第二話 年を経れば鯉も獣も変化する 其の弐
姫紬は小川のほとりにしゃがみ込み、指先で水面をなぞりながら、しばらく考え込んでいた。川のせせらぎはいつもと変わらず穏やかで、柳の枝は風に揺れてやわらかく頭上を撫でている。けれど、胸の奥に落ちた小さな棘のような不安は、なかなか消えてはくれなかった。
「......調査するとは言ったものの、どこから始めましょう............あ! そうですわ! 外の本で読んだことがあります! 確か現地を見るといいと書いてましたわ! あ、でも、商人さんがどこで襲われたのかはしりませんわ......そうですわ、商人通りの道なら商人さんたちが通りますわ、そこへ行きましょう!」
姫紬はぱっと立ち上がった。決まれば早い。川姫の足取りは軽く、着物の裾が水音に合わせてふわりと揺れた。村の奥へ向かう道は、石畳の間に苔が少しだけ顔をのぞかせていて、朝から昼へ移ろう陽射しが白く差し込んでいる。途中で挨拶を交わす村人やあやかしも多く、姫紬はそのたびに小さく会釈した。
「姫紬ちゃん、お使い?」
「ええ、少しばかり調べものですわ」
「気をつけてな。最近、あんまり夜道を歩かない方がいいぞ」
「ご忠告ありがとうございます。気をつけますわ」
言葉を返しながら歩いていると、村の空気の中に少しずつ別の匂いが混じっていくのに気づいた。草の香りや炊き立ての米の匂いに交じって、乾いた土、荷車の木材、古い縄のにおい。商人通りが近い証だった。人とあやかしが物を売り買いし、集い、笑い合うこの道は、普段ならもっと賑やかであるはずなのに、今日はどこか音が薄い。
姫紬は足を止め、そっと辺りを見回した。
道の脇には小さな露店の跡があり、地面には車輪が擦った細い筋が残っている。荷を積んだ台車が何度も通ったせいで、石の隙間には砂が詰まり、端の草は踏み潰されていた。けれど、彼女の視線を引いたのは、そんなありふれた痕跡ではない。
「これは……」
道の真ん中、石畳のひと区画だけが妙に抉れていた。大きな爪で掻いたようでもあり、重い何かがひきずられたようでもある。しかも、そのへこみは一本の筋のように続いていて、途中で不自然に途切れていた。
姫紬は膝をつき、指先をそっと近づける。土はまだわずかに湿っており、冷えていた。だが、その冷たさの奥に、ぬめるような妙な気配が残っている。川の水とは違う。獣でも、妖怪でも、ただの人間でもない、もっとざらついた、落ち着かない残滓だった。
「夜更けに現れる大きな影……」
姫紬は小さく呟いた。道の端には、何かを運んでいたらしい木箱の欠片が落ちている。割れた縁には鋭い跡があり、噛み砕かれたようにも見えた。普通の獣なら、わざわざ箱の方へ食いつくことはない。まして、荷の中身より先に箱そのものを壊すなど、いくらなんでも妙だ。
彼女は視線を上げた。道の先には、商人たちが荷を降ろす広場があり、その周囲に倉庫や休憩所が並んでいる。そこから先は林へ続き、村外れの山道ともつながっていた。もし本当に何かが商人を襲ったのなら、逃げ道がない場所ではない。むしろ、襲われるのを待っていたかのように、夜の闇が濃くなる場所だ。
「……足跡もおかしいですわね」
姫紬は地面に残る跡を指で示した。獣のものにしては大きすぎる。だが足のつき方は四足ではなく、どこか二足にも近い。重さが一点に集中しており、踏み込みが深い。まるで巨大な影そのものが地を押しつぶしたかのようだった。
少し離れたところにいた村の女性が、姫紬の様子を見て近づいてきた。
「何か分かったかい?」
「いえ、まだですが……ここで何度も何かが起きているようですわ」
「そうかい。あたしらも夜になると怖くてね。荷を運ぶのを早めたんだけど、それでも夕暮れ前の空気が妙に重くなるんだよ」
「夕暮れ前……」
姫紬は目を細めた。昼と夜の境目に、何かが滲み出ているのかもしれない。妖幻鏡では、境界の曖昧な場所ほど異変が起きやすい。川辺、山道、古い道、祠の近く。人とあやかしの営みが交わる場所は、便利であると同時に、歪みを招きやすいのだ。
彼女はさらに広場の端まで歩いた。そこには荷を積んだ車輪の跡が複数残り、そのうち一つだけが途中で途切れている。何かに持ち上げられたのか、あるいは一瞬で引きずり込まれたのか。地面には細かな黒い粒が散っていた。炭のようでもあり、焦げた毛のようでもある。
姫紬はその粒をそっと拾い、鼻先に近づける。
「……焦げた匂い」
だが火の気はない。なのに、確かに焼けた匂いがする。普通の獣が残すものではなかった。胸の奥がきゅっと締めつけられる。見えぬものほど厄介なものはない。けれど、見えぬからこそ、探る意味がある。
そのときだった。
「ねぇ、なにしてるの?」
姫紬は「ひゃぁ!?」と小さく悲鳴を上げ、思わず振り返った。
そこに立っていたのは、白玉のように白く、顔のない絣の着物を着た妖怪だった。風に揺れる袖は静かで、どこか不思議な軽さがある。だが顔がないというのに、姫紬には相手が少し困ったように首を傾げた気配が伝わった。
「あ、ごめん、驚かせちゃった?」
「い、いえ、大丈夫ですわ......あなたは?」
白い妖怪は、道の縁にそっと立ち、声を落ち着かせて答えた。
「あぁ、僕は白坊主だよ」
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




