1.王太子妃は現場を知りたい
「……職場体験、でございますか?」
宰相のオスカーは、言葉を一つひとつ確かめるように、ゆっくりと繰り返した。
そして静かに眼鏡の位置を押し上げる。
その仕草はいつも通り、寸分の狂いもなく整っている。
けれど、ほんのわずかに眉間へ刻まれた皺が、彼の内心を雄弁に語っていた。
困惑? 違うわね。呆れの方が強いかしら。
「そう、二ヶ月だけでいいの」
私は、机越しにぐっと身を乗り出す。
「王宮の仕事を、いずれ王妃になる身としてちゃんと知っておいた方がいいと思うの。書類の上からは見えないことだってたくさんある、そうは思わない?」
勢いのまま言い切ると、オスカーの表情がわずかに曇った。
ああ……これは、完全に駄目な顔ね……
何度も見てきた。オスカーがこうして表情を固め、ほんの少しだけ眉を寄せるとき、導き出される結論は、ほぼ例外なく一つ。
「駄目ですね、王太子妃殿下」
やっぱり。それでも、ここで引くわけにはいかないわ。今を逃したら、永遠に機会はないのだから。
私は視線を外し、ちらりと横へ滑らせた。こうなったら頼みの綱は、一人しかいない。
「ねえ、ギルバートもお願いして」
ほんの少しだけ声を柔らげる。王太子の頼みなら、あるいは。
「どうにかならないか、オスカー?」
軽く肩をすくめながら、それでもきちんと口添えしてくれるあたりが優しい。
「王太子殿下の頼みでも無理です」
だか、オスカーの返答は、容赦ない……。その一言で、私のささやかな希望は驚くほどあっさりと、断ち切られた。
「そもそも、なぜ働く必要があるのです? 王太子妃としてのお務めが、すでにおありでしょう」
オスカーの声は穏やかだったが、その内側には明確な拒絶があった。
「それもちゃんとやるわ。でも、それだけじゃ駄目なの」
そのまま、勢いだけで押し切るのではなく、今度はゆっくりと言葉を選びながら続ける。
「いずれギルバートは王になるでしょう? そうしたら私は王妃になる。そのときに王宮で働く人たちのことを何も知らないまま、上から命令するなんて……そんなの、嫌なの」
産んだ王子が、成長するとともに、仕事も増え出した。
二か月後の王子お披露目の後からは、予定も詰まっている。やるなら、今しかない。
「頭がかたい王妃には、なりたくないのよ」
言い切ると、部屋に静寂が落ちた。
オスカーはしばらく何も言わなかった。その沈黙は、思案というよりも自分の価値観のすり合わせを試みているようにも見える。
「……しかし、それが普通です。どの国の王妃教育にも職場体験など入ってはおりません」
オスカーは、はっきりと首を横に振る。手強いわ。
「オスカー、私ね。自分で言うのもなんだけど、こう見えて、何でもできるのよ?」
「っ、ははは。そうだね。セレスティーナは学院では、勉強はもちろん、魔法も剣も全部トップだったんだよ、オスカー」
私の言い方に、隣でギルバートが堪えきれないように笑った。
こう見えてがおかしかったのかしら?
それでもきちんと援護してくれる。
「初耳ですが?」
オスカーの目がわずかに見開かれる。
「嫁ぐとき、お父様が“王太子妃になるなら、控えめに、上品に振る舞うのだぞ”って言うから、控えめに振る舞っていたわ。本当は自国で……騎士になりたかったの」
空気が、わずかに変わる。ギルバートの表情が、申し訳なさ気に変わる。
「でも、ギルバートのために、王太子妃になる覚悟をして、この国に嫁いで来たの。もちろん、後悔はしていないわ」
私はすぐに言葉を重ね、そのまま、彼をまっすぐ見つめた。
「留学先で知り合ったセレスティーナに、私が王太子妃になってほしいと懇願したんだ」
ギルバートは、真面目な声音で続ける。
「だから、わがままを叶えさせてやってほしい」
オスカーはしばらく黙っていたが、やがて深く息をついた。
「……とはいえ、妃殿下が現場に出れば、周囲が過剰に気を遣います」
それは、宰相として譲れない一線だったのだろう。
「大丈夫! 変装するから! かつらも被るし、メイクだって別人みたいにするわ!」
勢いよく言い切る。
「オスカー、いいではないか――」
低く、穏やかな声が、場を横切った。はっとして声の方を向く。そこに立っていたのは国王陛下だった。
いつから聞いていたのか、扉のそばに静かに佇んでいる。気配すら感じさせなかったその存在に、誰もが一瞬言葉を失う。
「まずは一週間、試してみてはどうだ? うまくいけば延長。駄目なら中止とすればいい」
穏やかに、しかし有無を言わせぬ響き。思わぬところから援護が来たわ。
「昔な……、亡くなった王妃が、“海を見てみたい”と言ったことがあった」
遠い記憶を辿るように、ゆっくりと陛下の言葉が落ちる。
「だが、結局、叶えてやれなかった」
その声音には、長い年月を経ても消えない、後悔が滲んでいるように感じた。
「王太子妃がこんなに望んでいるんだ。私も叶えさせてやりたい、そう思うのだが、どうだ?」
オスカーはしばらく黙り込んだ。そして、観念したように頭を下げた。
「……承知いたしました」
やったわ!!
「ただし条件があります。護衛として私の娘を付けます」
アリシアね! じゃあ、何も問題ないわ。
彼女とは、学院時代からの友人。今でも頻繁に顔を合わせているのだから、見張られても気を遣わないわ。
「娘は諜報活動が得意ですから、妃殿下の様子を報告させ、最終的には陛下へ提出いたします。その結果をもって、継続の可否を判断するものとします」
さらに、言葉が重ねられる。
「長期は危険です。一週間、部署ごとに“試用”という形で区切ります。問題があれば、即座に中止といたします」
思っていたより完璧な管理体制ね。でも、当然といえば当然。
「もちろん、それでいいわ!」
「では、身分は“王太子妃の遠縁の令嬢”。顔が似ているということを少しはごまかせるでしょう。見習いとして各部署に入る形で来週までに調整いたします」
すでに彼の頭の中では、配置や危険度、接触する人員まで計算されているのだろう。
「配属先は吟味の上、後ほどお知らせいたします」
「オスカー、最初は侍女なんてどうかしら?」
ぱっと思いついたように口を挟む。だが――
「却下です。妃殿下を知っている者が多すぎます。これまでの接触の頻度も高い。即座に露見します」
すぐに却下された。
「うっ……そうね……」
肩を落とす。けれど、その落ち込みは長くは続かない。だって望みが叶ったのですもの。
「お願いね、オスカー!」
「……ええ」
オスカーは小さく息をつきながら答える。ほんのわずかな苦笑を滲ませて。
こうして監視と厳重な条件のもと、私の「職場体験」が幕を開けた。




