第八話 年を経れば鯉も獣も変化する 其の捌
妖脈山の洞窟に、轟音が響き渡った。
鬼火の光が激しく揺らぎ、岩壁へ青白い影を何重にも映し出す。大鬼熊は低く唸りながら巨大な腕を振るい、その一撃は空気すら震わせるほどの威力を持っていた。
姫紬はその攻撃を正面から受けようとはしなかった。
川の流れは岩へぶつかって砕けるのではない。
避け、巡り、やがて岩すら削る。
彼女はそのように戦う。
大鬼熊の腕が振り下ろされる直前、姫紬は身体を低く沈め、紙一重で攻撃をかわした。
轟ッ!!
岩盤が砕け、洞窟全体が大きく揺れる。
大小さまざまな岩が崩れ落ち、砂煙が立ち込めた。
「まだですわ!」
姫紬は砕けた岩を足場に飛び上がる。
その瞬間、周囲に漂っていた鬼火が一斉に襲いかかってきた。
青白い炎は蛇のようにうねりながら彼女を包囲する。
「逃がさん……!」
大鬼熊が腕を突き出す。
鬼火は命令を受けたかのように速度を増し、姫紬へ迫った。
「くっ……!」
姫紬は岩陰へ身を滑り込ませる。
鬼火は岩へ激突し、爆ぜるように散った。
熱風が吹き荒れ、岩肌は黒く焦げていく。
普通の炎ではない。
妖力を宿した鬼火だ。
まともに受ければ無事では済まない。
「なるほど……鬼火を操る妖怪なのですね。」
姫紬は静かに呟く。
大鬼熊は鼻を鳴らした。
「今さら気付いたか。」
「ええ、ですが見えてきましたわ。」
「何がだ。」
「あなたの戦い方です。」
大鬼熊は力が強い。
鬼火も自在に操る。
しかし、それらは全て真正面から押し潰す戦法だった。
姫紬は洞窟全体を見回す。
湿った岩。
滴る地下水。
細く流れる水脈。
そして、自分の周囲を漂う湿った空気。
「川姫は水辺だけではありませんのよ。」
姫紬は静かに両手を前へ出した。
ぽたり。
天井から雫が落ちる。
その一滴が地面へ落ちると、周囲の小さな水溜まりがわずかに震えた。
大鬼熊が眉をひそめる。
「何をする気だ。」
「少しだけ、お借りいたしますわ。」
姫紬がそっと手を動かす。
すると洞窟中に点在していた小さな水溜まりが細い流れとなって繋がっていく。
まるで一本の川が生まれるようだった。
「水が……。」
大鬼熊が目を見開く。
流れは足元を巡り、岩の窪みを満たしながら姫紬の周囲へ集まっていく。
ほんのわずかな水。
だが川姫にとっては十分だった。
「いきますわ!」
姫紬が駆け出す。
鬼火が迎え撃つように飛来する。
しかし水の流れがその軌道をわずかに乱し、鬼火同士がぶつかり合う。
青白い炎が弾けた。
「なっ!」
その隙を逃さず姫紬は大鬼熊の懐へ飛び込む。
大鬼熊は巨大な腕を横薙ぎに振るった。
姫紬は身体を反らして避ける。
風圧だけで髪が大きく揺れた。
そのまま地面を蹴って後方へ着地する。
「速い……!」
大鬼熊が低く唸る。
見た目は幼い少女。
しかし動きは山を流れる渓流そのものだった。
止まらず。
迷わず。
絶えず形を変える。
大鬼熊は苛立ったように咆哮する。
「ならば全部焼き払う!」
その叫びと同時に洞窟中へ無数の鬼火が現れた。
一つ。
二つ。
三つ。
十。
二十。
三十。
数え切れないほどの鬼火が洞窟を埋め尽くす。
青白い炎が空中を漂い、まるで夜空の星のようだった。
しかし、その全てが姫紬へ牙を向いている。
「こんな数……!」
姫紬は思わず息を呑む。
逃げ場がない。
前も後ろも左右も鬼火。
洞窟全体が炎の檻になっていた。
大鬼熊は勝ち誇ったように笑う。
「終わりだ。」
鬼火が一斉に襲いかかった。
姫紬は目を閉じることなく前を見据える。
恐怖はある。
けれど、それ以上に守りたいものがあった。
狭霧村。
人間たち。
あやかしたち。
笑顔で手を振ってくれた子供。
商人通りで出会った人々。
白坊主や異獣。
みんなが安心して暮らせる妖幻鏡。
「私は……負けませんわ!」
その言葉とともに姫紬は地面へ手をついた。
洞窟中を巡っていた水が一斉に流れ始める。
細い流れは一つとなり、大鬼熊と姫紬の間を駆け抜けた。
鬼火がその水流へ飛び込む。
じゅうっ、と鈍い音が洞窟へ響く。
水蒸気が立ち上り、白い霧となって視界を覆った。
鬼火は完全には消えない。
それでも勢いは確かに弱まっていた。
大鬼熊は霧の向こうで目を細める。
「まだ立つか……。」
姫紬は静かに息を整える。
着物の袖はところどころ焦げ、額には汗が浮かんでいた。
それでも瞳だけは決して揺らがない。
「ええ。」
霧の中で姫紬は真っ直ぐ大鬼熊を見つめる。
「この異変は、ここで終わらせますわ。」
洞窟に漂う霧の向こうで、大鬼熊はゆっくりと牙を剥いた。
決着の時は、すぐそこまで迫っていた。
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次回もお楽しみに




