陰の限界
廃病院に足を踏み入れた瞬間、僕はそのまま固まった。
病院内はまるで霧のように霊が漂っており、視界が悪いのだ。瘴気とでも言うのだろうか。
こんなところを倫さんたちは歩いていったのか……。
入ってすぐに受け付けがあり、その脇に奥に伸びる廊下があると思われた。霊が多くて見えづらいが多分そうだ。右手側にも廊下が伸びているが、倫さんの言い方から察するにこちらではないだろう。
早く倫さんのもとに向かわねばと思うのだが、足が動かなかった。身体に汗が浮かぶのを感じる。
僕はなんだかんだいってもトリカに甘えていた。今日まで霊に関してのストレスを受けずに居たのはひとえにトリカのおかげなのだ。トリカの庇護がない今、僕は完全に丸腰でただ霊が視えるだけの人間である。
あの白いもやに大した力がないことはわかっているが、嫌悪感や恐怖感はある。ゲジゲジがいくら害がなくそれどころか益をもたらすと言われても許容できないのと同じだ。
「……早く行かないと」
思わず独り言が漏れる。
今、倫さんはこんなところでひとりぼっちなのだ。とても放ってはおけない。岡本先輩ももしかしたら失恋のショックで霊に取り憑かれているかもしれない。霊によって負の指向が増大していたら、倫さんに危険が及ぶ可能性もある。
そう、弱気な心は霊にとって格好の獲物だ。僕も気を強く持たないといけない。
「へっ、来るなら来てみろ霊どもが、逃げないオレこそがMC守谷
ウォリアーを気取り突っ切るタフボーイさ、……準備OKんじゃ行くか!」
ラッパーのマインドを身に宿し、僕は一歩目を踏み出した。
受付の横を通り過ぎ、視界が悪い上に明かりもない廊下をゆっくり進む。
あまりにも霊が漂っているので、思い切って目の前の白いもやを手で振り払ってみた。すると、ぐにゃあと形を変えながらも横に流されていった。まるで煙のようだ。
倫さんの話によれば、この先に階段があってそこを上がったところで待っているとのこと。しかし、思いの外距離がある。外からではわからなかったが、意外と奥行きのある建物だったらしい。
廊下の壁には何らかのポスターが貼られている。おそらく健康づくりの類だろう。そして閉じられた扉が点々としてある。中がいったいどうなっているのかわからないが、触らぬ神に祟りなし。無駄な探索は避けよう。手術室とかだったら怖すぎるし。
足元には何らかの紙やら椅子やら雑然と物が落ちている。それらに気をつけて進んでいると、「かたっ」という音がどこからか聞こえたような気がした。気のせいかもしれない。
思い切ってばっと振り向く。が、特別変わった様子もない。気のせいだったようである。
精神がすり減るのを感じる。早く倫さんを見つけて脱出したいところだ。
廊下の突き当りまで来ると、右手に階段があった。目的地が近くなったことが嬉しくて、気持ち早足になる。
「倫さーん……」
階段を登りながら呼びかける。
別に声を張ればいいものを、なぜか小声になってしまった。周りが静かすぎると大声を出しづらくなるのは僕が小心者だからだろうか。
「そうでしょうね」
「うわぁ!?」
踊り場を通っていると、急に背後から銀色のものが姿を現したので素っ頓狂な声を上げてしまった。
驚きのあまり衝動のままキレ散らかす。
「お前マジでビビらせんな!」
「ごめんなさい。……アキラが私に向かって“お前”だなんて、相当驚いたのね」
トリカは申し訳無さそうな顔をして浮遊していた。
それが見慣れない表情だったこともあり、強烈な罪悪感でふっと頭が冷める。
「あ、いやごめん。怒鳴って悪かった」
僕が即座に謝ると、トリカは先程の表情から一転してにんまりした。
「うふふっ! すぐに謝っちゃうアキラ可愛い。そういうところ好きよ」
……なんだか釈然としない。
さっきの傷ついたような表情は嘘だったの?
「いいえ? しっかり私の乙女心は傷ついたわよ。泣きそうだもの」
「マジぃ? ごめんなぁ?」
「いいわ、許してあげる」
なぜか僕が許しを請う立場になっていた。トリカが性格の悪い登場をしたのが原因なのに。
ともあれこの話題は引っ張らず、本題に移る。
「で、倫さんは?」
「上で縮こまって震えてるわよ」
「え、守ってはくれたんだよな?」
「ええ。そもそも襲われてないけど」
「そうなんだ。ありがとう」
トリカと合流したことで気持ちの余裕が出てきた。階段をさっさと上り、倫さんのもとに向かう。
トリカの身体から発される魔力の光があるからか、先程より視界がよくなっているような気がした。
だから廊下の壁際でしゃがみこんでいる倫さんも容易に見つけることができた。身体を丸めて小さくなっている姿は、普段の倫さんからは想像できないほどに弱々しい。
僕の足音に気づいていたであろう倫さんが、こちらに懐中電灯を向けてきた。もしかしたらトリカとのやりとりも聞かれていたかもしれない。それはまずい。
「倫さん、守谷です。大丈夫ですか」
明かりに向けて探るように声を掛けると、倫さんは立ち上がりこちらに駆け寄ってきた。
そしてそのまま抱きつかれる。
「り、倫さん?」
「もうほんとに怖かったぁ、うぅ、もっと早く来てよーもー」
倫さんが涙声でそう訴えてきた。
最初こそ抱きつかれた瞬間に押し寄せた未知の感触と倫さんの体温にパニックになったが、肩を震わせている倫さんの姿を見たらもっと早く来てあげれば良かったと猛省した。
そして僕はどうしてこうも余計な思考をしてしまうのか謎だが、こうも躊躇なく他人に縋れる倫さんって凄いなと思った。同性ならまだしも僕は男である。これが逆の立場というか僕が仮に女であったとしても、拒絶されたらどうしようとかいろいろ考えてしまって抱きつくまでには至らないと思う。
おそらく倫さんは拒絶されない自信があるとかではなく、そもそも拒絶されるという発想がないイノセントな人なのだろう。そうであってほしい。そうじゃなかったらなんかアレだ。
ふと目線を上げると、トリカが呆れた顔で僕を見下ろしていた。
「抱きしめて慰めてあげたら?」
トリカは、宙をさまよう僕の両手を見て他人事のように言った。あんまりにも平然と言うのでうろたえている僕がおかしいように思えてくる。
確かにイケメンやら春待だったらギュッと抱きしめて頭をなでたりしそうなものだが、僕がそれをやったらセクハラである。
「リンは『アキラに拒絶されるかも』っていう発想がないんだから、あなたがそういうことをしても拒絶しないはずよね?」
そうはならないのがこの世の中である。性別が違うだけで人間関係のあらゆる方程式は複雑怪奇と化す。ましてや倫さんは気が動転しているのだ。多分僕がなにかした瞬間に冷静になる。
そう想定する一方で、この状況でただぼーっと突っ立っているのも人としてまずいとも思うのだ。
ここは少しリスクを負うことになるが、人としてなすべきだと思う最低限の行動を起こすことにする。
「決断に至るまでにそんなに思考が必要だなんて、大変ねアキラは」
まあな。
さて、抱きしめるのは間違いなくやりすぎなので、もう少しマイルドに。
僕は一定のリズムで倫さんの背中を優しく叩き、声を掛けた。
「すみません、ちょっと遅れちゃって。猛省してます僕ヘタレだって。
それより朗報、ここ霊いないです。だから泣く必要ないんですって。
でもそんな倫さん可愛らしいです、三割増しで。よっ、恋わずらいマシーン yep
このMC、守るyour privacy だから倫さん泣き止んでくださいまし、ね?」
そんなふうに声を掛けると、倫さんは泣き笑いの声で抗議してきた。
「ねぇ、もー、なんで今ラップしてくるのー? もーほんと意味わかんないからぁ。恋わずらいマシーンって言った? なにそれぇ」
「魅力的な人は無差別に人を恋に落とす、ということです」
「説明とかいいからぁ、もーなんなのー」
倫さんは地団駄を踏むかのように僕の胸を何度も叩いてくる。
ツッコミを入れる程度には元気なことに僕は少しほっとしていた。そしてセクハラだとヒスられなくてほっとした。
「もう少しまともな慰め方はないの?」
トリカがいつもの呆れ顔で言った。
いわゆるまともな慰め方は僕の柄ではないのである。僕のようなもんは道化を演じて和ませる方が正攻法なのだ。つまり、これこそが僕にとってまともな慰め方であり、僕の限界なのである。
トリカにそんな弁明をしていると、涙を拭った倫さんがじろりと僕の目を見てきた。
「……泣いたことは秘密だからね」
「はい。守りますよープライバシー」
「さっきのラップ引きずってる!」
さて、倫さんが身体を離したので一番に聞こうと思っていたことを投げかける。
「ところで岡本先輩はどうしたんですか?」
すると、倫さんは一瞬固まった。
それから気まずそうに口を開く。
「あ、えっと、岡本くんはね、……これもみんなには言わないでね?」
そう前置かれたので素直に「はい」と頷くと、倫さんは目元を拭いながら話し出した。
「実は、岡本くんに告白されちゃったんだよね。でも断ったの。そしたら、『ちょっと一人になりたい』って言ってどっか行っちゃった」
「なるほど」
玉砕しとるやないかーい。くっくっくっ!
否、喜んでいる場合ではない。下手したら悪霊に取り憑かれている可能性もある。
僕が悪い笑みを噛み殺して神妙な顔をしていると、倫さんが訝しげな顔をしていた。
気まずい空気が流れるのだが、告白されたという告白に対する正当なリアクションがわからないので沈黙するしかなかった。「どうして断ったん?」とかフランクかつ不躾に聞いてみたい衝動にも駆られたが、普通に自制できた。
とりあえず岡本先輩を見つける必要がある。が、それより倫さんを病院の外に出してあげるのが先か。
「じゃあ、ひとまずここから出ましょうか。倫さんも下半身が冷たくて大変でしょうし。ねえ?」
「『ねえ?』じゃない! 漏らしてない! ねー、陽くんってときどきサイテーだよね」
「ねー、もーほんとサイテー。誰? こいつ連れてきたの」
「それは私だけど! てかなにそのキャラ!?」
病院を出ると決めたはいいが、病院内のどこかにいるであろう岡本先輩に黙って倫さんを連れ出すのもどうだろうという気分にもなってきた。
そしてはたと気づく。僕のスマホはただの荷物だが、倫さんのスマホは当然のことながら生きているのだ。倫さんのスマホで岡本先輩に連絡をすればいい。
「あの、倫さん。この場を離れる前に岡本先輩に連絡した方がよくないですか?」
「あ、うん。そうだよね」
「というか、合流してから戻りますか?」
僕の提案に倫さんは難色を示した。
「んー、やっぱりちょっと気まずいんだよねー。それに一人になりたいって岡本くんは言ってたし」
「そうですか。じゃあ僕らだけで先に戻りますか」
「うん。まあ、とりあえずラインは送るかな」
そう言って倫さんはスマホに目を落とし、メッセージを送信していた。
「先に病院出てるね。っと。……ちょっと冷たいかな今の文」
「大丈夫じゃないですか。変に気を遣われるよりいいと思いますよ」
「そっか」
とはいえ、堂々と放置して帰られると流石に傷つくかもしれない。一人になりたいといった岡本先輩が悪いか。
さて、倫さんには先程この病院には霊がいないと言い切ってしまったので、僕もそういう振る舞いをする必要があるだろう。つまりは超余裕のリラックスモードな態度を取るということだ。
だがそれは容易である。トリカさえいれば向かうところ敵なし、したがって霊などいないも同然なのである。
「でもあなた、さっき私に驚いたわよね?」
そう言ってトリカが僕の顔を覗き込んでくる。
急に出てこられたら驚くのは仕方ない。
「それは霊にも言えることじゃない?」
そこをケアするのも用心棒の仕事では?
「ふふ、それは頼りすぎ。そこはあなたの精神力の見せ所ね」
正直、それについてはまるで自信がない。白モヤの霊がふわっと動くだけでビクッとなってしまうのだ。
ふと倫さんに目を向けると、彼女は不安げに瞳を揺らしていた。
……この倫さんを見て奮起しない男は男じゃないだろ!
僕は男気溢れるマインドを身に宿し、倫さんに声をかけた。
「倫さん、こういうときは歌でも歌いながら進むのがいいんですよ」
「あー、確かにいいかもー」
倫さんの表情が少し和らぐ。これは正解だな。
「じゃあ皆さんご存知の『サンダーライマー』でも歌いましょ。僕MCカッパのヴァース歌うんで、倫さんはオートマティックかつおの方でお願いします」
「えっ!? ちょっと待って! 私その曲知らない。存じてない」
「あ、そうですか。じゃあ他の2MCの曲は……」
「なんでラップなの!? 普通こういうときってもっとメジャーなさぁ――」
結局、二人で歌う曲が決まらないまま、僕らは廃病院の中を歩いていった。
◇◇◇
「あ、戻ってきた」
僕と倫さんが廃病院から出てくると、お団子先輩と渡辺先輩が出迎えた。長身の広田先輩と山本妹、つまりBペアの姿が見えない。
渡辺先輩は僕を見てにやりと笑った。
「一ノ瀬と二人で戻ってきたってことは、守谷騎士が見事に一ノ瀬を護衛したってことかな?」
相も変わらず渡辺先輩は人狼をしていた。騎士あるいは狩人とは、人狼の襲撃から村人を守ることができる役職である。それじゃあ岡本先輩は人狼ってことかい。
そんな渡辺先輩の発言に倫さんは特に反応しなかった。岡本先輩の話題を回避したいように見える。
僕は渡辺先輩に苦笑いを返して、お団子先輩に問いかける。
「それより、Bペアはどこに行ったんですか?」
「あれ? 中で会わなかった? A組戻ってくるの待てないって言って肝試しに行ったよ」
「そうなんですか」
大丈夫だろうか。今の岡本先輩の状態がわからない以上、あまり中には踏み込んでほしくなかった。
こうなったら僕もトリカを引き連れて廃病院に舞い戻らねばなるまい。
「リンから指輪を返してもらえるならね」
僕の思考にトリカが楽しげに囁いた。
返してもらえるならってそりゃ返してもらえるだろと思ったが、倫さんの右手の中指に指輪がはまっていた。いつの間に指輪をつけたのだろう。気付かなかった。
しかもその右手を覆うようにして手を組んでしまった。
「まるで指輪が生命線と言わんばかりね? あんな状態のリンに指輪を返してだなんて言えるのかしら」
こいつは用心棒のくせに僕一人で廃病院に突っ込めと言いたいのか?
「いいえ? 霊を恐れない勇敢な人間たちの遊びに水を差す必要はないと言いたいのよ」
つまり放置しろと。
まあ、確かに僕が先輩方をフォローする義理はない。倫さんはまだしも他の先輩方は今日知り合った他人だ。僕がリスクを負って助けるほどでもない。(実際に助けるのはトリカなのだが)
しかし、常識的に考えてここで放置するのは人としてありえない。なにか最悪の事態が起こり得る可能性もあるのにそれを見過ごせるほど僕のメンタルは強くないのだ。
先輩方を呼び戻す決意を固めると、僕はお団子先輩と渡辺先輩に声をかけた。
「あのー、この病院見た感じヤンキーの溜まり場になってる形跡があるんで、さっさと離れた方がいいと思うんですよね」
僕のテキトーなでっち上げにお団子先輩は顔をしかめた。
「え、マジ? 今はいないんだよね?」
「今はいないですけど、ほら、さっきバイクの音とか聞こえたじゃないですか」
「あー、聞いたかも。絡まれたくないわー」
お団子先輩と同様に渡辺先輩も嫌な顔をした。
「じゃあさっさと引き上げたいな。俺は肝試し興味ないし」
よしよし、この二人は肝試しに消極的のようだ。いや、もしかしたらさっさと引き上げたいという僕の意図を汲み取ってくれたのかもしれない。倫さんの憔悴した姿が追い風になったのかも。トントン拍子に話が進みそうだ。
「じゃあ僕、先輩たち呼び戻してきますね」
「おねがーい」
「黒見つけてくれな」
これであとは先輩たちを見つけるだけだ。
僕が意気揚々と廃病院に向かおうとすると、背後からトリカに声をかけられる。
「待ちなさい。一人で行くつもり?」
そのつもりだけど? 歩きながら脳裏で返事をする。
本来ならトリカを連れていって僕の盾になってもらいたいところなのだが、倫さんがあそこまで指輪を心の拠り所にしているのならこの病院から離れるまでは返してもらうのも忍びない。
僕の思考にトリカは真剣な声を返してくる。
「あなたがいいならそれでもいいけど、私は返してもらうことを勧めるわ」
トリカはここで倫さんたちを守っていてほしい。僕は逃げ足には自信があるから大丈夫だ。
トリカの結界範囲である半径二十歩の範囲を超えたようで、脳裏に彼女の声も届かなくなった。それに少し心細さを感じてしまうが、振り返らない。
僕は再び廃病院に足を踏み入れた。




