第五話 年を経れば鯉も獣も変化する 其の伍
「……あっち、でしょうか……」
姫紬は森の奥を見つめながら、静かに足を進めた。
妖脈山の木々は高く、枝葉は幾重にも重なって空を薄く隠している。先ほどまで穏やかだった風はいつの間にか細くなり、木の根を踏むたびに、乾いた落ち葉がかさりと鳴った。さっき感じた一瞬の異変以来、姫紬は周囲をより注意深く見ながら歩いている。
やがて、獣道はふいに開けた。
「……道、ですね……あら? あの~?」
そこには、山を横断するように続く細い道があった。人が踏み固めたものではなく、獣やあやかしが行き来してできたような、曖昧で自然な一本道。道の脇には背の低い草が揺れ、ところどころに木の実の殻や、何かを引きずったような痕跡が残っていた。
姫紬が足を止めた、その先。道の端から、もそもそと大きな影が現れる。
赤く光る大きな目。毛むくじゃらの体。見上げるほどの背丈。猿のようでもあり、猿ではない。不思議な獣の妖怪が、木の陰から顔を出していた。
「ん?」
姫紬は驚きつつも、すぐに深く頭を下げた。
「私は川姫の姫紬ですわ。あなたに聞きたいことがありまして」
相手は肩を揺らして笑ったようだった。毛並みの奥から、どこか人懐っこい気配がにじむ。
「オイラは異獣って妖怪だよ。よろしくね」
「異獣! 本で読んだことがありますわ! 食べ物をあげると荷物をかわりに持ってくれる、赤い大きな目をした毛むくじゃらの妖怪だと」
姫紬が目を輝かせると、異獣は嬉しそうに胸を叩いた。
「お、よく知ってるね。そうだよ、やっぱり恩は返さないとね~」
その言い方はどこか素朴で、警戒心よりも親しみを覚えさせた。姫紬は少しだけ緊張をほどき、手を胸の前で重ねる。
「それで聞きたいことって?」
「そうでしたわ、ここいらで見かけない妖怪はみませんでしたか?」
異獣は赤い目を細め、しばらく首を傾げた。
「見かけない妖怪? ……う~ん……」
森の音が一瞬だけ遠のいた気がした。鳥の羽ばたきも止み、木々のざわめきも薄くなる。異獣は考え込むように鼻先を左右へ向け、しばらく記憶をたどっていた。
「……あ、そういえば、向こうの森の中にある洞窟になにか住み着いたみたい」
「洞窟……ですか」
「うん。最近さ、あのへんを通るたびに、変なにおいがするんだよね。山の土のにおいでも、獣のにおいでもない。もっと……むっとするような、嫌な感じ」
姫紬の表情が引き締まった。
商人通りで見た焦げたような粒。夜に現れる大きな影。荷物だけが消え、馬まで消えていたという噂。そして山の奥に住み着いたという気配。
点と点が、少しずつ線になりつつあった。
「そうなのですね、行ってみますわ」
「気を付けてね、山はなにが起きても不思議じゃないから」
異獣の声には、軽さの中に確かな忠告が混じっていた。姫紬は小さくうなずく。
「はい! ……必ず、突き止めますわ!」
彼女は道の向こうへ視線を投げた。木々の間に、さらに濃い緑が続いている。その先に洞窟があるのだろう。もし本当に異変の原因がそこに潜んでいるなら、一度は確認しなければならない。
姫紬は異獣にもう一度礼をして、森の奥へと歩き出した。
獣道を外れて進むにつれ、足元はさらに不安定になる。地面は斜めに傾き、木の根が壁のように張り出している。ときおり、誰かに見られているような気配がしたが、振り返っても何もない。ただ、オーブだけが静かに漂い、姫紬の肩をかすめては奥へ流れていく。
しばらくすると、木々の切れ目から、ひんやりとした空気が流れてきた。
姫紬は立ち止まる。
岩肌が露出した斜面の先、黒く口を開けた空間があった。洞窟だ。入口は人ひとりがやっと通れるほどの大きさで、周囲の岩は湿っており、苔が薄く張りついている。近づくにつれ、山の土とは違う、重たい気配が鼻先をかすめた。
「……ここですわね」
洞窟の奥は暗い。光を飲み込むような闇が、まっすぐ内部へ伸びていた。姫紬は袖を軽く握り、気配を探る。水音はしない。鳥の声もない。ただ、何かが奥でゆっくりと蠢いているような、そんな不自然な沈黙だけがあった。
彼女は一歩、また一歩と洞窟へ近づく。
岩壁に触れた指先が、妙にぬるりとした感触を覚えた。水ではない。粘つくような、乾ききらない何か。姫紬は眉をひそめる。
「……これは……」
そのときだった。
洞窟のさらに奥。暗闇の向こうで、何かが動いた。
低く、押し殺したような気配。息を吐く音のようなものが、ずるりと闇の中を滑る。
姫紬は息をのんだ。
見えたのは一瞬だけだった。大きな輪郭。獣とも妖怪ともつかない、細長い影。けれど、その影はすぐに洞窟の奥へ引き込まれるように消え、代わりに湿った空気だけが残る。
姫紬はそっと身を引いた。
「……やはり、ここに……」
異変の正体が、この洞窟の奥にいるのかもしれない。そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走る。
洞窟の中から、かすかに声のようなものが聞こえた気がした。
人の声ではない。けれど、何かを強く求めるような、荒い囁き。
姫紬はその場で静かに目を閉じ、深く息を吸った。
恐ろしくないと言えば嘘になる。だが、ここで引き返すわけにはいかない。
彼女は小さく拳を握る。
「……確かめなければ」
妖脈山の奥へ、姫紬はさらに踏み込もうとした。
その頃、洞窟のさらに奥では、影がゆっくりと蠢いていた。
「……もっとだ、もっと……」
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