第十三話 桜吹雪に降る時期かな 其の参
狭霧神社の鳥居の前には、なおも薄桃色の花びらが舞い続けていた。
石段の途中にも、手水舎の屋根にも、社の境内に立つ古木にも、見えないはずの桜が咲いている。枝も幹もない場所に花だけが現れ、ひらひらと零れては、風に乗ってまたどこかへ流れていく。その景色は美しくもあったが、やはりどこか落ち着かなかった。
姫紬は鳥居の上から飛び降りてきた少女を見つめた。牙のような飾りの二本ついた首飾り。揚げパンを片手にしたままの、どこか飄々とした様子。妖怪おとろし、シシと名乗った少女は、口元をもぐもぐと動かしながら首をかしげている。
「私は川姫の姫紬ですわ。あなたは」
「私はシシ、妖怪『おとろし』だ」
名乗りは素っ気ないのに、声音には不思議と棘がなかった。姫紬は胸の前で手を揃え、ゆっくりと頭を下げる。
「突然のご無礼をお許しくださいまし。ですが、今この村で不思議なことが起きていますの。桜の花びらが降り続けて、枝のない場所にまで花が咲いて……」
「知ってるよ」
シシは揚げパンをひとかじりしてから、鳥居の柱にもたれた。
「さっきから見えてた。村中、薄桃色でうるさいくらいだね」
「うるさい、ですの……」
「嫌いじゃないけど。放っとくともっと増えそうな気がする」
姫紬はシシの横顔を見た。あどけなさを残す少女の姿なのに、その目は妙に落ち着いていた。境内を見回す視線には、何かを見慣れている者の静けさがある。
「シシさんは、この異変について何かご存じですの?」
「少しだけね」
シシは揚げパンの紙包みを片手で持ち直し、石段の下へ視線を流した。
「花びらは、村の中で生まれてる感じじゃない。もっと遠くから流れ込んでる。しかも、ただ風に乗ってるだけじゃないよ。妖気に引っ張られて来てる」
姫紬の表情が引き締まる。
「妖気……やはり、誰かが関わっているのですわね」
「多分。しかも、強いね。ああいうのは自然に咲いてる桜じゃない。ねじれた季節みたいなものだよ」
姫紬は花びらを一枚拾い上げ、そっと指先でつまんだ。柔らかな感触はあるのに、そこには確かに微かな力の脈動が宿っている。村のあちこちで咲く、あの枝のない桜も同じだ。美しいだけで済ませられるものではない。
「もしや、どこかに根本があるのでしょうか」
「ある。たぶんね」
シシは揚げパンを食べ終え、手の粉をぱん、と払い落とした。
「花びらは、桜咲山から来てる」
「桜咲山……?」
姫紬はその名を繰り返す。狭霧村の周囲には山が多いが、その名は聞き覚えがなかった。
「山の向こう、少し離れたところにある。春になると桜が一面に咲く山だよ。けど、今は季節外れ。だから、たぶんあそこが変になってる」
「山一面の桜……」
姫紬は思わず呟いた。花びらの降る理由がそこにあると聞けば、納得できるようでいて、なおのこと不思議だった。自然の景色なら、なぜ今この村へ降り注ぐのか。季節がずれているだけでは済まない気配がある。
「そこへ行けば、原因が分かりますの?」
「たぶんね。桜咲山は、昔から変わりやすい場所だよ。咲く時期じゃないのに咲くこともあるし、道が増えたり減ったりすることもある。山の機嫌が悪いと、人も妖怪も近づきにくい」
シシは鳥居の上の空を見上げる。そこにも花びらが集まり、まるで見えない枝から落ちているようだった。
「でも、村へ流れてくるってことは、山の中だけでは収まってないんだろうね。何かが、花を外へ押し出してる」
「……その何かを、私が確かめなくてはいけませんわね」
姫紬は静かに決意を口にした。手のひらの花びらを境内の風へ放すと、花弁はふわりと舞い上がり、石段を越えて空へ溶けていった。
「ひとまず、私は山へ向かう準備を整えますわ。狭霧村の中でも、まだ調べたいことがありますので」
「そうするといい」
シシは軽くうなずいた。姫紬が去るのを止めることもなく、ただ境内の花びらの流れを目で追っている。
「ひとつだけ言っておくけど、桜咲山はやさしい山じゃないよ。綺麗だからって、綺麗なものばかりとは限らない」
「心得ておりますわ」
「うん。だったら大丈夫」
姫紬は穏やかに微笑んだ。
「今日はお話できて助かりましたわ。ありがとうございました、シシさん」
「どういたしまして」
それだけ言うと、シシはまた揚げパンを取り出し、今度は石段に腰掛けた。すぐに何かを気にする様子もなく、ぽつぽつと降る花びらを眺めている。その姿は、異変のただ中にいるというより、異変を知ってなお慌てない者のようだった。
姫紬は深く一礼し、狭霧神社の鳥居をくぐって石段を下り始めた。
境内を離れると、村の景色がまた目に入る。商人通りでは荷を運ぶ声がし、ひまわり通りでは子供たちが花びらを追いかけている。空中に咲く桜は、あちこちでまだ静かに開いたままだった。美しさの裏に潜む違和感を胸に抱きながら、姫紬は次の手がかりを探すために歩き出す。
そして背後から、シシの声がかすかに届いた。
「気をつけて。桜咲山は、たぶんもう目を覚ましてる」
姫紬は振り返らずに、小さくうなずいた。
花びらはなおも降り続けている。
その行き先が、桜咲山であると知った今、姫紬の歩みは少しだけ速くなった。狭霧村の空を覆う桜吹雪の先に、異変の中心がある。そう思うと、胸の奥で静かな熱が灯る。
彼女はひまわり通りを抜け、村の外へ続く道の方へ視線を向けた。次に向かうべき場所は、もう見えている。
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