第一話 年を経れば鯉も獣も変化する 其の壱
ここは妖幻鏡。人間界と重なりながらも、決して完全には交わらぬ異界。妖怪、人妖、半妖――それらを総じてあやかしと呼ぶこの世界では、人と人ならざる者が同じ空気を吸い、同じ川の水を汲み、時に手を取り合って暮らしていた。
その中心にあるのが、狭霧村である。清らかな小川が村の真ん中を流れ、木造の家々の間を水音がさらさらとすり抜けていく。山のふもとには森があり、さらに向こうには雪原、川辺、そして海へと続くあやかしたちの暮らしがあった。村の中には人間もいれば、山に住むもの、森に棲むもの、雪を好むもの、川を守るものもいる。互いの違いを知りながら、それでも共に生きることを選んだ土地。狭霧村は、そうして長い時をかけて育まれてきた。
その小川のほとりで、ひとりの少女が子供に手を振っていた。
「姫紬ちゃんが拾ってくれたんでしょ? ばあやが喜んでたよ! ありがとう♪」
「いえ、私は当然のことをしただけですよ。さ、早く帰らないと心配しますわよ? 私が送りましょうか?」
川の流れを思わせる模様の着物をまとった少女は、柔らかな声でそう言った。名を姫紬。川姫の一人であり、狭霧村の小川に棲むあやかしだ。ほかの川姫と比べれば少し幼い見た目をしているが、その仕草にはどこか品があり、目元には水面のような静けさがあった。
「ううん! 大丈夫! 家はすぐそこだし」
「そうですか、わかりましたわ。おきをつけてお帰りくださいまし」
「うん! バイバーい!」
子供が小さな足で駆けていくのを見送り、姫紬はくすりと笑った。
「ふふっ、やはり童子は元気が一番ですね♪」
そのときだった。
「それでよ」
聞き慣れぬ、だがどこか切迫した男の声が屋台の並ぶ方から届いた。姫紬は耳をぴんと立て、そちらへ視線を向ける。村の広場には、商いの屋台がいくつも立ち並び、昼下がりの活気で満ちていた。干し魚、薬草、布、木彫りの小物。あやかしも人も入り混じり、笑い声が絶えないはずの場所である。
「え! それは本当か!?」
「あぁ、最近、また増えてるらしいぜ。それに、商人も何度も聞いたって」
姫紬は足を止めた。男たちの声音には、ただならぬ気配が混じっている。
「なにかお困りですの?」
姫紬が声をかけると、屋台の前で話していた二人の男が振り返った。ひとりは荷を担ぐ商人風の男、もうひとりは村の用心棒を思わせる体格のいい男だった。
「おぉ、おまえさんか。いやなに、最近、商人が噂してるんだけどよ、バカみたいに力の強い獣が商人を襲って、商品ごと商人も食らったって話があるんだ」
「獣? 妖怪の一種の妖獣でしょうか……」
「いやぁ、それが襲ってくるのは夜更けばかりでな。大きな影しか見えなかったらしい」
姫紬の瞳がわずかに揺れた。夜更けの影、商品ごと飲み込むほどの獣。尋常ではない。妖幻鏡には数多の怪異があるが、村の商いを襲い、人をも食らうとなれば穏やかではない。
「それは恐ろしい」
「だろ? けど、妙なんだよ。食い散らかすでもなく、何かを探してるみてえだって話もある。足跡も変でな、獣にしちゃ妙に重い。地面が抉れてるらしい」
「……」
姫紬は黙り込んだ。指先を袖の中でそっと握る。小川のせせらぎの音が、遠くにぼやけて聞こえた。
人間が困っている。
あやかしが暮らすこの村であっても、人の営みは大切だ。あやかしと人が協力して築いた狭霧村で、誰かが傷つき、誰かが怯えるのを放っておくわけにはいかない。ましてや、村の商いに関わるとなれば、この先の暮らしにも影響する。
「姫紬ちゃんも妖怪だが~気を付けるんだよ」
「ええ、ありがとうございます。ですが……」
姫紬は顔を上げた。幼い印象の残る面差しに、川の底のような静かな決意が宿る。
「人間さんが困ってる。私、調査しますわ!」
男たちは目を丸くしたが、すぐに苦笑した。
「おいおい、無茶はするなよ」
「そうだぞ。夜は危ねえ」
「承知しております。ですが、知らぬままではいられませんもの」
姫紬は屋台の間を抜け、村の広場を見回した。子供たちの笑い声、湯気の立つ饅頭の香り、木槌の音、川沿いを歩く人とあやかしの背中。いつもの狭霧村は、変わらぬように見えて、どこか薄く曇っていた。空の色も、川面のきらめきも、その奥に小さな歪みを隠しているように思える。
夜の影は、静かに広がるものだ。
姫紬は小さく息を吸い、川辺へ歩き出した。まずは噂の出どころを確かめる。そして、獣が現れるという場所を知る。村を脅かす異変なら、川姫として、狭霧村のあやかしとして、見過ごすわけにはいかない。
水音が足元で揺れた。
そのさざめきは、まるで彼女の決意に応えるようだった。
こうして一人の少女の異変解決の物語が、静かに、しかし確かに始まった。
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次回もお楽しみに




