真之介の顎
春香は自宅の部屋で、亜美に電話をかけていた。
「亜美、ちょっと聞いてよ」
『どうしたの?』
「亮太のやつ、マジでひどいんだけど」
『そうなんだ。いつも大変ね』
「今回のは本当にありえないから。他に女ができたって、いきなり別れたんだよ」
春香はベッドに座り、苛立った声を上げる。
「ずっと浮気してて、私のこと騙してたんだよ」
『亮太くんに限って、それはないんじゃない?』
「え? 亜美、亮太の肩持つの?」
『だって春香も、ずっと真之介くんのことが好きだったんでしょ?』
「私のはピュアだから」
電話の向こうが静かになる。
「……亜美、どうしたの?」
『春香、亮太くんを大事にしなかったこと、いつか後悔すると思う』
「いやいや、ないから。むしろ清々したし」
『亮太くんは、春香にはもったいない人だったよ』
春香は黙った。
亜美から、ここまではっきり言われたのは初めてだ。
『私も智也くんも、春香に彼氏ができて本当に応援してたんだよ』
『だから、すごく残念』
電話が切れる。
春香はしばらく、スマホを耳に当てたまま動けなかった。
亜美の言葉が、胸の奥へ深く突き刺さっていた。
◇
数日後。
亮太は志乃に電話をかける。
数回の呼び出し音で、すぐにつながった。
『珍しいじゃない。亮太から電話してくるなんて』
「志乃、頼みがあるんだ」
『どうしたの?』
「浮気してほしい」
『やっとその気になったんだ』
志乃の声が弾む。
「相手は俺じゃない」
『どういうこと?』
「真之介って奴に、ちょっと借りがあってね」
『その人、どんな女が好みなの?』
「軽そうな子」
亮太は即答する。
『なるほど。私が適任ってことね』
志乃が楽しそうに笑った。
◇
翌日。
亮太は真之介を居酒屋へ呼び出していた。
「ういー。亮ちゃん、お待たせ」
真之介は、いつもと変わらない笑顔で現れる。
春香から何も聞いていないのか。
それとも、知っていて平然としているのか。
真之介は席へ着くより先に、亮太の隣にいる女性へ目を向けた。
「こちら、友達の志乃さん」
亮太が紹介する。
胸元の開いたセーターを着た志乃が、にっこり笑った。
「志乃です。よろしく」
真之介の目が大きく見開かれる。
「おお! 初めまして! めっちゃ美人ですね!」
見るからにテンションが上がっている。
「春香のことでは、真之介にずいぶん世話になったからさ」
亮太は笑顔を見せる。
「俺も誰か紹介しようと思って」
「あ、ああ……」
真之介が、少しだけ引きつった笑顔を返した。
やはり、春香とのことが知られたのは分かっているらしい。
それでも何も言わないのは、放置してしらばっくれる気だろう。
しばらく三人で飲んだあと、一軒目を出る。
二軒目へ向かう途中、亮太はスマホの画面を見るふりをした。
「あ、ごめん。会社から連絡来た」
「今からちょっと行ってくる」
志乃が驚いた顔を作る。
「えー。亮太、行っちゃうの?」
「悪いけど、二人で飲んでてくれる?」
「大丈夫!この真之介に任せて!」
真之介が真っ先に答えた。
すでに志乃の肩へ手を回している。
志乃は嫌がる様子もなく、ただ笑っていた。
「じゃあ、また後で」
亮太は軽く手を上げ、その場を離れる。
◇
数時間後。
近くのカフェで待っていた亮太のスマホが震えた。
真之介からだ。
『助けて』
亮太は店を出て、指定された公園へ急ぐ。
暗い園内を進むと、ベンチのそばに人影が倒れていた。
「真之介?」
近づくと、真之介が口元から血を流し、地面にうずくまっている。
「おい、大丈夫か?」
「あぐぐぐ……い、痛い……」
顎を押さえ、うまく喋れないようだ。
亮太は真之介へ肩を貸し、そのまま病院へ連れていった。
検査の結果、顎の骨にひびが入っていた。
処置を終えたあと、亮太は紙とペンを渡す。
「何があったんだよ?」
真之介は震える手で文字を書いた。
『あのあと、志乃ちゃんを公園に連れていって、キスしようとしたら』
『筋肉モリモリの顔にタトゥーがあるやつがきて、殴られた』
亮太は紙を見ながら頷く。
「それは災難だったな」
白々しく言う。
真之介は何も気づいていない。
看護師から、警察へ連絡するか尋ねられた。
「彼女にバレるかもよ? どうする?」
亮太が真之介を見る。
真之介は首を横に振った。
「いえ……よくあることなんで」
看護師が少し引いた顔をする。
亮太は笑いをこらえながら、真之介の書いた紙をくしゃくしゃに丸めた。
「よし。家まで送ってってやるよ」
亮太は真之介の腕をつかむ。
「あぐぐぐ……いたたた……」
真之介が情けない声を上げた。




