
「……今、なんと?」
「乳母の仕事よ?」
聞こえなかったのかしら。私は首を傾げる。
「乳母のお子さんが熱を出してしまってね。遠慮していたから、乳母には一週間お休みを出したの」
子どもの具合が悪いのなら、休ませるのは当然だと思う。その間の仕事をどうするかという問題はあるけれど、私なら手伝える。
「……休暇の判断自体は妥当かと存じます。しかし、代わりは他を探せばよいだけのこと。なぜ王太子妃殿下が?」
そこを聞かれると思った。
「ほら、実の母だし、もちろんお乳も出るわ! 私以上の適任はいないんじゃないかしら」
自信を持って答えたのだけれど、なぜかオスカーの視線がわずかに逸れた。
……あら?
「……承認できません」
「危険じゃないわ」
「王太子妃殿下が乳母の代役を務めるなど、前例がありません」
思わず頬を膨らませる。前例がない。それは分かっている。でも、前例がないからやってはいけないというのは、少し違うと思う。
「……知っているわ。王族が、自分で子どもを育てられないことくらい」
私だって、生まれた時から王族なのだから、そのくらいは分かっている。王族の子どもは乳母や世話係に育てられる。それが当たり前なのだ。けれど――。
「でもね、私が産んだのに、王子と関われる時間が少ないの。その間にも、あの子は成長していくわ」
昨日までできなかった仕草が、今日はできるようになっている。昨日は聞けなかった声を、今日は聞かせてくれる。
小さな手が何かを掴もうとして、ほんの少しだけ届くようになる。
そんな小さな成長を、私はできるだけ自分の目で見ていたい。母親なのだから、一緒に過ごせる時間が少しでも増えるのなら、その機会を逃したくないと思ってしまう。
「昨日と今日で違う仕草。小さな成長。それを、見逃したくないの」
「……」
オスカーは何も答えなかった。
ただ、いつものように眉間へわずかに皺を寄せ、静かに考えている。その姿を見ていると、すぐに駄目だと言われるのか、それとも別の条件を付けられるのか、少しだけ緊張してしまう。
すると、その沈黙を軽やかな声が破った。
「一週間なのだろう? ずっとやるわけじゃないんだ。いいではないか、オスカー」
陛下が援護するように言ってくれた。ありがたいわ。これなら可能性があるかもしれない。
「ピー」
足元から、小さな鳴き声が聞こえた。見ると、フェニがいつの間にかオスカーの足元まで歩いていき、首を傾げながら彼を見上げている。
……もしかして。
「フェニもお願いしてくれているのかしら?」
「ピィ」
まるで「そうだよ」と言っているように、フェニが小さく頷いた。オスカーはしばらくフェニを見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……期間は一週間」
「ええ」
「問題がございましたら、すぐにアリシアへ申し付けてください。無理をなさらないこと。それを条件といたします」
ようやく、オスカーが折れた。
「ええ、もちろん。ありがとう、オスカー!」
私は嬉しくなって笑った。――これで決まりね。フェニのことも、乳母の仕事も、なんとか希望どおりになったわ。




