第六話 年を経れば鯉も獣も変化する 其の陸
妖脈山の洞窟の前には、冷たい風が流れていた。
木々のざわめきは遠のき、代わりに岩肌をなでるような低い音だけが響いている。姫紬は洞窟の入口に立ち、奥へ続く暗闇を見つめていた。
その静寂の中、かすかな違和感が芽生える。
――何かがいる。
それは視線ではない。音でもない。ただ“気配”だけが、確かにそこにあった。
姫紬は一歩、洞窟へ足を踏み入れた。
湿った岩肌が靴底に触れ、ひやりとした冷気が全身を包む。奥へ進むにつれ、光は完全に消え、代わりに淡いオーブのような光が壁際に漂い始めた。しかしそれもどこか不自然で、先ほど森で見た穏やかな輝きとは違う、歪んだ揺らぎを持っていた。
姫紬は小さく息を呑む。
「……誰ですの! そこにいるのは」
声は洞窟の中で反響し、何重にも重なって返ってくる。
返答はすぐにはない。
だが、数秒の沈黙のあと、奥の闇がゆっくりと動いた。
岩のような重い足音。
ずし、ずし、と地面が震える。
そして、闇の中から現れたのは、巨大な影だった。
毛皮は黒く、ところどころ焦げたように灰色へ変色している。赤黒い目が姫紬を睨みつけ、口元からは獣のような牙が覗いていた。
その存在は、山の獣とも妖怪とも違う“圧”を持っていた。
「……俺か?」
低く、地を這うような声。
「俺は……大鬼熊……」
名乗った瞬間、洞窟の空気がさらに重くなる。
大鬼熊は姫紬をじっと見下ろした。
「貴様、妖怪か? ちょうどいい、共に人間の里を襲わないか?」
姫紬は即座に首を振った。
「……断りますわ」
「……なんだと?」
空気が一瞬で張り詰めた。
洞窟の奥で漂っていた光が揺れ、壁に不気味な影を落とす。大鬼熊の赤い目が細くなり、低い唸り声が響いた。
「妖怪のくせに、人間の味方をするだと? ふざけるな……貴様も……喰ろうてくれる!!」
その言葉と同時に、大鬼熊の周囲に異変が起きた。
闇の中から、無数の鬼火が浮かび上がる。
青白く、しかしどこか濁った光。ひとつ、またひとつと増えていき、洞窟の中を取り囲むように漂い始めた。
鬼火は意思を持つように揺れ、姫紬へと視線を向けるように集まっていく。
地面の岩が熱を持ち始めたように感じられ、空気が一気に歪んだ。
姫紬は一歩後ろへ下がり、袖を強く握る。
「……ッ……これは、大仕事になりそうですわ」
洞窟の奥から吹き出すように、鬼火が一斉に動き出した。
小さな火が蛇のようにうねり、姫紬へ向かって一直線に迫る。壁をなぞりながら、空間そのものを焼くように広がっていく。
姫紬は素早く身をひねり、最初の鬼火をかわす。
しかし、すぐに二つ目、三つ目が追うように襲いかかる。
「っ……!」
着物の裾がかすかに熱を帯びる。紙一重でかわしながら、姫紬は洞窟の壁へと追い込まれていく。
大鬼熊は動かない。
ただ、姫紬の動きを楽しむように見下ろしている。
「逃げるか? 川の妖怪よ」
「逃げませんわ……!」
姫紬は岩を蹴り、横へ跳ぶ。鬼火がすぐ後ろを焼き払い、岩壁が黒く焦げる。熱気が肌を刺し、呼吸が重くなる。
だが彼女は目を逸らさなかった。
洞窟の構造を瞬時に見ている。
天井の高さ。
鬼火の流れ。
大鬼熊の立ち位置。
すべてが“力で押し潰すための布陣”だと理解する。
正面からは勝てない。
だが、ただの力比べではない戦い方なら――。
姫紬は小さく息を吐いた。
川姫としての感覚が研ぎ澄まされていく。水の流れのように、敵の動きの隙間を読む。
鬼火が再び一斉に迫る。
その瞬間、姫紬は足元の小さな水たまりに目を向けた。
洞窟の奥、わずかに染み出した地下水。
彼女はその一歩を踏み込み、地面を蹴った。
水が跳ね、光を反射する。
その一瞬の反射が、鬼火の軌道をわずかに狂わせた。
「今ですわ……!」
姫紬は鬼火の隙間をすり抜け、洞窟の側面へと移動する。
だが大鬼熊は初めて動いた。
巨大な腕が振り下ろされ、岩壁が砕ける。破片が雨のように降り注ぎ、逃げ場を塞いでいく。
「小賢しい……!」
衝撃で洞窟全体が揺れた。
姫紬は転がるようにそれを避け、呼吸を整える。
鬼火はまだ周囲を漂い続けている。
逃げ場は狭まり、時間は刻一刻と削られていく。
大鬼熊はゆっくりと一歩近づいた。
その足音は、もはや山そのものが動いているようだった。
赤黒い瞳が姫紬を捉える。
その奥には、ただの暴力ではない、歪んだ“欲”が見えた。
姫紬は唇を強く結ぶ。
川の流れのように、静かに、しかし確実に。
次の一手を探すために、視線を巡らせた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




