第九話 年を経れば鯉も獣も変化する 其の玖
白い霧が洞窟の中を満たしていた。
姫紬は大鬼熊の姿を見失わぬよう、視線を鋭く保ったまま静かに呼吸を整える。耳に入るのは、遠くで滴る水音と、荒々しい息遣いだけだ。霧の向こうで大鬼熊が身じろぎするたびに、洞窟の床へ重い響きが伝わってくる。
「ちっ……小賢しい真似を……」
大鬼熊の低い声が霧を震わせる。
姫紬は返事をしなかった。今は言葉よりも、次の流れをつかむことが先だった。洞窟の湿り気はまだ消えていない。天井から落ちる雫、岩に染みた水、足元の薄い水たまり。それらはすべて、姫紬にとって“流れ”だった。
大鬼熊が怒りに任せて霧を払いのけようと前へ踏み出す。
その瞬間、姫紬は動いた。
足元の水を小さく跳ね上げ、視界を乱しながら横へ滑るように移動する。鬼火が一つ、霧の中を裂いて飛んできたが、姫紬は半身をずらしてそれを避けた。炎は岩壁へぶつかり、濡れた石を焼いて白い蒸気を上げる。
「そこか!」
大鬼熊の拳が霧を破る。
姫紬はその拳を真正面から受けない。岩の突起を踏み、体をひねってかわし、そのまま大鬼熊の腕を伝うように間合いを詰めた。巨大な毛皮の腕は熱を帯び、鬼火の残光がまだまとわりついている。だが姫紬はひるまない。
「あなたは強いですわ。けれど、強い力ほど流れを読まれると脆いのです」
「黙れ……!」
大鬼熊がもう片方の腕を振るう。姫紬はその前に、地面へ手をついた。
ぱしゃり、と小さな水音が響く。
洞窟の床を走る細い水筋が、姫紬の意思に引かれるように広がる。岩のひび割れへ入り込み、鬼火の熱で乾きかけた空気を一瞬だけ重くした。大鬼熊の足元がわずかに滑る。
「なにっ……」
巨体がぐらりと傾く。
その隙を逃さず、姫紬は大鬼熊の懐へ踏み込んだ。袖を翻し、掌を大鬼熊の胸元へ打ちつける。強い衝撃ではない。だが水気を含んだ一撃は、妖力の流れへさざ波を立てるように作用した。
大鬼熊は一歩、二歩と後退した。
「ぐっ……!」
姫紬は距離を取らない。畳みかけるように足を運び、相手の重心を崩し続ける。洞窟の水音が、まるで彼女の拍子に合わせるように鳴った。
鬼火が再び姫紬を狙う。
しかし今度は、炎の軌道が乱れていた。霧と水流が絡み合い、鬼火は真っ直ぐ進めない。姫紬はそのわずかな歪みを見逃さないまま、岩壁を蹴って高く跳ぶ。
洞窟の天井近く。
垂れ下がった岩の影と影の間を抜け、姫紬は大鬼熊の頭上へ回り込んだ。
「上だとっ……」
大鬼熊が振り返るが、遅い。
姫紬は着地と同時に、洞窟天井から垂れた雫の筋へ手を伸ばした。落ちかけていた水を引き寄せるように流れを変え、真下にいた大鬼熊の目元へ散らす。
「うおっ……!」
赤い目が一瞬だけ閉じる。
それだけで十分だった。
姫紬は一気に距離を詰め、両手を合わせて水気を集める。洞窟の霧が吸い寄せられるように渦を巻き、細い流れが一本の帯のようにまとまった。
川姫の力は、派手に押し潰すものではない。
流れを編み、絡め、相手の勢いを変えるものだ。
姫紬の前で、その帯が大鬼熊の両腕へ絡みつくように伸びる。
「なにを……!」
「捕まえますわ」
大鬼熊の腕が炎を帯びて振りほどこうとするが、姫紬はすでに動いていた。水流はただ濡らすだけではない。洞窟の床に流れ落ちた水が、今度は大鬼熊の足元へ回る。湿った岩と急な踏み込みが重なり、巨体はほんの一瞬、踏ん張りを失った。
その刹那。
姫紬は大鬼熊の正面へ回り込むと、声を張った。
「あなたは、ただ力にすがって暴れているだけですわ!」
「うるさい……!」
「狭霧村を脅かし、人を襲い、荷を奪った。その先に何があるのです?」
大鬼熊の目が濁る。
怒りだけではない。そこには、何かを見失った獣の焦りがあった。
「……喰わねば……奪わねば……俺は……」
「違いますわ」
姫紬は静かに首を振る。
「あなたは、何かを失ったのでしょう。だから力で埋めようとした。けれど、奪っても心は満たされません」
「黙れッ!!」
大鬼熊が咆哮した瞬間、洞窟の奥で何かが崩れた。
低い音。水脈が割れるような鈍い響き。
姫紬が振り向くと、洞窟のさらに奥にあった岩棚の陰から、黒く焦げた荷車の残骸のようなものが転がり出てきた。折れた輪、噛み砕かれた木枠、馬の鞍のような革の切れ端。商人たちの荷だ。大鬼熊がここへ運び込んでいたに違いない。
それを見た姫紬の目が細くなる。
「やはり……」
大鬼熊は一瞬だけ動きを止めた。
その隙に、姫紬は荷の残骸の方へ一歩進む。荷の下敷きになっていた小さな布袋が、かすかに揺れた。中身は無事ではないかもしれない。それでも、ここに盗んだものを隠していた事実は揺るがない。
「ここへ隠していたのですね。襲ったものを、全部」
大鬼熊の喉から、苦しげな音が漏れた。
「うるさい……うるさい……!」
だがその声は、先ほどまでの威圧ではなくなっていた。焦り。苛立ち。何かを守ろうとするような、矛盾した揺れがあった。
姫紬はそこでようやく気づく。
この大鬼熊は、単なる暴れ者ではないのかもしれない。
しかしだからといって、許されることではない。
姫紬は深く息を吸い、洞窟の水気へ意識を沈めた。霧は薄れつつある。今なら、最後の一手を打てる。
彼女は足元の水を一気に集めた。
細い流れが蛇のように伸び、大鬼熊の足元から背後へ回り込む。さらに、洞窟の壁を伝う雫がいくつも落ち、一本の筋となってその流れへ合流した。
「終わりですわ、大鬼熊」
大鬼熊が腕を振り上げる。
だが遅い。
姫紬は流れを変え、その水筋を足場にして素早く動いた。相手の懐へ入り込み、渾身の力で掌を押し当てる。水気を含んだ力が大鬼熊の妖力の流れをずらし、体勢を完全に崩した。
巨体が洞窟の床へ倒れ込む。
轟音とともに、鬼火が一斉に消えた。
青白い光は霧の中で小さく揺れ、ひとつ、またひとつと薄れていく。
洞窟は静かになった。
姫紬は肩で息をしながら、大鬼熊を見下ろす。床に伏した巨体はまだ動くが、もう先ほどのような勢いはない。
大鬼熊は悔しそうに唸り、やがて力尽きたように目を閉じた。
姫紬はその様子を見つめたまま、小さく呟く。
「……これで、終わりましたわね」
洞窟の奥から差し込むわずかな光が、霧の消えた岩壁を淡く照らしていた。山の静けさが、再び戻り始めている。姫紬は荷の残骸の方へ歩み寄り、そこに残された証を確かめるように見下ろした。
村を襲った異変は、確かにここで終わった。
そうして、妖脈山の深い闇に潜んでいた騒ぎは、静かに幕を下ろした。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




