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 国境での「晩餐会作戦」による大勝利から数日後。

 王都への凱旋馬車の中で、私は胃薬の小瓶を握りしめながら、冷や汗を流していた。

 揺れる車窓からは、美しい田園風景が見える。だが、私の心中は嵐の中の小舟のように荒れ狂っていた。

「……素晴らしいよ、エスペリア」

 向かいの席で、この国の第二王子にして私の「飼い主」であるアイローン殿下が、報告書を指先で愛でている。

 その碧眼は、死傷者数「ゼロ」の欄を見て、恍惚と狂気が入り混じった光を放っていた。

「剣を交えず、敵の誇りを砕き、胃袋を支配して労働力に変える。……君のおかげで、我が国の国債の格付も上がったよ。父上も『あの陰気な娘がこれほどやるとは』と驚いていた」

「は、はあ……恐縮です(陰気ですみません……)」

「だが――」

 殿下が書類をパタンと閉じた瞬間、車内の気温が急降下した。

 先ほどまでの熱っぽさが嘘のように消え、爬虫類を思わせる冷徹な瞳が私を射抜く。

「……飽きっぽいんだ、僕は。同じ手品トリックは二度は楽しめない。君も、ただの『パン配りおばさん』で終わるつもりはないよね?」

 ヒュッ、と喉が鳴る。

 来た。この圧力。

 「次も僕を楽しませろ。できなければ廃棄処分だ」という無言の通告。

 私は引きつった笑顔で、首を縦に振るしかなかった。今の私に拒否権などない。実家の借金を肩代わりしてもらった以上、骨の髄までこき使われる契約なのだ。

「も、もちろんです殿下。常にイノベーション(技術革新)こそが私の信条ですので……」

「頼もしいね。じゃあ、早速頼もうか」

 殿下は懐から一枚の似顔絵を取り出した。

 描かれていたのは、太陽を背負う清楚な美少女。

 敵国ガリアの精神的支柱、聖女マリアンヌだ。

「彼女が国境近くの都市『サン・ローラン』で、大規模な『奇跡の施し』を行っている。彼女の聖水を飲むと、兵士は痛みも恐れも忘れ、不眠不休で戦う狂戦士になるそうだ。代金は『寄付』のみ。貧しい者にはタダ同然で配っている」

 殿下は、楽しそうに目を細めた。

 それは、新しい玩具を見つけた子供の目であり、同時に獲物の急所を探る捕食者の目でもあった。

「金も食料も欲せず、無償の愛で尽くす聖女……。君の得意な『経済合理性』が全く通用しない相手だ。どうする? 彼女もパンで買収するか?」

 試されている。

 私は似顔絵を睨みつけた。

 無償の愛? そんなものは経済学的にありえない。

 「フリーランチ(タダ飯)は存在しない」。それがこの世の真理だ。

 聖水を作るコスト、教団を維持するコスト。それらは誰が、どうやって支払っている?

「……一度、現物を確認させてください。敵のビジネスモデル(からくり)を解析します」

          ◇

 数日後。私は商人風のローブを羽織り、お忍びで敵国の国境都市サン・ローランへ潜入していた。

 都市全体が、異様な熱気に包まれていた。

 中央広場には長蛇の列ができ、人々が何かにすがりつくように並んでいる。

「聖女様だ! マリアンヌ様のお出ましだ!」

「おお、聖女様! どうか娘を!」

 私の目の前で、古びた服を着た痩せた男が、松葉杖をついた小さな少女を背負って祭壇に進み出た。

 少女の足は不自然に曲がっており、生まれつきの病気であることが見て取れる。

「おお、可哀想に……。でももう大丈夫ですよ」

 群衆の中心にいた聖女マリアンヌは、慈愛に満ちた微笑みで少女の頭を撫でた。

 そして、小瓶に入った水を少女の唇に当てる。

「さあ、お飲みなさい。神の愛はすべての痛みを癒やします」

 少女が水を飲み干す。

 すると数秒後、彼女の青白い頬がみるみる紅潮し、うつろだった瞳がカッと見開かれた。

「……パパ? 痛くない。痛くないよ!」

 少女は松葉杖を放り出し、自らの足で立ち上がった。いや、それどころか、その場で跳ね回ってみせたのだ。

 父親が涙を流して地面に額をこすりつける。

「奇跡だ……! ああ、マリアンヌ様! なんてお礼を言えばいいか!」

「お礼などいりません。ただ、神への感謝を忘れないでくださいね」

 マリアンヌは優しく微笑み、傍らにある箱を指差した。

「感謝のしるしとして、教団指定の『免罪符』を買えば、より御利益が続きますよ」

「買います! 全財産でも買います!」

 父親は震える手で、なけなしの銅貨と銀貨が入った財布を差し出した。恐らく、彼らの数ヶ月分の生活費だろう。それでも、娘の笑顔には代えられないのだ。

 親子は抱き合って喜んでいる。

 ……美しい光景だ。

 だが、その光景を見ていた私の背筋には、冷たい汗が伝っていた。

(……やっぱり。あの独特な甘い匂い)

 風に乗って漂ってくるのは、花の香りではない。もっと重く、脳の芯を痺れさせるような香り。

 私は前世の知識と、実家の書庫にあった植物図鑑の記憶を照合した。

 あれは回復魔法ではない。南方の島国でしか採れない希少な幻覚植「夢見草ソムニウムのエキスだ。

 強力な鎮痛作用と、多幸感をもたらす覚醒作用。

 一時的に痛みを忘れさせ、脳内麻薬で疲れを感じなくさせる。だから「治った」と錯覚するし、少女のように立ち上がることもできる。

 だが、その代償は重い。常習性があり、切れた時の反動(禁断症状)は地獄だ。かつて帝国では禁止薬物に指定されたほどの代物。

(あの親子……薬が切れたら、前以上の激痛が襲うわよ……)

 しかも、あれは栽培が極めて難しく、とんでもなく高価だ。小瓶一本のエキスを作るのに、金貨数枚分のコストがかかるはず。

 それを無料で配り、薄利な免罪符で回収する?

 教団の財政が持つわけがない。

 構造が見えた。

 バックエンド商品だ。

 入り口は無料(聖水)で客を集め、裏で高額商品(免罪符)を売る。

 その売上で、バカ高い「夢見草」を輸入し、聖水に混ぜて信者を中毒にする。中毒になった信者は、聖水欲しさにまた免罪符を買う。

 完璧な自転車操業サイクル

 そして、あの親子のような善良な人々を食い物にする、悪魔のシステム。

 だが、今のこの熱狂を見る限り、真正面からそれを指摘しても無駄だろう。

 念のため、確認しておくか。

「……市場調査マーケティング・リサーチを行います」

 私は路地裏で、護衛としてついてきた部下の隠密に指示を出した。

「広場の隅で、小さく噂を流してください。『あの水には依存性のある毒が入っているらしい』と。……決して深入りせず、反応を見たら即座に撤退するように」

 これは説得ではない。観測気球だ。

 この市場(信者)において、理性がどれだけ残っているかを測るための。

 結果は、即座に出た。

「なんだと貴様!?」

「聖女様を愚弄する気か! 悪魔の手先め!」

 部下が小声で呟いた瞬間、周囲の信者たちが殺気立った。

 先ほどの父親もいた。彼は娘を守るように抱きしめながら、鬼のような形相で石を握りしめていた。

 部下はプロの身のこなしで逃げ帰ってきたが、その顔には冷や汗が浮かんでいた。

「……報告します。聞く耳を持ちません。完全に思考停止しています」

 それを聞いた私は、冷静に頷きつつ、胃の痛みに顔をしかめた。

「なるほど。想定以上に『需要の価格弾力性』がゼロに近いわね」

「は?」

「彼らにとって聖女は絶対ということよ。科学的根拠エビデンスや正論という『コスト』をいくら支払っても、彼らの『信仰(需要)』は微動だにしない。……つまり、言葉による説得や啓蒙は、時間の無駄」

 これでは、前回のようにビラを撒いたところで紙屑になるだけだ。

 心の攻略は不可能。

 ならば、アプローチを変えるしかない。「物理カネ」で兵站を断つのだ。

 私は宿に戻ると、通信用の魔道具を起動した。

「……殿下、初期解析が完了しました。正面突破は不可能です」

『ほう? あのエスペリアが白旗を上げるのかい?』

 通信の向こうで、殿下の冷ややかな声が響く。

 失敗は許されない。私は震える手を抑え、努めて冷静な声を作った。

「いいえ。戦場を変えるだけです。……殿下、追加の予算をください。そこそこの額になりますが……戦争するより安上がりです。それと、最新鋭の『活版印刷機』と、紙幣を刷れるレベルの職人を」

『印刷機? ビラでも撒く気か?』

「違います。通貨カネを刷るのです」

 私は懐から、先ほど購入した「本物の免罪符」を取り出し、ランプの光にかざした。

「教団が資金源にしているこの免罪符……実にお粗末な作りでした。古い木版印刷で、紙質も悪い。偽造防止の透かしもなければ、シリアルナンバーもない」

「これなら、我が国の技術を使えば、『本物よりも紙質が良く、インクも鮮明な偽物』を量産できます」

『……本物よりも質の良い偽物、か』

 殿下の声に、興味の色が混じる。

「はい。教団側が『偽物が出回っている』と火消しに走ったとしても、民衆はどちらを信じるでしょうか? 汚くて滲んだ『本物』と、美しく神々しい『偽物』。……人は、見たいものを信じる生き物です」

『なるほど。で、それをどうする?』

 私は、自分の顔が悪役のように歪んでいくのを感じながら、作戦の全貌を告げた。

「『悪貨は良貨を駆逐する』を実行します。……市場に『精巧な偽の免罪符』を大量に流通させ、価格破壊ダンピングを起こします」

『ダンピング?』

「はい。教団が金貨1枚で売っている免罪符と、全く同じ――いや、それ以上に美しいものを、銅貨1枚でバラ撒くのです。……信者は『安く買えるならこっちでいい』と偽物に群がり、正規品は売れなくなる」

 売上が止まれば、高価な「夢見草」の代金が払えなくなる。

 輸入が止まれば、聖水が作れなくなる。

 薬が切れた時、中毒者(信者)たちはどうなるか?

 脳裏に、あの親子の笑顔が浮かんだ。

 今は幸せそうに笑っているあの父親が、薬が切れて錯乱し、愛する娘をどう扱うか。

 想像するだけで吐き気がする。

 だが、やらなければならない。彼らが「恐れを知らぬ狂戦士」となって我が国へ侵攻してくれば、今度は私の大切な人々が殺されるのだ。

「……聖女は、じきに知ることになるわけだ。『奇跡』の切れ目が、地獄の始まりだと」

『くく、ははは! 神の許しを暴落させる気か! 相変わらず、君の発想は罰当たりで最高だ!』

「恐縮です……」

 殿下の爆笑を聞きながら、私は決意した。

 「心」が攻略できないなら、「財布」と「組織」を壊すまで。

 

「……殿下。もう一つ、お願いがあります」

『なんだい?』

「この大量の偽造免罪符を、短期間で都市中にばら撒くための『流通ルート』が必要です。……この街の裏社会を取り仕切る『闇ギルド』とのコネクションを、殿下の諜報網で手配してください」

 私が直接配れば怪しまれる。

 だが、地元の裏社会を使えば、瞬く間に都市の隅々まで汚染できる。

 彼らとて、一枚岩ではないはずだ。聖女の独占市場モノポリーに不満を持っている連中は必ずいる。

『準備が良いね。いいだろう、手配しよう。……さあ、始めようかエスペリア。神殺しの宴を』

 通信が切れる。

 私は胃薬を一気に飲み干すと、窓の外、狂信的な熱気に包まれた街を見下ろした。

 

 あの親子の笑顔は、数日後には地獄の形相に変わるだろう。

 その引き金を引くのは、私だ。

「……ごめんなさい」

 誰にも聞こえない声で呟き、私はカーテンを閉めた。

 歴史オタクの陰キャ娘による、異世界初の 

 通貨偽造による宗教テロ。

 その準備は整った。

 あとは、市場マーケットという名の戦場に、毒入りの金貨を流し込むだけだ。


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