第四話 年を経れば鯉も獣も変化する 其の肆
狭霧村の外れ。
人とあやかしが行き交う道を抜けると、木々が幾重にも連なる深い山林が姿を現した。
その名は――妖脈山。
古くから霊脈が流れる神秘の山として知られ、多くのあやかしたちが暮らす場所である。山には目に見えぬ妖力が絶えず巡り、その流れに沿って植物は大きく育ち、獣たちは豊かな命を育んでいた。
昼であるにもかかわらず、森の奥は薄暗い。
高く伸びた大木の枝葉が陽光を受け止め、木漏れ日だけが地面へ優しく降り注いでいる。
姫紬は山道の入り口に立つと、小さく深呼吸をした。
「失礼いたしますわ。」
山にも意思がある。
そう教えられて育った姫紬は、山へ入る前に必ず一礼する。
風がふわりと吹き抜け、葉がさらさらと揺れた。
まるで山が歓迎してくれているようにも思えた。
姫紬はゆっくりと一歩を踏み出す。
踏みしめた土は柔らかく、落ち葉が靴の下でかさりと音を立てた。
「やっぱり、獣道ですし歩きにくいですわ......」
村の石畳とはまるで違う。
道と呼べるほど整備されておらず、大きく張り出した木の根が足元を横切り、小石が転がり、ところどころぬかるみになっている。
姫紬は着物の裾を少し持ち上げながら慎重に歩いた。
森の中は静かだった。
だが、その静けさは決して無音ではない。
どこからともなく聞こえてくる小鳥たちのさえずり。
草むらで鳴く虫たち。
枝から枝へ飛び移る小動物。
遠くで木を叩く啄木鳥。
時折、茂みの奥から聞こえる獣の足音。
森は多くの命の音で満ちていた。
そして何より目を引くものがあった。
無数の光の玉。
森のあちらこちらを、小さな丸い光がふわふわと漂っている。
青く光るもの。
緑色に輝くもの。
淡い金色を宿すもの。
まるで夜空の星が森へ降りてきたようだった。
姫紬は立ち止まり、その一つを見つめる。
「綺麗……。」
光の玉は彼女の周囲を一周すると、また森の奥へゆっくりと流れていく。
妖幻鏡では「オーブ」と呼ばれる存在である。
霊気が濃い場所ほど多く現れ、あやかしたちにとっては珍しくもない景色だった。
だが、人間が見れば幻想そのものだろう。
木漏れ日の中を漂う光。
風に合わせて揺れる草花。
透き通る小川のせせらぎ。
神秘的な光景だった。
姫紬はその景色を眺めながら微笑む。
「妖脈山は本当に綺麗ですわ……。」
幼い頃から何度も見てきた景色。
それでも何度訪れても飽きることはない。
妖幻鏡にはこうした場所が数多く存在し、それぞれ違う表情を持っている。
姫紬は再び歩き始めた。
道の脇には赤い木の実が実り、小さな花々が風に揺れている。
栗鼠のような小さな獣が木の実を抱えたまま彼女を見る。
「こんにちは。」
姫紬が微笑みかけると、小さな獣は警戒することもなく、ぴょんっと木の上へ飛び移っていった。
その姿を見送りながら歩いていると、一羽の白い鳥が頭上を横切る。
その羽ばたきに驚いた蝶たちが一斉に舞い上がり、森へ色彩を添えた。
「ふふっ。」
自然と笑みがこぼれる。
危険な調査であることは分かっている。
それでも、この山にはどこか心を落ち着かせる力があった。
しばらく歩き続ける。
獣道は曲がりくねり、何本もの枝道が現れる。
姫紬は足元だけでなく周囲にも注意を向けた。
木の幹。
岩陰。
落ち葉。
草の倒れ方。
何か違和感がないか一つ一つ確認していく。
途中、獣の足跡らしきものを見つけた。
鹿。
猪。
狐。
どれも見慣れたものばかり。
「……。」
しゃがみ込み、慎重に調べる。
新しいものもあれば数日前のものもある。
だが商人通りで見つけたような巨大な足跡は見当たらない。
折れた枝も自然に折れたようにしか見えない。
木肌にも爪痕らしいものはない。
少し進むと、小さな湧き水が岩の隙間から流れていた。
澄み切った水は太陽の光を受けてきらきらと輝いている。
姫紬は手を浸した。
「冷たくて気持ちいいですわ。」
川姫である彼女にとって、水は何より心が落ち着く存在だった。
手についた雫を払うと、再び歩き出す。
しばらく辺りを見回しながら進んだものの、不自然な妖気も異様な気配も感じられない。
風も穏やか。
鳥も鳴いている。
虫たちも元気だ。
危険な獣が近くにいるなら、もっと森全体が張り詰めていてもおかしくない。
姫紬は辺りをもう一度ゆっくり見渡した。
「......特におかしいものはありませんわね。」
そう呟いた、その時だった。
ふわり。
それまで一定だった風向きが、ほんの一瞬だけ変わった。
漂っていたオーブの群れが、一斉に森のさらに奥へと流れていく。
木々がざわりと鳴り、小鳥たちのさえずりがぴたりと止んだ。
静寂。
ほんの数秒。
それだけだった。
次の瞬間には再び鳥が鳴き始め、虫の声も戻る。
「……今のは。」
姫紬は胸に小さな違和感を覚えた。
自然な風だったのか。
それとも、何か別の存在が通り過ぎたのか。
まだ答えは分からない。
けれど彼女は、その一瞬の変化を決して見逃さなかった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




