2.王宮図書室は安全なはずでした
side 宰相
妃殿下には、王宮図書室の仕事についていただいた。比較的安全で、なおかつ人の出入りも管理しやすい。知識層の人間が働き、不測の事態も起こりにくい。
そう判断したのは、他でもない私だ。
静かで、堅実で、何より余計なことが起きない場所、それが王宮図書室である。
昨日が最終日。報告のため、娘のアリシアが私の執務机の前に立つ。
「報告いたします。妃殿下は、受付業務から始まり、本の修繕、室長の翻訳補助まで、滞りなく遂行いたしました」
想定内だ。優秀なのだから、それくらいはやってのけるだろう。問題はない。
「そして、最終日である昨日、神獣フェニキアを召喚いたしました。以上です」
……は?
「もう一度言ってくれ」
自分でも驚くほど、声が低くなっていた。聞き間違いだ。そうでなければならない。
「はぁ……お父様」
アリシアは、隠そうともせずにため息をついた。ほんのわずかに肩まで落としてみせるあたり、妙に芝居がかっている。
「屋敷でもお母様にいつも言われているでしょう? 人の話を聞くときは仕事の手を止めて――」
「分かった。手は止める」
即座に遮る。
今は叱られている場合ではない。
確かに仕事の手は止めてはいなかったが、聞いていた。聞こえてしまった言葉が問題なのだ。
「神獣フェニキアとは、一見、掌に乗るほど小さい鳥だが、怒れば国一つ分の雷雲を呼び寄せる存在だ……そのフェニキアを、妃殿下が“召喚した”と、言ったのか?」
自分で口にしながら、冷静さを取り戻そうとする。
あり得ない。あり得ないだろう?
少なくとも、王宮図書室で発生していい事象では断じてない。静かで堅実な職場という私の判断が、根本から崩壊する。
「……耳が遠くなるようなお年ではないと思っていましたが?」
アリシアが、涼しい顔で言う。この娘は昔からそうだ。
ちょっとずれているというか、知っていて言っているというか。
「アリシア、詳細を頼む」
「簡潔に、と仰ったのはお父様ですのに。いったん言ったことをすぐ変えるから、この前もお母様に怒られて――」
じとり、とした視線が向けられる。
「いや、本当に頼む」
食い気味に言葉を差し込む。
今は家庭内の評価などどうでもいい。国家規模の問題の可能性があるのだ。
「……しょうがありませんね。長くなりますよ」
アリシアが、肩をすくめる。アリシアの仕草は可憐だが、言っている内容はまったく可憐ではない。
頭を抱えたい衝動を、どうにか抑えた。
この後、国王陛下への報告が待っているのだ。長くなろうが、どれほど嫌な予感がしようが、聞くしかないのだ。
◇
side ティナ(妃殿下の偽名)
「はじめまして。ティナ・アストレアと申します。ティナとお呼びください」
「王太子妃殿下のご親戚だとか。一週間の職場体験ということだね」
図書室の室長が、穏やかな笑みを浮かべながら言う。
かつらも、そばかすも、声の調子も完璧。偽名もかまずに言えた。
鏡の前で何度も繰り返した変声練習の成果も、きちんと出ているようだ。これなら、まず気づかれないわね。
「じゃあティナ。今日は受付をお願いするよ」
「はい! ところで受付とは、何をするのでしょうか?」
「本を返しに来たり、借りに来たりした人の名前と本を、こちらに書いてもらう。それで返ってきたものは番号を見て棚に戻す。簡単だろう?」
室長は机の上の帳簿を見せながら、手順を示してくれる。
「なるほど……」
思っていたより、ずっと実務的。でも、初日から失敗するわけにはいかないもの。ちょうどいいわ。
「それと、時間があれば棚の整頓も頼むよ」
「はい」
「たまに本探しを頼まれることもある……まあ、滅多にないけどね」
「そうなのですね」
頷きながら、周囲を見回す。確かに人も少ない。
広い図書室の中に、ぽつぽつと人影があるだけで、足音さえ遠くに吸い込まれていくようだった。
静かで、落ち着いていて、思っていたよりもずっと穏やか。
「では、少し見て回ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わないよ。私は、ここの二階にいるから困ったことがあったら呼んでくれ」
室長が二階に行ったのを見届け、室内を歩き出す。本棚が、どこまでも続いている。
広いわ。自室の本棚しか知らなかった私には、それだけで新鮮だった。足取りもゆっくりになる。
分野ごとに並べられた書物。古びた背表紙。指先で背表紙をなぞりながら歩いていると、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていくような気がする。
「……あら? ここは、論文の棚かしら」
背表紙を指でなぞる。革の質感が、わずかに指先へ伝わった。
「でも、これ、並び方が……項目別でも、著者別でもない……?」
首をかしげる。規則性が曖昧で、目的の本を探すには不便そうだ。
もう少し整理すれば、格段に使いやすくなるのに、そう思った瞬間には、もう手が動いていた。
中身をパラパラとめくり、要点を拾う。そして、似た分野ごとに並べ替える。
気づけば夢中になっていた。周囲の気配も、時間の流れも、すべてが遠のいていく。
「――すみません」
受付カウンターの方から声がした。はっとして顔を上げる。しまった、持ち場を離れすぎていたわ。
「この本の貸し出しをお願いしたいのですが」
「はい、今すぐ行きます!」
裾を軽く押さえながら、足早に向かった。
手渡されたのは、分厚い図鑑だった。何度も開かれたのか、角が少し擦れている。
「図鑑ですね。何かお調べですか?」
この方は、薬師かしら?表紙の題材と、相手の服装から、用途を推し量る。
「ああ、薬に使える植物を調べていてね。火傷に効く塗り薬を作りたいんだ。この前、討伐に出た騎士たちがやけどをしたんだが、もっと効く薬があれば良かったなと思ってね」
「そうなのですね」
私も、何か役に立ちたいわ。そうだ。
「あの、研究者のタナリー女史が書いた論文の中に、やけどの効能がある薬草が載っていました。お役に立つかと」
さっき目に入った内容を思い出して、伝える。
「本当かい?」
「はい。確か、こちらの棚に……」
さっき整理したばかりの場所へ向かう。見たばかりだもの、覚えていて当然。
迷うことなく手を伸ばし、一冊を引き抜いた。
「こちらです。第三章の後半に、火傷への応用が書かれていました」
「詳しいね。助かるよ、ありがとう」
本を受け取ったその人は、どこか感心したように笑った。
「どういたしまして」
小さく頭を下げる。ありがとう、と直接言われることが、こんなにも嬉しいなんて。
その人を見送ったあと、私は気合を入れ直す。
「よし!」
本を、すぐに薦められるように、どこに何があるのか、どんな本が、どんな場面で役に立つのか、知っておいたほうが絶対にいいわね。
この図書室を、丸ごと頭に叩き込むつもりで頑張るわ。
「ふふ、楽しくなってきた」
私は、誰にも聞こえない声で、そう呟いた。




