第十一話 桜吹雪の降る時期かな 其の壱
数日後、狭霧村にはいつもの穏やかな朝が戻っていた。
小川の水は澄み、石畳の道には朝露がきらきらと光っている。家々の煙突からは朝餉の湯気が立ちのぼり、商人通りでは早くも干し魚や野菜、布地や薬草を並べる声が行き交っていた。人間もあやかしも、互いの顔を見れば軽く会釈を交わす。昨夜は冷えた、今日は川風が気持ちいい、そんな何気ない言葉が、村の空気をやわらかく整えていく。
姫紬は小川のほとりで、子供たちに手を振っていた。
「姫紬ちゃん、見て見て、これ拾ったの!」
「まあ、きれいな石ですわね。川底にあったものかしら?」
「うん! ばあちゃんに見せるんだ!」
「ええ、とても喜ばれますわ。落とさないようにお気をつけて」
子供たちは元気よく駆けていき、その背中を姫紬は目を細めて見送った。川のきらめき、鳥の声、遠くで鳴く犬の声。何ひとつ変わらないようでいて、だからこそ守られているものの大きさが分かる。あの大鬼熊の騒ぎも、今はもう遠い出来事のようだった。
川沿いの道では、商人たちが荷を整え、荷車の車輪を点検している。以前より人の往来が多く、商いの声も明るい。村の外れでは大鬼熊が、少し離れた場所から木材運びを手伝っていた。最初は皆、腰が引けていたが、今では「そこ、もう少し右だ」「気をつけろ、割れるぞ」と声を掛けられている。大鬼熊は不器用なまま、それでも真面目に頷いて木箱を運んでいた。
「姫紬ちゃん!」
呼ばれて振り向くと、商人の男が手を挙げていた。
「この前の件、助かったよ。荷もだいぶ戻ったし、村も落ち着いた。ほんと、ありがとな」
「いえ、私は当然のことをしたまでですわ」
「当然って言えるのがすごいんだよ。うちの連中も、あの熊……いや、大鬼熊か。あいつのこと、少しずつ見方が変わってきてる」
姫紬はそっと微笑んだ。
「それはよかったですわ。皆さまが受け入れてくださったのなら、私も安心いたしました」
「まだ完全に信用ってわけじゃないけどな。けど、反省してるなら、見守る価値はある。おまえが連れてきたんだ、間違いじゃなかったってことだろ」
商人はそう言うと、荷の確認に戻っていった。
姫紬はその背中を見送り、川面へ視線を落とす。水は静かに流れている。争いが終わっても、日々は続いていく。その積み重ねこそが村を作るのだと、今では少し分かる気がした。
「姫紬さーん!」
今度は別の方から声がした。見れば、村の若い女性が洗濯籠を抱えてこちらへ来ている。
「この前のこと、うちの人も話してました。ありがとうって。それと、大鬼熊さん、最初は怖かったけど、今は荷物運びで助かってるって」
「まあ……それは何よりですわ」
「ほんと、姫紬さんってすごいよね。あやかしなのに人のことも考えてくれて。うちの子も、姫紬さんみたいになりたいって言ってたの」
姫紬は少し照れたように袖で口元を隠した。
「そ、そんな……私はただ、困っている方を放っておけないだけですわ」
「それがすごいんだって」
女性は笑いながら去っていく。姫紬は少し困ったように肩をすくめ、それからふわりと小さく息を吐いた。
そのときだった。
風が変わった。
春の終わりのような、甘い匂いがした。姫紬が顔を上げると、空の高いところから、ひらり、と一枚の花びらが舞い落ちてきた。
「……桜?」
この時期に、まだ早いはずだ。
姫紬は不思議に思って上を見上げる。だが、見えるのは青い空と、屋根の連なり、そして枝葉の緑だけだった。桜の木など、近くにはないはずなのに。
しかし、次の瞬間だった。
ひら、ひら、ひら。
花びらが数枚、さらに風に乗って舞い降りてくる。
それは川辺だけではない。商人通りにも、広場にも、家々の屋根の上にも降り始めていた。白に近い淡紅色の花弁が、まるで見えない桜の木からこぼれ落ちるように、村のあちこちへ広がっていく。
「なんだ、花びら?」
「おや、もう桜の季節だったか?」
「いや、でもまだ早くないか?」
村人たちが次々に空を見上げる。
姫紬も驚いたまま川沿いを歩く。花びらは風もないのに静かに落ち、石畳の上をふわりと滑っては消えていく。最初は一、二枚だったものが、やがて細かな吹雪のようになり、村全体を淡い色で染めていった。
そして、それだけでは終わらなかった。
広場の隅にある木の幹から、ぽん、と小さな桜の花が咲いた。
「え……」
誰かが息を呑む。
次の瞬間、別の木の枝先にも、さらに向こうの塀の陰にも、花が咲き始めた。だがそこに枝はない。幹もない。何もないはずの空中に、まるで見えない樹木があるかのように、桜の花だけが次々と開いていく。
「なにこれ……?」
「枝がないのに咲いてるぞ!」
「おい、あっちも見ろ!」
狭霧村のあちこちで、空中に浮かぶような桜の花が増えていく。花びらはますます舞い続け、川面にも屋根にも人の肩にも降り積もる。風景は美しいはずなのに、どこかひどく不自然で、胸の奥がざわりと騒いだ。
姫紬は立ち止まり、そっと一枚の花びらを手のひらで受け止めた。
柔らかく、淡く、ほんのり冷たい。
けれど、そこから感じる気配は、春の穏やかさだけではなかった。
「……これは」
姫紬が小さく呟く。
花びらはなおも降り続け、村の空をゆっくりと埋めていく。
狭霧村に、見えない桜の影が静かに広がり始めていた。
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