16.報告:妃殿下は、神の舌をお持ちです
「ご報告いたします。本日、妃殿下はお味見をなさいました。以上です」
私は報告書から顔を上げた。
「……短くないか?」
「本当に以上ですので」
娘は平然と言う。私は額を押さえた。
「なぜ、そうなった? 昨日まで皮むきや食材の下ごしらえをしていたのではないか?」
「実は本日、料理長がひどい口内炎を患っておりまして。味の確認をしたくても、痛みでよく分からないそうです。誰かに頼もうとしたのですが、皆さん遠慮なさってしまいまして」
「それで?」
「妃殿下が『では、私が』と名乗り出られました」
「……大丈夫だったのか? それは味見という名の毒見ではあるまいな?」
娘は呆れたようにため息をついた。
「お父様。例えそうでも、毒は効かないと分かっているではありませんか」
「……そうだったな」
「本当に、お父様は物忘れが激しいですわ」
私は小さく咳払いをする。
「それで、妃殿下が味見をすることになったのか。まあ、自分で召し上がる料理なのだから、好みで『もう少し塩を』などと仰る程度なら問題あるまい」
娘は首を横に振った。
「そんな大雑把なものではありません。妃殿下は、『神の舌』をお持ちです」
「……神の舌?」
そんな話は聞いたことがない。
「料理長たちが一生懸命料理を作ってくださっていることをご存じだから、これまで口を出されなかっただけです」
「つまり?」
「使われている食材を一口で見抜き、何をほんの少し足せば、料理が劇的に美味しくなるかまで分かるのです」
「何だと……」
思わず声が漏れた。
「それほどの腕なら、なぜ今まで黙っておられたのだ?」
「妃殿下は、料理人への敬意を何より大切になさいますから。ご自分が作るわけでもないのに、あれこれ口を出すのは失礼だ、と仰っていました」
「……なるほど」
だから今まで黙っていたのか。
「では今日は、その助言を?」
「はい」
「料理長は気を悪くしなかったのか?」
「いいえ」
娘は即座に答えた。
「最初は半信半疑だったそうですが、妃殿下の助言どおりに香辛料をひとつまみ、香味油を数滴加えただけで、料理の香りも味の奥行きもまるで別物になったそうです」
「……」
「料理長は感激していました」
◇
料理長が、小さく眉をしかめた。一口だけ口に運び、顔を顰める
そして、困ったように首を傾げた。
「……駄目だ」
その呟きに、厨房の空気が止まる。
「料理長?」
「口内炎がひどくてな。口の中が染みる。誰か代わりをやってくれないか」
周囲の料理人たちが顔を見合わせた。
王宮の料理は、一皿ごとに最後の味見をしてから食卓へ送られる。
それは塩加減だけではない。香り、甘味、酸味、余韻――料理全体の調和を確かめる、大切な最後の工程だ。
「私では責任が……」
「いや、自分も自信が……」
料理人たちは腕は立つ。
だが、料理長の代わりに最終判断を下すとなれば話は別だった。私はその様子を見て、小さく手を挙げた。
「でしたら、私が味を見てもよろしいでしょうか?」
一斉に視線が集まる。
「ティナさんが?」
料理長は少し迷うような表情を浮かべた。
「感じたことを、そのままお伝えするだけでもよければ」
料理長はしばらく考えた末、静かに頷いた。私は銀の匙を受け取り、鍋へ近づく。今日は肉の煮込み料理。
立ち上る湯気だけで、香りが幾重にも重なって鼻へ届く。
黒胡椒。赤葡萄酒。飴色まで炒めた玉ねぎ。人参、セロリ……ローリエが一枚。
タイムは最後に加えたのね。目を閉じる。香りだけで、使われた食材と調理の順番が頭の中へ浮かび上がってくる。
丁寧な仕事だわ。さすが料理長。
肉は強火で表面だけを焼き固め、旨味を閉じ込めている。
鍋底に残った焼き色は、赤葡萄酒でしっかりとこそげ落としている。玉ねぎは焦がさず、じっくりと飴色に炒められている。
私はスプーンで少量すくい、ゆっくりと口へ運んだ。
まず舌へ届くのは、肉の旨味、続いて玉ねぎの自然な甘味。
赤葡萄酒のほのかな酸味が全体を引き締め、最後に香草の爽やかな余韻が静かに残る。
本当に美味しい。だからこそ、分かる。惜しいわ。味がまとまる直前で止まっている。
私は微笑んだ。
「大変美味しいです。でも、もし失礼でなければひとつよろしいでしょうか」
その一言で、厨房が静まり返った。
「構わない。なんだ?」
「はい」
私はもう一度スープを口に含む。
「塩味も火加減も申し分ありません。肉も柔らかく煮えています。あとは、香りと味の橋渡し」
料理人たちが顔を見合わせる。
料理人たちの目が大きく開かれる。
「全体を繋ぐ香りが加われば、それぞれの味がお互いを引き立て合います」
私は棚へ歩き、一つの香辛料の瓶を手に取った。
「こちらを、ひとつまみ入れてください」
「これか。なるほど、確かに、そうだな」
料理長は何かを確認するように呟きながら、鍋へ加えた。木べらで三度だけ混ぜる。
料理長が味見をしようとして、苦笑した。
「……そうだった。今日は口内炎だったな」
「では、どなたか」
「私が、味見してもよろしいですか?」
料理人の一人が興味津々といった様子で匙を口へ運んだ。
「……あっ」
思わず声が漏れる。
「旨味を強く感じる。ソースがよりひとつにまとまっている」
「香りの重なり方が変わったので、旨みをより感じるようになっただけです」
厨房がざわつく。
「人の舌は、香りと一緒に味を感じますから」
私は鍋を見つめた。
「料理は、ほんの少し香りを変えるだけで、まったく違う料理になります。さらに仕上げに香味油を二滴」
料理長が静かに油を落とした瞬間。ふわり、と香りが立ち上った。厨房中の空気が変わる。
「……!」
「何だ、この香りは……」
「さっきまでと別の料理みたいだ」
誰もが鍋へ引き寄せられる。私は思わず笑みを浮かべた。
気づけば料理長は痛みを我慢しながら味見をし、その周りでは料理人たちが慌てて手帳を取り出し、書き留めていた。




