3.図書室は、どうやら調整先らしいです
「この前は、本当に助かったよ。論文を上司に見せたら、思った以上に乗り気でね」
昨日、図鑑を借りにきた方のわずかに弾んだ声に、私は目を細める。
「書かれていた薬草も、さっそく試してみることになった」
「お役に立てたのでしたら、光栄です」
控えめに頷きながらも、こみ上げる喜びを隠しきれなかった。
「ただ、少し問題があってね。この薬草の生息地が遠いんだ。近場でもマリス領の山頂付近にしかなくて、正直、採取が難しい。他の場所にも自生していないか調べたいんだが」
困ったように笑うその様子に、私はすぐに理解する。きっと、手伝いが必要なのだわ。
「調べるのを手伝ってもらえると、助かるんだが」
「ええ、もちろんですわ!」
やっぱり! 早速、昨日、頭に叩き込んだことが役に立つわ。
「では、こちらへ」
足取りは自然と速くなる。図鑑が並ぶ本棚の前で、私は静かに立ち止まった。
「まず、この本に生息地の記述があります。それから、こちらの本には薬草の取り扱いの注意と使用例が。それと——これもですね」
すぐに二冊を抜き取り、さらに一冊を手渡す。
「前にお渡しした論文とは別のものですが、同種の薬草についての検証結果が載っています」
「く、詳しいね。ここは、働いて長いのかい?」
「昨日から試用の職員として働いています。これからよろしくお願いします」
にこりと微笑んで答えた。
「き、昨日? ……ああ、よろしく」
その後、薬師の方は薦めた本を抱え、にこやかに帰って行った。
やがて人の気配が途切れ、静けさが戻る。さあ、今日もまだ見ていない所に行って、覚えることにするわ。
三日目、本棚の前で本に手を伸ばそうとすると、不意に声をかけられた。
「ティナ、ちょっといいかい。君の先輩を紹介するよ。エレナ・グラントだ」
室長の隣には、一人の女性が立っていた。
「あなたがティナね。エレナ・グラントよ。遠慮なくエレナと呼んでほしいわ。最近、外回りで顔を出せなかったのだけれど、私もここの一階のフロアを担当しているの」
「そうなのですね。これからよろしくお願いします」
ここに来てから、初めて室長以外の他の職員を見たわ。
私は小さく首を傾げた。
「そういえば、他の方はどちらにいらっしゃるのですか?」
私の問いに、エレナ先輩はすぐに答えた。
「五人ほどは二階にこもって翻訳作業をしているわ。至急の依頼が入ったの。古い文献なのだけれど、解釈を巡って各所で食い違いが出ているらしくてね。正確な解釈を、早急に出す必要があるの。期限は今週中、なかなか厳しい案件よ」
それほどの仕事を任される人たちが、この図書室の中にいるのだと思うと、自然と気が引き締まった。
「だから今、このフロアの業務は、私ともう一人で担当しているの」
そういう時、彼女は視線を彷徨わせる。
「あ、あそこにいるわ。リアム・ベネットよ」
示された先を見ると、窓際の席で、一人の男性が本を開いている。周囲の静けさに溶け込むように、黙々とページをめくる姿。
――あら? あの方、昨日も一昨日も同じ場所で本を読んでいたわ。利用者だと思っていたけれど、そうではなかったのね。
あの方が、もう一人の先輩。リアム・ベネット。
「……もしかして、ティナ。リアムから仕事の仕方、教えてもらっていない?」
「ええと、室長が教えてくださいました」
あの方の紹介すらされなかったわ。
「ああ、やっぱり……。リアムは侯爵家の次男で、本来は補佐官を狙っていた人なの。でも、成績が届かなくてここに回されてきたのよ」
侯爵家か。確か、室長は、伯爵家だったわね。そうすると室長は、強く言えないと言うことかしら。
「だから次の昇進試験まで、ああして勉強に専念している、というわけ」
エレナ先輩は、呆れたように肩をすくめた。私はもう一度、窓際へ視線を向ける。
「……つまり、あの方は、お仕事はされていない、ということでしょうか?」
思ったままを、そのまま口にする。
「ええ、まあ……そういうことになるわね」
エレナ先輩は、ほんの少しだけ苦い顔をした。
「普段なら、このフロアはそこまで忙しくないわ。でも。今みたいに急ぎの案件が入ると、人手不足で。さすがに勉強ばかりされると困るのよ」
静かな声のまま、しかし不満は隠されていない。
「とはいえ、爵位の差がある以上、私も強くは言えないの」
貴族社会の見えない秩序が、そこにあった。エレナ先輩は小さく息をつく。
「……早く試験に受かって、出ていってくれればいいのだけれど」
私はもう一度だけ、リアム先輩の方を見る。確かに、話しかけにくい空気を纏っている。
「ここも、やりがいのあるお仕事ですのに」
思わずこぼした言葉に、エレナ先輩は深く頷いた。
「そうなのよ。本気で取り組めば、いくらでも仕事はあるし、やりがいだって見つかる場所だわ。そもそも私は、第一志望でここに来たの」
その分だけ、悔しい、そんな感情が顔に出ている。
「……だから正直に言えば、ああいう腰掛けの人と同じ扱いをされるのは、あまり気分のいいものではないわね」
柔らかな口調のまま、はっきりとした不満。人事の方も大変ね。家格や成績、推薦状に人員配置……全部を見て決めなければならないから。
「爵位が高くても、成績が足りなければ重要部署に置けない。だから、他に回されることもあるの。この王宮図書室もその一つよ」
ここは、『調整先』にされているのね。
あら? もしかして、宰相もそう意味で私をここに配属したのかしら?
誰かにとっては望んだ場所でも、別の誰かにとっては“仮の居場所”になる。
その歪みが、エリナ先輩の不満を生んでいるのね。
「だから、ティナが来てくれて本当に助かるわ。さあ、今日は私が本の修繕を教えてあげる。手先は器用かしら?」
ふっと空気を切り替えるように、エレナ先輩が微笑む。
「細かい作業は大好きです」
そう答えると、先輩はくすりと笑った。
「ふふ、頼もしいわね。こっちよ」
案内された先には、古書がいくつも積み上げられていた。
どれも年季が入っていて、少し触れただけでも崩れてしまいそうなものばかり。
「まずは、汚れと埃を落とすのよ。柔らかい刷毛で優しく払うの。強くこすれば紙が繊維ごと崩れるわ。奥が深いでしょう?」
紙の繊維の向き、糊の量、乾かし方を一つ一つ教えてもらう。面白いわ。
集中しかけた、そのとき室長の声がかかる。
「エレナ、作業中申し訳ないが、昨日行った書店から今すぐ来てくれと使いが来た。動けるか?」
「何かしら?」
エレナ先輩は少し眉を寄せ、それからこちらを見る。
「ティナ、ここは任せて大丈夫?」
「はい、お任せください」
迷いなく答える。
「もし分からないことがあったら、この本に修繕の仕方が書いてあるわ。でも無理しないで、難しそうだったら明日私がやるから、残しておいて」
「分かりました。いってらっしゃいませ」
軽く頭を下げると、先輩は急ぎ足で去っていった。




