15.報告:王太子妃殿下は野菜の皮むきをなさいました
「ご報告いたします。本日、妃殿下は主に野菜の皮むきと、食材の切り分けをなさいました。もちろん、お怪我はございません。以上です」
「……昨日も皮むきではなかったか? 妃殿下は、それで満足なのか?」
四日目の報告を聞き終わり、娘へ問うと、少し呆れたように肩を竦める。
「お父様は意外と世間知らずなのですね。王族が口にする食材へ直接触れられるのですよ。それを、たった数日で任される。快挙ですわ」
「……」
その"世間知らず"が、お前をここまで育てたのだが。
そう言い返したい。だが、口にすれば、「お母様に育てられました』そう返される未来が見える。
私は黙って咳払いをした。
「怪我はないと言ったな。なぜ妃殿下は刃物を扱えるのだ?」
普通の貴族令嬢なら、包丁を握る機会などほとんどない。ましてや王太子妃は生まれついての王族である。
野菜を切ることを任せられる理由が分からない。
「妃殿下は、本気で騎士を目指しておられたのですよ。ですから、野営訓練にも何度も参加しております。炊事も火起こしも得意ですし、野営料理も絶品でしたわ」
「……」
絶品? 嫌な予感しかしない。
「まて、まさか、お前も一緒に野営へ行ったのではあるまいな」
「留学中に何度もご一緒しましたが?」
娘は悪びれもせず答えた。
「もちろん、お母様には報告しております」
なぜ私には報告しない。私は父親だぞ。
そもそも妻も何故私の耳に入れない。
「……今さらだがな。私は、お前と王太子殿下が留学中に仲を深めてくれることを期待していたのだぞ。それなのに、王太子殿下が留学して早々に心惹かれた相手と親しくなるなど……」
当時、王太子殿下の婚約者候補として最有力と目されていたのは、エルザ嬢と我が娘だった。
エルザ嬢ではなく、娘を同じ留学先へ送り出すこともできた。
これで二人が親しくなれば、婚約はほぼ決まったも同然――そう考えていたのである。
「しっ、お静かに、お父様。ヴァロワ公爵の二の舞になりたいのですか」
娘が人差し指を口元へ当て、視線を動かす。
私は思わず口をつぐんだ。お前が黙っていれば、誰にも分からぬではないか。
それにしても……ふざけた芝居をしおって。間違いなく私をからかっている。
娘は肩をすくめ、くすりと笑う。
「昔は、エルザ様にお仕えするくらいなら、自分が王太子妃になったほうがよいのでは、と考えたこともございました。ですが、王太子殿下が、あれほど素晴らしい方を見つけてくださって本当に良かったですわ」
娘は穏やかな笑みを浮かべた。
「お父様だって、本気で私を王太子妃にしたいと思っていたわけではありませんでしょう?」
「……」
「私ですよ?」
そう言われると、返す言葉がない。
幼い頃から、王太子妃候補となる可能性を考え、礼儀作法も政治も外交も、必要な教育はすべて施した。
王家では本来、王太子が幼いうちに婚約者を定めるのが慣例だった。
だが、私の代で大規模な婚約破棄騒動が起きたことを教訓に、国王陛下は「王太子が物心ついてから決める」と方針を改められた。
そのおかげで、候補者たちは長く競い合うことになり、我が娘にも十分な可能性はあった。
……しかし、この娘は魔法の才に目覚めてからというもの、表舞台よりも、裏から人や組織を動かすことに楽しさを見いだしてしまった。私より宰相向きだ。
そうだな、本当に王太子妃になっていたなら。
この娘に毎日振り回されていたに違いない。今でさえこうなのに、考えただけで胃が痛くなる。
娘はそんな私の心中など見透かしたように、にこりと笑った。
「……一応、お前も令嬢なのだぞ。野営など、何かあったらどうする」
娘はきょとんとした顔をした。
「あら、その辺の野盗程度でしたら、私の敵ではありませんわ。ご存じでしょう」
そうだった。
「それに、本気を出した妃殿下のほうが、私よりお強いです。刃物の扱いなど、惚れ惚れいたしますわ」
何だと? 娘は指折りの実力者だ。
その娘より強いというのか。刃物……剣のことか。いや、ナイフか。……おそらく、どちらもなのだろう。
私は大きく息を吐いた。知れば知るほど、妃殿下というお方は底が知れない。
「分かった。明日も頼んだぞ」
考えても答えは出まい。
「承知いたしました」
娘は笑顔で頭を下げた。
しかし、その頬がぴくりと引きつったのを私は見逃さなかった。嫌そうな顔をしても駄目だ。
厨房で妃殿下が何をなさるのか。私は毎日、最後まで聞くつもりだからな。
◇
料理長が用意した籠いっぱいの野菜を前に、私は包丁を手に取った。
包丁を指先で軽く回す。騎士を目指していた頃、野営では自分たちで食材を切り、火を起こし、食事を作っていた。
剣も包丁も、刃物であることに変わりはない。刃筋をまっすぐ通すこと。無駄な力を入れないこと。
身体に染み付いた動きは、今でも忘れていない。
私は最初の人参を手に取った。皮が、薄く長く、一枚の帯になって落ちていく。
「……薄い。すごい」
近くの料理人の声が聞こえ、思わずにやつきそうになる口元を引き締めた。褒められるのは嬉しいわ。
皮を厚く剥けば、その分だけ食材は減る。王宮とはいえ、無駄は少ないほうがいい。どんどん野菜を手にする。
「全部……同じ大きさだ……」
今度はじゃがいも。
「こちらは煮込み用ですね。こちらは長く煮ますから、崩れない形に」
その時だった。
「しまった! 玉ねぎのペーストがまだだ!」
料理長の声が厨房へ響いた。鍋では、すでに肉の表面へ焼き色がつき始めている。このままでは、次の工程が間に合わない。
「急げ!」
「もしよければ、私がやります」
すぐさま声をかけると、料理長が驚いたように振り返る。
「できるのか?」
「はい。よろしければ、別鍋を一つお借りできますでしょうか」
「……構わん。頼む」
「ありがとうございます」
私は玉ねぎを三つ手に取った。包丁が走る。細かなみじん切りが、まな板へ積もっていく。
「速っ……」
「もう終わったぞ……」
料理人たちが呆然と見守る中、私は鍋へ少量の油を引いた。
「火は中火より少し弱めで。焦がしてしまうと苦味が出ますから」
みじん切りにした玉ねぎを一気に鍋へ入れる。
じゅっ、と軽やかな音が響く。私は木べらで絶えず混ぜ続けた。
「細かく刻めば、それだけ水分は抜けやすくなります」
玉ねぎが透き通り始める。さらに混ぜる。鍋底へ広げる。集める。また広げる。
そして私は小さなスプーンで湯をほんのひとさじ加えた。じゅわっと音を立てて蒸気が上がる。
「鍋底に残った旨味のついた焦げを溶かしこみます。これで深いコクと甘みが出ます」
私は木べらで鍋底を優しくこそげ取る。
「デグレーズの手際がいい……」
料理長の声が聞こえる。鍋底に付いた茶色い膜が溶け、玉ねぎへ戻っていく。
「玉ねぎが持つ甘味を、少しずつ引き出していくのです」
やがて白かった玉ねぎは、黄金色を経て、美しい飴色へと変わった。艶があり、とろりとしている。おいしそうだわ。
甘く香ばしい香りが厨房いっぱいに広がった。
「見事な飴色だ……」
料理長が思わず鍋を覗き込む。
「水分と温度を調整すれば、時間はかなり短縮できます」
私は木べらを置いた。
「どうでしょう?」
料理長は恐る恐る一口すくう。口へ運んだ瞬間、その目が大きく見開かれた。
「甘い……!いや、それだけではない。香りが違う。素晴らしい!」
料理長は信じられないという顔で鍋を見つめていた。




