第七話 年を経れば鯉も獣も変化する 其の漆
洞窟の空気は、熱と闇で満ちていた。
姫紬は息を整えながら、じり、と半歩だけ横へ移る。視界の端では鬼火が揺れ、正面には巨体を誇る大鬼熊が牙をむいている。岩壁は先ほどの一撃で砕け、細かな破片が足元に散っていた。ひとつ足を滑らせれば、その瞬間に鬼火へ呑まれるだろう。
だが姫紬の瞳は、逃げ場のない状況の中でも静かだった。
「……大鬼熊。あなた、何を求めてここに?」
問いかけに、大鬼熊は鼻を鳴らした。
「求めている? 力だ。生きるための力だ。年を経れば、獣も妖怪も変わる。弱きままでは喰われるだけだ。ならば先に喰う側になるまで」
「だから商人さんたちを襲ったのですか」
「商人だけではない。荷も馬も、森を通るものすべてだ。奪えるものは奪う。力ある者が上に立つ、それだけのことだ」
低い唸り声が洞窟に響き、鬼火がそれに合わせるように膨らんだ。青白い炎は、まるで大鬼熊の怒りを映すように脈打っている。
姫紬は袖の中で指を強く握った。
言葉だけなら、いくらでも返せる。だが今必要なのは説得ではない。異変を止めることだ。人を襲い、村を脅かし、山の流れを濁らせているこの獣を、ここで食い止めなければならない。
姫紬は一度だけ目を閉じた。
小川の水面。村の子供の笑顔。商人通りのざわめき。狭霧村で交わしたささやかな言葉の数々が、胸の奥で静かに灯る。
「私は……人間さんたちを守るために来たのですわ」
その一言に、大鬼熊は嘲るように笑った。
「守る? 妖怪が人間を? 笑わせるな」
「笑ってくださって結構ですわ。ですが、ここで終わりにします」
姫紬は足元の水たまりへ目を向けた。洞窟の壁から染み出した地下水が、石の窪みに薄く溜まっている。先ほど鬼火の軌道を狂わせたあの水。小さくても、確かに流れを持つ水だ。
川姫である姫紬にとって、水はただの道具ではない。
流れは読むもの。動きはつなぐもの。止まりそうな水でも、わずかな傾きがあれば、そこから道を作れる。
鬼火が再び迫る。
姫紬はそれを見据え、膝を落とした。
「――寄せて」
低く呟くと同時に、足元の水が細く跳ねた。ほんの少しのしずくが、地面の傾斜に従って流れ、鬼火の火勢を受ける岩粉へ触れる。湿気を含んだ岩粉が一瞬だけ膨らみ、炎の進みを鈍らせた。
その隙に姫紬は駆けた。
横へ。斜めへ。鬼火の隙間へ。裾を翻しながら洞窟の壁際を走る姿は、まるで川の流れが岩の間を抜けるようだった。
「ちょこまかと……!」
大鬼熊が腕を振るう。
太い前脚が振り下ろされ、姫紬の背後の岩壁が大きく抉れた。だが姫紬は振り向かない。砕けた岩の陰へ身を滑らせ、そのまま一気に大鬼熊の死角へ移動する。
大鬼熊は巨体ゆえに動きが大きい。ならば、近づけば近づくほど対応は遅れる。
姫紬はその一点に賭けた。
「っ……!」
鬼火が一斉に追う。青白い火が姫紬の肩をかすめ、着物の袖が熱を帯びる。焦げる匂いが鼻先を刺したが、姫紬は止まらない。右手を伸ばし、岩壁の湿った部分に触れると、指先を通して水気を感じた。
わずかでいい。
ほんの少しだけ、流れを作れれば。
姫紬はその場で体をひねり、袖を翻した。飛び散った水滴が鬼火へ散る。火は小さく弾け、その炎の芯が揺らぐ。
大鬼熊の目が見開かれた。
「何を……!」
「これで、少しは静かになりますわね」
姫紬は後退しつつ、洞窟内の水気を見回した。ここは乾いた岩穴ではない。天井や壁に染みた水分、足元に溜まったしずく、湿った苔、全てが少しずつ繋がっている。大きな流れではなくても、川姫の感覚なら操れないことはない。
姫紬は両手を胸の前で合わせた。
次の瞬間、洞窟の地面を伝うように水が走る。細い筋のような水路が、岩の窪みを縫って広がった。鬼火はそれに惑わされるように揺れ、散り、まとまりを失っていく。
「ばかな……鬼火が……!」
大鬼熊の声が荒くなる。
姫紬はその隙を逃さず、踏み込んだ。距離を詰める。鬼火の残り火が周囲で裂けるように燃え、熱が頬をかすめたが、それでも前へ進む。
「あなたの力は強いですわ。けれど、強いだけでは勝てません」
「黙れッ!」
大鬼熊が両腕を広げ、最後の力を込めるように咆哮した。洞窟全体が震え、天井から砂が落ちる。姫紬は一瞬だけ足を止めたが、すぐに視線を上げる。
その咆哮の隙間で、彼女は見た。
大鬼熊の足元。ひび割れた岩の間から、冷たい地下水が少しずつ染み出しているのを。
姫紬は小さく息をのんだ。
「……そこですわ」
彼女は地を蹴り、低く滑るように大鬼熊の足元へ潜り込む。巨体が振り下ろす腕を避け、そのまま両手を地面へつけた。
流れろ――。
強く願った。
すると、水は応えた。
ひび割れた岩の隙間からしみ出していた水が一気に広がり、鬼火の足元へ回り込む。火は炎であっても、そこに宿る気は湿気と冷気で揺らぐ。大鬼熊の周囲で鬼火が次々と輪郭を失い、青白い光が不安定に揺れ始めた。
「何だ、この力は……!」
「川をあなどらないでくださいまし」
姫紬は顔を上げる。幼く見えるその面差しには、はっきりとした覚悟が宿っていた。
「流れは、止めるより導くほうが早いのですわ」
大鬼熊が怯んだ、その一瞬。
姫紬は洞窟の床を蹴り、最後の距離を詰めた。水気を含んだ裾が宙を翻り、鬼火の残光が二人の間で散る。
勝負は、次の一手で決まる。
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