18.報告:妃殿下が秘伝のスープを時短レシピに改良しました
職業体験の最後の日に、まさか勝負をすることになるとは思っていなかったわ。
副料理長は、自分の才能に絶対の自信を持っている。
けれど、その才能があるからといって、誰かが長い時間をかけて積み重ねてきた技術や努力まで、自分一人の功績にしていい理由にはならない。
私は、それを伝えたかっただけなのに。
ふと見ると、きちんと審査の席を用意され、すでに座っているギルバートが微笑んでいた。
「逃げずに来たな」
副料理長が堂々と厨房へ入ってくる。
副料理長の手には、すでに完成したスープが入った鍋があった。
蓋を開けた瞬間。ふわりと濃厚な香りが厨房いっぱいに広がった。
「まず、この中に使われている材料を当ててもらおうか」
私は鍋へ近づき、静かに香りを確かめた。強い香りの奥に隠れているものを探す。その後、一口、口に含む。
前に食べたときと、同じ。変わっているところはないわ。
「使用されているのは、赤胡椒。乾燥させた柑橘の皮。山岳地方で使われる香草……それから、少量の甘草ですね」
副料理長の眉がわずかに動いた。先ほどまで浮かべていた余裕が、ほんの少しだけ消える。
「それから……使われている香辛料は、この国では一般的ではありませんね」
副料理長は口元を上げる。
「そうだ。そこまで分かるとは思わなかった。しかし、それが何なのかまでは分からないだろう」
私は首を傾げた。
「いいえ。南方の砂漠地域で使われる香辛料ですね」
「は? ……なぜ分かった? そんな簡単に?」
「香りに特徴があります。最初に甘い香りが立って、そのあとに少し乾いたような香りが残ります。それに、後味にはほんの少しだけ辛みがあります」
副料理長は黙ったまま、私の言葉を聞いている。
「この香辛料は、南方の砂漠地域では肉料理によく使われます。香りが強いので、羊や山羊のような独特の臭みがある肉と合わせることが多いんです。肉の臭みを覆うだけではなく、脂の重さも和らげてくれますから」
私はもう一度、鍋から漂う香りを吸い込んだ。
「ただし、入れすぎると、料理全体が重たくなる。ですが、この量なら……仕上がりの香りを整えることができる」
副料理長は、しばらく何も言わなかったけど、すぐにいつもの余裕ある笑みに戻る。
「だが、材料が分かったところで何になる? 料理人に必要なのは、嗅覚や舌だけではない」
その言葉には、さっきまでの余裕とは違う、料理人としての自負が滲んでいた。私は小さく頷いた。
「問題は、この味を再現できるかだ。私が作り上げた秘伝の味を、たった数日厨房にいただけの者が再現できるとでも?」
「承知しました。では、副料理長様が作られたものを、きちんと理解した上で作らせていただきます」
私はまっすぐ副料理長を見る。
「まあ、若い者が自分の才能を過信することなど珍しくない。王太子殿下の前で恥をかくというのも、いい経験になるだろう」
副料理長は鼻で笑った。言葉で説得しても、この方には届かない。ならば、料理で示すしかない。
「アリシア。準備をお願い」
「ええ、ティナ」
アリシアが一歩前へ出る。私は調理台に並べられた材料を見渡した。肉、香辛料、玉ねぎ、根菜、香草。それからスープの土台となる数種類の野菜。
重要なのは、何を、どの大きさに切り、どの順番で火に入れるか。それを頭の中で組み立てて取り掛かる。
油に香りを移すもの、煮込みの途中で旨味と馴染ませるもの、最後に香りを残すもの。それぞれの性質に合わせて、入れる順番を考えていく。
副料理長は、しばらくじっと見ていたがだんだんと顔が青くなっていく。
「このスープは、長時間煮込むことで香辛料の香りとそれぞれの材料の旨味を馴染ませています。ですが、そのために何時間も火にかける必要はありません」
副料理長の眉がぴくりと動いた。
「何?」
「『時間』を短くします」
アリシアが静かに手をかざした。最初に発動したのは、氷魔法。鍋の周囲から一気に熱が奪われていく。
「なっ……!」
料理人たちが目を見開く。けれど、私は慌てることなく鍋を見つめた。
鍋から立ち上っていた香りが、少しずつ変化していく。尖っていた香りが落ち着き、甘い余韻がはっきりと感じられるようになった。
「次です」
アリシアが反対の手を上げる。今度は火魔法。炎が鍋を包む。だが、激しく燃え上がることはない。炎は一定の揺らぎを保ったまま、鍋を均一に温め続けている。
「ここから、一気に煮込みます」
「一気に……?」
副料理長が呆然と呟く。私は鍋に蓋をし、アリシアの魔力が鍋全体を包み込んだ。
鍋の中から逃げようとしていた蒸気が、外へ出られなくなる。けれど、ただ閉じ込めただけではない。
「鍋の中の圧力を上げます」
アリシアの魔力がさらに強くなる。鍋の中で、煮汁が静かに揺れ始めた。料理人たちは言葉を失っていた。
圧縮された鍋の中では、香辛料の香りが逃げることなくスープへ溶け込んでいく。肉から出た旨味も、野菜の甘みも、外へ逃げることなく煮汁へ戻っていく。
普通なら何時間もかけて少しずつ進む工程を、魔法によって一気に進める。
「これなら、長時間煮込んだのと同じように、材料を馴染ませることができます」
副料理長が青ざめた顔で鍋を見る。
「……馬鹿な。何時間も……何時間もかけていたものを……」
「魔法は便利な道具です。包丁や鍋と同じです。料理をより良くするために使えるものなら、使えばいいと思います」
「馬鹿な……」
副料理長が低く呟く。
「料理とは、時間をかけ、手間を惜しまず作るものだ」
「もちろん、それも大切なことです。でも、たくさんの可能性を試すことも必要ではありませんか? そこから生まれる新しい味もあるはずです」
「……」
答えは返ってこない。私は鍋へ視線を戻した。
「もう、いいでしょう。アリシア完成よ」
私は完成したスープを見つめる。副料理長は、完成したスープを見つめたまま動かなかった。副料理長は皿を手に取り、一口口へ運ぶ。
「……っ!」
悔しそうな顔が、秘伝のスープと同じということを物語っていた。料理長が王太子殿下へ皿を差し出す。
「王太子殿下。お願いいたします」
「ああ。いただこう」
ギルバートは、ゆっくりと味を確かめるように、料理を口へ運んだ。
「素晴らしいね。肉の脂と野菜の甘み、その中に香辛料の香りがきちんと残っている。味に奥行きがあるのに、重くない。食べ終えたあとに、もう一口欲しくなる。勝者は、ティナ。いやこのスープに携わってきた者たちだ」
厨房中に歓声が響いた。料理人たちが喜びの声を上げる。何より料理長が一番喜んでいた。副料理長だけは、黙ったまま皿を見つめていた。
「魔法に頼るなんて……これは無効だ!」
突然、副料理長が声を上げる。誰も答えなかった。呆れていたのだ。王太子殿下だけが、静かにため息を吐いた。
「副料理長も食べたのだろう? 認めたらどうだい」
「王太子殿下! 私の才能を正当に評価していただきたい。私が辞めることは損失です!!」
副料理長が必死に抗議する。
「君は、もっと自分以外の人間の努力を評価したほうがよかったね」
ギルバートの一言に、厨房が静まり返った。
「料理長が何年もかけて築いた技術、料理人たちが毎日積み重ねてきた経験。すべては、君の才能を作り出すためにあるのではない」
「……」
副料理長の顔が赤くなる。
「王宮から給与を受け取り、厨房を任される立場だよね。自分の興味を優先し、残された料理人たちへ負担を押し付けた、という報告は受け取っている。」
副料理長は再び青ざめ、黙り込んだ。赤くなったり青くなったり忙しいわ。
「もちろん、辞めてもらう。そして、君が職務を果たさずに受け取っていた給与も返してもらおう。さらに、出張という名目で申請した費用――あれは出張ではなく、単なる旅行だったようだね」
「違います! あれは――」
「それらも含めて、すべて請求する。ほら、迎えが来たよ」
姿を現したのは、監査を担当する役員たちだった。副料理長は青ざめ拳を握る。しかし何も言えず、そのまま背を向け、厨房を出ていった。
誰も、副料理長を惜しむ顔はしていない。
料理の腕だけでは、人はついてこない。誰かの努力を認められない者に、料理人としての信頼は積み重ならないのだから。
「アリシア。協力してくれてありがとう」
私が微笑むと、アリシアも穏やかに笑った。
「お父様への報告は『妃殿下が秘伝のスープを時短レシピに改良しました』にしておきます」
私は思わず笑ってしまった。
「ふふ、それがいいわね」
こうして、私の厨房での一週間の職業体験は、幕を閉じた。




