14.報告:王太子妃殿下は皿を洗われました
「ご報告いたします。本日、王太子妃殿下は調理場の見学を一通り終えられた後、皿洗いをなさいました。以上です」
娘の報告を聞き、私は思わず眉をひそめた。
「……以上?」
「はい。以上です」
あまりにも簡潔な報告だった。
私は、目の前に立つ娘の顔をじっと見つめる。
「そんな一日で、何かあるわけありませんでしょう」
「それは……そうだが」
娘の言う通りである。
王太子妃殿下が調理場を見学し、その後、皿を洗った。ただそれだけの一日だ。そこに何か事件が起きるほうが問題である。
だが、王太子妃殿下が皿を洗うということ自体が、すでに十分すぎるほど異例なのだ。
私は腕を組んだまま、しばらく黙り込んだ。
「……皿を割って、手を怪我したということもないのか?」
「王太子妃殿下は、うっかりさんではありませんわ」
「では、長時間の水仕事で手が荒れたのではないか?」
「侍女たちがきちんとケアをしておりますから、問題ございません」
「そうか……」
どうやら、本当に何も起きていないらしい。
だが、ここまで何もないと言われると、逆に不安になる。
「では、水の中に何か妙なものが混じっていたとか……」
「お父様」
娘の声が、わずかに低くなった。私は、思わず口を閉じる。
「怪我もありません。体調にも問題ありません。皿も割っておりません。王太子妃殿下は、無事に見学を終えられ、無事に皿を洗われました」
娘は一つ一つ、念を押すように言葉を重ねた。
「以上です」
「……以上」
「はい。以上です」
どうやら、これ以上突っ込めば、さすがに怒られそうだ。
そもそも、何も起きなかったことを報告している娘に対して、「本当に何も起きなかったのか」と尋ね続ける私のほうが、どうかしているのかもしれない。
私は小さく息を吐いた。
「では、また明日も頼んだぞ」
「はい」
娘は短く返事をすると、踵を返した。そのまま扉へ向かい、部屋を出ていく。
私は、遠ざかっていく娘の背中を見送った。そして、扉が静かに閉じられた直後。
――はあ。
アリシアの浅いため息が聞こえたような気がした。
◇
「ティナです。本日から一週間、お世話になります。よろしくお願いいたします」
調理場の入口で頭を下げると、目の前に立っていた料理長が、わずかに目を細めた。
「ああ、聞いている。では、まずは調理場を見学してもらおうか」
「はい」
私は料理長の後について歩き始めた。王宮の調理場は、私が想像していたよりもずっと広かった。
壁際には食材を保管するための棚が並び、奥には大きな釜や竈が設置されている。
いくつもの作業台では、料理人たちがそれぞれ別の作業を進めていた。誰もが忙しそうに動いている。
私は歩きながら、周囲を眺めていた。ただの見学と言われても、見ているだけで面白かった。
調理場というのは、その場所ごとに独自の仕組みがある。
どこに何があり、誰がどの方向へ動くのか。それを見ているだけで、たのしかった。
しばらくして、料理長が足を止めた。
「さて……何か、やってみたいことはあるかな?」
料理長は、少し困ったように周囲を見回した。私に、何をさせればいいのか迷っているのだろう。
「それでは、皿洗いを」
「……皿洗い?」
なぜか、料理長が一瞬だけ止まった。私は首を傾げたが、すぐに理由に気づいた。
『王太子妃殿下の遠縁』に皿洗いをさせてもいいのか。
料理長は、きっとそんなことを考えている。
「いえ、もちろん、無理にとは申しません。ですが……せっかく調理場に来たのですから、見学だけでは申し訳ありませんもの。私も働かせてください」
「しかし……」
「それに、皿洗いは得意なのです」
「得意……?」
「はい」
私はにっこりと笑った。そして、料理長の返事を待つより先に袖をまくった。
◇
洗い場に立つと、料理長が普段使っているという洗浄液を見せてくれた。
「こちらが、普段使っている洗浄液だ。ここでは浸け置き洗いを行っている。その方が放置するだけなので力や手間がいらないからな」
料理長が取り出したのは、薄く濁った液体の入った瓶だった。
「魔法が付与されていますね」
私は瓶を受け取り、光にかざした。淡い青色の液体。その中を、いくつもの魔力の流れが絡み合っている。
魔法の構造は、決して複雑ではない。汚れを消す魔法ではなく、素早く包み込む魔法ね。
私は洗浄液を少量、水に垂らした。淡い光が水面を走る。魔力が水の中へ広がり、目に見えない何かを包み込んでいく。
汚れを、小さな魔法の袋に詰めて沈めているようなものかしら。
「水に混ぜての使い方では、少しもったいないですね」
「もったいない?」
「ええ。大量の水に混ぜると、魔法の力が薄まります」
料理長が目を見開いた。
「魔法が……薄まる?」
「この洗浄液は、汚れを包むための魔力を持っています。大量の水に先に混ぜてしまえば、魔力を持った成分が広い範囲へ散ってしまう。汚れに触れる前に、力を使ってしまうのです」
私は一枚の皿を手に取った。表面には、肉料理に使われた油が厚くこびりついた。
私は洗浄液をつけた布を皿の中央から端へ向かって滑らせた。
布を動かすたび、油が少しずつ皿の端へと集まっていく。
淡い光が走る。先ほどまでべったりと張り付いていた油汚れが、するりと水の中へ流れていった。
私は皿を持ち上げ、光にかざした。白い皿の表面に、汚れは残っていない。
「何ができる洗剤なのかを理解すれば、使い方は変わります。一皿ずつ擦ったほうが早いです」
夢中で洗っていると気づけば、洗い場に積まれていた食器の山が、みるみるうちに減っていた。料理長は目を見開いている。今まで毎日使っていたものが、まったく別のものに見えているのかもしれない。
「あと、この棚ですが。少し使いにくいですね」
私は洗い場を見回した。洗った食器を置く場所と、まだ洗っていない食器の位置を見比べる。
「洗ったものを置く場所が遠すぎます。こちらへ移したほうが、動きが少なくて済みます」
私は洗い場の中央を指差した。
「それから、こちらの大皿は重ねすぎると、下のものに負担がかかります。五枚程度に分けたほうが安全です」
料理人たちが、私の指差した先を見る。
「……確かに」
誰かが呟いた。その声を合図にするように、料理人の一人が棚へ歩み寄った。
「特に何も疑問に思わなかったが、そう言われればそうだな。この棚、動かせるか?」
「ちょっと待ってください。そこを動かすなら、籠も移したほうが……」
「籠はこっちだ」
「ですが、そこでは水が跳ねます」
「なら、こちらに――」
あっという間だった。料理人たちが、次々と動き始めている。
「こちらの水の流れも気になります」
私は少しだけ戸惑いながら声をかけた。
「水の流れ?」
「はい」
私は洗い場を指差した。
「ここで水を使ったあと、こちらへ流れていますよね。でしたら、すすぎ用の水を使う場所を少しずらしたほうがいいと思います」
私は、料理人たちが動く様子を見ながら続けた。
「今の配置ですと、洗った人とすすぐ人が同じ場所で交差します。忙しい時間帯には、ぶつかる可能性があります。洗ったものを置く場所をこちらへ移して、すすぎはあちらで行うようにすれば、互いの動線を分けられます」
「……やってみるか」
料理人たちが、洗い場を見回した。
「水桶を動かせ! 棚はこちらだ!」
「そっちを先に空けろ!」
「こちらのほうが、動きやすいな。皿を置くまでの距離も短い」
「水も無駄になっていないぞ」
料理人たちが、口々に言い始めた。料理長はしばらく何も言わなかった。ただ、変わった洗い場を見ていた。
「あら……?」
私は窓の外へ目を向けた。いつの間にか、差し込んでいた陽の光がずいぶん傾いている。
「もう、こんな時間なのですね。そろそろ帰らないと、本日はありがとうございました」
そう言って、私は袖を戻した。調理場を出ようとすると、料理長が慌てたように声をかけた。
「ティナさん。明日も、待っている」
「はい。では、また明日」
私は笑顔で調理場を出た。




