23.片手で食べられる小さな食事
「お父様、今日も参りましたわ」
「……アリシア。不満そうな顔は隠しなさい」
「隠しておりますわ」
全く隠せていない。本当は来たくありませんでした、とでも言いたげな視線を隠そうともしていない。そもそも隠していることを認めた時点で不満はあるということじゃないのか?
もっとも、私としても複雑な心境ではある。
本来なら毎日報告に来る必要のない娘が、また執務室を訪れているのだ。
何か重大な問題でも起きたのではないかと、背筋がぞわりとする。
「それで、今日は何だ。何かあったのか?」
「妃殿下が洗剤の改良に成功したので、各部署へ配って回りたいとおっしゃっています。許可をいただきたいのですが」
「もう完成したのか」
思わず声が漏れた。昨日の今日だというのに。
「効果の検証は済んでいるのか?」
「はい。既存のものより汚れが落ちやすく、使用量も少なく済むそうです。調薬院でも十分な検証を終えています」
「ならば構わん。各部署も役立つだろう」
「承知いたしました」
アリシアは一つ頷くと、続けて報告を口にした。
「それと、厨房へ向かうついでに、オーブンを借りたいそうです」
「……オーブン?」
洗剤を配る話から、なぜオーブンの話になる。
「何か作るのか?」
「ええ。仲良くなった調薬師たちが、食事も忘れて研究に没頭しているのを気にされたようでして。片手でも食べられるものを作りたい、と」
「片手で食べられるもの……」
焼き菓子だろうか。それとも、パンの類か。どちらにしても、研究の手を止めずに食べられるよう工夫するという発想は、面白い。何なら私も欲しい。
「分かった、厨房の責任者へ話を通しておけ。火を扱う以上、安全管理だけは徹底させなさい」
「承知しました。そう伝えておきます」
用件は終わったと言わんばかりに、アリシアは一礼すると足早に執務室を後にした。
閉じられた扉を眺めながら、ふと先ほどの言葉が頭に引っ掛かった。
『仲良くなった調薬師たち』
……待て。調薬院の者『たち』? 思わず眉をひそめる。
調薬師というのは、良くも悪くも研究馬鹿の集まりだ。
新しい薬や素材を前にすれば寝食すら忘れ、他人との付き合いには驚くほど無頓着。仕事と研究以外に興味を示さない者も少なくない。
互いに必要以上に干渉せず、それぞれが黙々と研究を続ける――それが調薬院という場所だったはずだ。
「仲良くなった」だと?
しかも、妃殿下が食事を心配するほど距離を縮めているとは。
……しまった! もっと詳しく聞いておくべきだった。
そんな疑問が湧いた頃には、当然、アリシアの姿はすでになかった。
◇
「おお、ティナ。話は聞いている。オーブンを使いたいのだったな」
洗剤を各部署へ配り終え、最後に厨房へ顔を出すと、料理長がにこやかな笑みで迎えてくれた。
「はい。それと、今は調薬院で職業体験をしておりまして。洗剤を改良してみたので、よろしければ厨房でも使っていただければと思い、お持ちしました。少量でも油汚れが落ちやすくなっていますので、ぜひ試してみてください」
「おお、それはありがたい。厨房は油汚れとの戦いだからな」
私は籠の中から改良した洗剤の瓶を取り出して渡す。
料理長は嬉しそうに箱を受け取ると、今度は私の持ってきた別の包みに目を向けた。
「それで、それがオーブンで焼きたいものか?」
「はい、そうです」
私は頷きながら材料を調理台へ置く。
調薬院で働く目の下には濃い隈を作り、顔色も悪い調薬師たちの顔が脳裏に浮かんだ。
調薬院では残業はほとんどないらしい。けれど、一度研究に夢中になると、自宅へ帰ってからも寝食を忘れて没頭してしまうという。
睡眠については本人たちの意識を変えなければ難しい。けれど、食事だけはどうにかしたかった。
何度「きちんと食べてください」と言っても、「席について食べる時間が惜しい」「気が付くと食べるのを忘れている」と返されてしまうのだから、本当に困った人たちだ。
「食事を忘れてしまう調薬師さんたちでも、研究の合間に片手で食べられるものを作ろうと思ったんです」
「ははは。確かに、あいつらは食堂にも滅多に姿を見せないという話だからな」
料理長は苦笑しながら頷いた。
「研究中は脳も魔力も使いますから、栄養が偏らないようにしました。これ一本で一食分に近い栄養が摂れて、栄養と魔力の回復もできるようにしています」
「ほう……」
料理長は興味深そうに身を乗り出した。
「四角い焼き菓子とは珍しいな。……いや、この形なら持ちやすいし、片手でも食べやすいか」
「名前は『マナ・バランスバー』です。長時間の思考作業で消費される脳の糖分と魔力を同時に補給できるように作りました」
「へえ。それで、どうやって作るんだ?」
料理長は興味津々といった様子で持ってきた生地を覗き込む。
「まず、ローストした穀物とナッツを数種類、あとドライベリーを混ぜます。そこへ集中力を高める『月光ハーブ』を細かく刻んで加え、一気に脳へ栄養を届ける『精霊の濃縮蜜』と溶かしバターを流し込みます」
料理長は感心したように頷いた。
「蜜が固まる前に全体へ均一に絡めるのがコツです。そして、ぎゅっと隙間なく敷き詰めたら、平らな板を乗せて重石でしっかり押し固めます。これでもか、というくらい強く押した方が、焼いた後も崩れにくくなるんです」
「なるほど。だから携帯食になるのか」
自国にいた頃は騎士たちとの遠征に向けてよく作った物で、好評だったものだ。私は型をオーブンへ入れ、焼き加減を確認しながら扉を閉める。
「出来上がったら、一つ味見をさせてもらってもいいか?」
「もちろんです。料理長にも感想をいただきたいですから」
その言葉に、料理長は嬉しそうに笑った。
しばらくすると、オーブンの中から香ばしく甘い香りが厨房いっぱいに広がった。焼き色を確認してオーブンから取り出すと、表面はこんがりと色づき、穀物やナッツが黄金色に輝いていた。
「おお、いい香りだな。早速食べよう」
料理長が手を伸ばそうとするのを、私は慌てて止める。
「まだ駄目です。焼き立ては柔らかくて崩れやすいので、冷めてから召し上がってください」
「むぅ……待ちきれないな」
料理長は名残惜しそうに焼きたてのバーを見つめると、厨房の奥へ声を掛けた。
「コンスタン、ちょっと来てくれ」
「はい、何でしょう、料理長」
若い料理人が駆け寄ってくる。
「これを冷ましてくれないか」
「承知しました」
コンスタンは焼き菓子へ手をかざし、静かに魔法を発動させた。ひんやりとした風が型を包み込み、熱がゆっくりと抜けていく。やがて十分に冷えた。
「よし、食べよう」
料理長は待っていましたと言わんばかりに一本手に取る。サクッと軽快で心地よい歯ごたえが厨房に響いた。
私も一つ食べる。ローストした穀物とナッツの香ばしさが口いっぱいに広がり、ドライベリーのほどよい酸味と精霊の濃縮蜜の優しい甘さが後から追いかけてくる。
「美味いな! 甘過ぎないから食べ飽きない。それに、しっかり噛むから少量でも満腹感がある。これなら忙しい合間でも一本食べれば腹持ちが良さそうだ」
料理長は感心したように頷きながら、あっという間に一本を食べ終えてしまった。




