第十話 年を経れば鯉も獣も変化する 其の拾
妖脈山の朝は、洞窟の闇が嘘のように澄み渡っていた。
姫紬は洞窟の前に立ち、深く息を吸う。山の空気は少し冷たいが、夜の名残はもうない。木々の間を抜ける風が枝葉を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。昨夜まであれほど濃く渦巻いていた不穏な気配は、今はどこにもなかった。
その横には、うなだれた大鬼熊の姿がある。
巨体は相変わらず大きい。だが、先ほどまでの威圧は消え失せ、肩を落としたその背中には、どこか疲れたような、悔いたような色がにじんでいた。鬼火の気配も消え、毛並みの隙間に残る黒い煤だけが、暴れた痕跡を静かに語っている。
「行きますわよ」
姫紬は洞窟の奥から回収した荷を抱え直した。荷車の残骸はそのまま運べないが、無事な袋や布包み、薬草の束、商人の木箱、馬具の一部は慎重にまとめてある。盗まれたもののすべてではないが、見つかった分だけでも持ち帰れば、商人たちの不安はずいぶん和らぐだろう。
大鬼熊はちらりと荷を見た。
「……それを、村へ返すのか」
「当然ですわ。元の持ち主の手に戻さなければ」
「……そうか」
短く返した声は低く、重かった。だがそこには、もはや敵意はない。姫紬は一瞬だけ大鬼熊を見上げ、それから小さくうなずく。
「あなたも一緒に来てくださいまし」
「……俺が?」
「ええ。戻るべき場所があるのなら、逃げたままより、きちんと向き合ったほうがよいですわ」
大鬼熊はすぐに答えなかった。太い腕を胸の前で組み、しばらく山の向こうを見つめる。森の奥には光が差し込み、オーブがいくつも漂っていた。昨夜まで獰猛に揺れていたそれらも、今は穏やかな色をしている。
「……分かった」
ようやく大鬼熊はそう言った。
姫紬は荷の一部を肩に担ぎ、残りは大鬼熊に手伝わせることにした。巨体の獣が慎重に木箱を抱える様子は、先ほどまでの暴れぶりが嘘のようで、どこか不器用であった。箱を壊さぬよう気をつけながら歩くその背中に、姫紬は少しだけ安心する。
山道を下り始めると、妖脈山の匂いが少しずつ変わっていった。
深い土の香りから、草の匂いへ。やがて川風が混じり、狭霧村の気配が近づいてくる。姫紬は何度も振り返りながら、荷が崩れないように気を配った。すると、大鬼熊はそのたびに重い手を添えて支える。
「器用ですのね」
「……慣れてはいない」
「ふふっ、では、これも勉強ですわ」
大鬼熊はわずかに鼻を鳴らした。笑ったのか、照れたのかは分からない。だが少なくとも、最初に洞窟で見せていた荒々しさはそこにはなかった。
やがて村の入り口が見えてきた。
狭霧村の石畳の道には、朝の光がまっすぐ落ちている。井戸の前では人間とあやかしが並んで水を汲み、通りでは朝市の準備が始まっていた。子供たちは昨日と変わらず駆け回り、川沿いの家々からは炊き立ての匂いが漂ってくる。
姫紬が姿を見せると、最初に気づいたのは村の子供だった。
「あっ、姫紬ちゃん!」
その声に、何人もの視線が一斉に集まる。そして、姫紬が抱えている荷、さらにその後ろに立つ大鬼熊の姿を見て、広場の空気がぴたりと止まった。
「商人の荷だ……」
「戻ってきたのか」
「そ、それにあのでっかい獣は……」
ざわめきが広がる。恐れ、疑い、驚き。姫紬は荷をそっと下ろし、両手を前で重ねた。
「みなさま、お騒がせいたしましたわ。異変の原因は見つかりました。盗まれた荷も、ここにあるだけ持ち帰りました」
村人たちの視線が、大鬼熊へ向く。
大鬼熊は一歩前に出た。まるで岩が歩くような重さだったが、その表情は昨夜とは違う。目を伏せ、ゆっくりと頭を下げる。
「……俺がやった」
低い声が広場に落ちた。
誰もすぐには返事をしない。朝の市場の音だけが、少し遠くで続いている。大鬼熊はその沈黙を受け止めるように、もう一度言った。
「荷を奪った。馬も追い払った。商人を脅かした。村を荒らすつもりもあった。だが……俺は、腹を満たすためだけに暴れていたわけじゃない」
村人たちの表情がわずかに揺れた。
姫紬は静かに目を向ける。大鬼熊は胸の前で拳を握ったまま、言葉を選ぶように続けた。
「年を重ねるほど、山の外は遠くなる。昔は山でも十分だった。だが、ひとりでは何も守れなくなっていく。そう思った時、力だけが残った。だから奪えば何とかなると思った。だが、それは違った」
大鬼熊は村の子供たち、商人たち、そして遠巻きに立つ人間たちを見た。
「こいつ……姫紬に止められて、ようやく分かった。奪ったものでは、誰も守れない。山でも、村でも、ひとりで暴れるだけでは何も変わらない」
その言葉には、嘘がなかった。
最初に声を上げたのは、昨日話をしていた商人の男だった。
「……なら、まずは荷を返してもらおうか」
大鬼熊が顔を上げる。
「それからだ。おまえが何を思ってたのか、ちゃんと聞こう」
「えっ……」
少し意外そうな声を漏らしたのは別の村人だった。だが商人は腕を組み、苦笑する。
「反省してるなら、話を聞かねえ理由はねえだろ。何より、姫紬が連れてきたんだ。いきなり叩き出すのも違う」
そのひと言で、場の空気が少しだけ変わった。
村の年寄りが目を細め、子供は大鬼熊の顔を見上げて首を傾げる。ひとりの少女が小さく手を挙げた。
「こわいけど……姫紬ちゃんが大丈夫って言うなら、ちょっとだけならいいよ」
大鬼熊はその言葉に、驚いたように目を見開いた。
姫紬はそっと笑う。
「ほら、ですわ」
大鬼熊はしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「……すまなかった」
それは広場のざわめきの中でも、はっきり届く声だった。謝罪を受けた村人たちは、しばらく互いの顔を見合わせ、それから少しずつ頷きはじめる。商人は荷の確認を始め、村の者たちは足りない分を数え、無事な品を分けていく。大鬼熊も黙ってそれを手伝った。大きな手が木箱を慎重に持ち上げるたび、子供たちが少し離れて見守り、やがてひとりが近づいてきて言った。
「これ、持ってくれるの? ありがとう」
大鬼熊は固まった。
そして、少し遅れて、ぎこちなくうなずく。
「……ああ」
その一言に、子供が笑う。姫紬はその光景を見て、胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。恐れられていたものが、すぐに受け入れられるわけではない。それでも、真っすぐ向き合えば、ほんの少しずつでも関係は変わっていくのだ。
朝の陽が高く昇るころには、広場の空気もすっかり落ち着いていた。
荷は返され、事情は伝わり、大鬼熊には村の外れで静かに過ごすよう案内がなされた。完全に許されたわけではない。だが、拒絶だけで終わることもなかった。村のあやかしたちが見守る中で、まずは様子を見ることになったのだ。
姫紬は川辺へ戻る途中、立ち止まって振り返った。
広場では、子供たちが大鬼熊の周りで集まっては離れ、離れてはまた近づいている。大鬼熊は困ったような顔をしながらも、逃げずにそこにいた。
「……よかったですわね」
姫紬の呟きは、川の音に溶けた。
異変は終わった。けれど、終わりだけではない。奪われたものが戻り、傷ついたものが少しずつ癒えていく。そのはじまりを見届けられたことが、彼女には何より嬉しかった。
川面がきらめく。
そこに映る空は、もう曇っていない。
姫紬は着物の袖を揺らし、いつものように水辺へ微笑みかけた。
「また、何か困ったことがあれば、私が参りますわ」
それは誰に向けた言葉でもあり、自分自身への誓いでもあった。
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