親友の気持ち
一ノ瀬先輩がお手洗いの方から戻ってきた。その表情は安堵のそれだった。
椅子に座るなり、先輩は電話の内容を報告した。
「今日行っても大丈夫だって。あー、緊張したぁ」
一ノ瀬先輩は誰に電話したのだろう? 菫さんのご両親だろうか。いずれにしてもアポイントメントは取れたようだ。
そこで線香をあげるとともに、菫さんの未練を晴らすことができれば、今回の件は解決だ。
一ノ瀬先輩は二つ結びの片方の房を弄びながら、おずおずと切り出した。
「それでね? その、守谷くんにも来て欲しいんだけど……」
「僕ですか? 構いませんよ」
「ほんと? ありがとー! さすがは千穂を改心させた男!」
「いや、だからそれは川崎先輩の元カレたちが……」
そんなことを一ノ瀬先輩と話していれば、当然井上先輩も黙っちゃいない。
「俺も行くぞ。倫が心配だからな」
「あんたは来なくていい。なに? ストーカー? きも」
「幼馴染だから当然だろ?」
「はー、うっざ」
一ノ瀬先輩はうんざりした様子だが、井上先輩の意思は固い。決意した人間の瞳をしている。
幼馴染だから、という理由でどこまで許されるのか、井上先輩には試してみてほしいと思った。一ノ瀬先輩はなんだかんだいっても優しいから、かなり許容範囲は広そう。
そんなことを思っていると、トリカが冷ややかな目で見てきた。
「いやらしい」
何が? 僕というジェントルなメンをつかまえていやらしいとは? 言葉の意味がわかりかねる。
「あなたがイノウエの立場だったら、『黒タイツを穿いてくれ。幼馴染だろ?』って言いたいのよね?」
ふっふっふ。
さて、そろそろみんな食べ終わった頃合いである。
紙ナプキンで口元を拭うと、僕はトレイを持って立ち上がった。
「それじゃあ、行きましょうか」
「うん。井上置いて私たちだけで行こ」
そうして立ち上がった一ノ瀬先輩に、井上先輩がとても真剣な顔で言う。
「倫」
「……なに?」
「俺も行くぞ。幼馴染だし、心配だからな」
「おんなじことを何回も言うな!」
そのやりとりに思わず吹き出していると、二人からじろりと睨まれた。
井上先輩は幼馴染という関係性に絶大なアドバンテージがあると思っているようで、その姿勢は終始一貫していた。
それを心底認識させられたダーナウを出て、僕らはまた電車に乗り込んだ。
一ノ瀬先輩の隣をがっちりキープした井上先輩に苦笑しつつ、僕は彼らと向かいの席に腰を下ろした。
こうして二人を眺めると、やはり傍目にはお似合いの二人である。幼馴染ということで何か収まりがいいように見えるのだろうか。
「気のせいでしょ」
じゃあ、ただ美男美女ってだけか。
「そもそも幼馴染ってそんなに特別なことなの?」
異性なら特別な感じがする。子供のころというのは、どうしても異性と交流を持つのが恥ずかしい。その壁を越えて築いた関係は、そう多いものでもないと思う。
しかし、それを築くのは環境でもある。親同士の交流だったり、家が隣同士だったり、そういう交流せざるを得ないような環境においてやっと異性の幼馴染が生まれるのだと僕は勝手に思っている。
「ふぅん」
トリカはあんまり興味がないようだ。まあ、これだけ泰然として自信に溢れている少女には、こんな人間関係の機微など些事でしかないのだろう。
「そうは思ってないわよ。ただ、私は人間関係が希薄だったからね……」
自嘲、あるいは憂いを帯びたなんとも言えない声のトーンだった。
トリカにナイーブな一面があるとはまったく思わないが、常識的に考えれば安易に踏み込んでいい問題ではないと思うので、トリカの希薄な人間関係については触れないことにした。
「あなたね、いい加減大前提として私が女であることを認識したらどう? 私にも繊細で純真な乙女心があるの」
僕は両手で顔を覆った。周りに笑っている顔を見せないためだ。
いや、勘違いしないで欲しい。これは自分を嘲る笑みなのだ。もう本当に申し訳ないと思っている。そうだよ、トリカにだって頑丈メタリックハートもといガラス細工のようなフラジールハートがあるんだ。それをお前ナイーブな一面皆無とか、もうほんと恥を知れと言いたい。こんな銀髪可憐な女の子をつかまえてゴリラだの鬼だの、お前の目は節穴かと! 間違っても人の食べ物を奪うような食い意地の張っている生き物でもなければ、「あれ食べたい」などと人を顎で使うような底意地の悪い女でもない。生物学上大前提としてメス、などと考慮するまでもなく見たまんま女神であらせられるトリカ様に無礼を働く守谷のなんと愚かなことか! 不敬である! もう死刑! 閻魔様、判決は? はい地獄行きィ!
「ふふふふ、アキラ、今夜は覚えておきなさい。体力も貰うから」
明日もテストなので勘弁願いたい。お願い許して大天使トリカ様。
「この決定は揺るがないわ。メタリックハートだからね」
ひぃん。乙女心揺るがせてぇん。
そんなふうに懇願していると、向かいの一ノ瀬先輩と目が合う。彼女は怪訝な顔をしていた。僕が妙な顔をしていたからだろう。学習しない男である。
もうトリカに振り回されまいと腕を組んで目を閉じた。目的地まで貝になっていよう。
「守谷くん、次で降りるよ」
しばらく目を閉じて環境音を聞いていると、一ノ瀬先輩に肩を叩かれた。目を開けると、いつの間にか隣に一ノ瀬先輩が座っていて、向かいには井上先輩が一人で座っていた。
ドアの上の案内表示を見ると、僕の家の最寄り駅より三つ先の駅だった。
「先輩の家の最寄り駅もここですか?」
「そうだよ。菫の家とも近いんだー」
次第に電車の速度が緩やかになり、間もなく駅に到着した。
定期を超えた分の清算をして改札を抜けると、見慣れぬ風景が広がっていた。僕のようなインドア人間は、家の最寄駅と高校の最寄り駅と繁華街の駅しか降りないので、絶望的に地理に疎いのだ。
僕が辺りをきょろきょろと見回していると、一ノ瀬先輩と井上先輩はすでに歩き始めていた。
先のダーナウでのやりとりを顧みるに、井上先輩も菫さんのことを知っていると思われる。まあ、幼馴染の親友のことだからそれも当然かも知れない。もしかして、三人とも幼馴染だったりするのだろうか。
不意に一ノ瀬先輩がこちらを振り返った。
「ここから結構歩くからね。疲れたらおんぶしてあげる」
「わーい! おんぶー!」
「あはははっ! 無邪気すぎでしょ!」
引かれるつもりで言ってみたが、好意的に受け入れられた。一ノ瀬先輩の器の大きさには驚かされる。まあ、先輩から振ってきたこともあるだろうけど。おんぶってあなた僕は幼稚園児ですか。
むしろ僕が一ノ瀬先輩をおんぶしたいくらいだ。理由は伏せるが。
「私には筒抜けなんだけど……」
トリカが白い目で見てくるのをものともせず、僕は先輩たちについていく。
たった三駅の距離だが、知らない土地を歩くのはやはり新鮮である。トリカは当然初めて見る景色だろうが、僕もそうなのだ。
「うふふ、初めての景色を共有したわけね」
その通り。だからなんだという話だが、そういう日常のちょっとした変化が楽しかったりする。
トリカは僕の左前方でふわふわと浮遊しながら、こちらに笑顔を向けた。
「もし私の世界に帰る手段が見つかったら、アキラを招待したいわね。それで向こうでも初めての景色を共有するの。いいと思わない?」
それもいいな。トリカの世界の話は最高に好奇心が刺激される。なにせ話す内容がまるでゲームなのだ。剣と魔法、仲間と冒険、財宝と竜、それらを現実に目にできるなんて夢のような話である。
とはいえ、僕は典型的な一般人だ。力もないのにそんな世界に放り込まれたらワクワクする以前にハラハラしてしょうがないだろう。
「あなたね、そんなの私が守ってあげるに決まってるでしょう?」
ださい。女に守られて行く異世界旅行、ださい。
「アキラって変なところで意地張るわね」
まあ、そういうのは話として聞くだけで僕としては充分なのだ。
そもそも帰る手段を見つけることが最大の難題だろう。トリカがまったくホームシックを起こす様子もないから忘れがちだが、きっと元の世界が恋しいはずだ。最低限、魔力を集める方法のひとつでも探さないとまずいなと僕は感じている。
「別にそこまで……。今のままでも結構楽しいし。あなたが私の世界に行きたいって言うなら、やる気出るかも」
トリカはにっこり笑ってそんなことを言った。どこまで本気なのやら。
先輩たちの後を歩き続けて三十分ほどが経った頃、駅からずっと交通量の多い道路を進んでいたが、あるところで横道にそれて住宅地に入っていく。
僕とトリカが声のない会話をしている間、前の二人も結構会話が弾んでいた。こういうとき先輩と後輩の壁、そして幼馴染とパンピーの壁を感じる。
あーあ、今ここに魔法陣を描いて守谷陽の名のもとにモロとトシを召喚したい。それでこの寂しさを埋めて欲しい。
「女々しいわね……」
トリカが冷めた目で見てくるのをものともせず、僕は先輩たちに忍び寄る。幼馴染の会話を聞いてやろうじゃないか。
「そういやあの新譜買った? マジでいいよ」
「えー、でも井上と曲の好み合わないしー。今回のは私にとってはハズレかなー」
「ばっかとりあえず聞けって。後でうち来いよ。爆音で聞かせたるから」
「遠慮しとく。ていうかテスト勉強するから」
「テスト勉強といえば、お前英語苦手だったよな? 俺が教えてやるからうち来いよ。レッツスタディトゥゲザー、オーケー?」
「一人で勉強したいからいい」
めっちゃ家に連れ込もうとしてる――!
その積極性に恐れおののくと同時に、きっと井上先輩は一ノ瀬先輩を射止めるだろうと確信した。こうもわかりやすく好意をアピールし続ければ、そのうち一ノ瀬先輩も好意を持つようになるはず。それが人間の習性だからだ。
今でこそ一ノ瀬先輩はそっけないが、あるとき井上先輩が他の女と話しているのを見たときに気付くのだ。「あれ、今なんで嫌な気分になったんだろう」それがきっかけ。今まであんなに私にアタックしていたのにどうして他の女と? という嫉妬から始まり、それが恋だと自覚したらあとはもうノンストップだ。
「あなたの想像力も凄いわね。確かにありそうな話だけど」
トリカが感心したように頷いていた。
再度「この恋は終わった」とトボトボ歩いていると、前の二人の足が止まった。
「ここだよ」
一ノ瀬先輩の手が示す先には、ありふれた一軒家があった。車が二台止められるスペースがあるが、ひとつは空いていた。
ここが菫さんの家のようだ。
玄関前に来ると、一ノ瀬先輩は自身の胸に手を当てて深呼吸していた。それを見た井上先輩が肩を叩く。
「俺もいるから安心しろって」
「はは、あんたでもいないよりはマシか」
一ノ瀬先輩が苦笑いを浮かべて言った。相当に緊張しているようだ。
僕は僕で緊張していた。この二人は菫さんと面識があるわけだが、僕は完全に部外者である。
一ノ瀬先輩がインターホンを押すと、優しそうな女性の声が返ってきた。そして「今開けるね」といってインターホンは切れた。
まもなく扉が開き、ショートヘアで細身の女性が現れた。菫さんの母親だと思われる。
「倫ちゃんに大ちゃん、いらっしゃい。あら、あなたは?」
目を向けられた僕は、慌てて自己紹介をする。
「はい。えーと、守谷陽と言います。一ノ瀬先輩の……後輩です」
自分で言っておいてなんだか、関係性が希薄で内心苦笑いしてしまう。知り合いだと他人行儀で印象が悪いし、友達とはとても言えない。
「守谷くんね。どうぞ、入って入って」
「お邪魔します」
一ノ瀬先輩を先頭に、僕らも家の中に入る。
脱いだ靴を揃えていると、一ノ瀬先輩が「菫に挨拶をしたい」と申し出ていた。菫さんのお母さんは静かに頷き、仏壇のある和室に案内してくれた。
重い雰囲気の中、僕らは厳かに線香をあげた。
その間、特に菫さんの声が聞こえるということもない。一ノ瀬先輩はそのあたり気になっているのか、顔がこわばっていた。
これで何か変化があるとは思わないが、一ノ瀬先輩は違うだろう。なにせ霊がペンギンに宿っているのだ。
三人とも手を合わせ終えると、一ノ瀬先輩が僕に目を向けた。「これからどうしたらいい?」という視線だった。
トリカ、霊はまだいるよな?
「ええ」
写真に写り込んだ菫さんの意図が家に呼ぶことであるなら、ここに何か未練となる原因があるはず。菫さんは一ノ瀬先輩に何をして欲しいのだろうか、何を伝えたいのだろうか。
僕の動向を窺っている一ノ瀬先輩に囁く。
「部屋……菫さんの部屋に入ってみましょう」
「……わかった」
一ノ瀬先輩はすぐに菫さんのお母さんに確認を取る。
細身の女性は頬に手を当てた。
「かまわないけど、結構ごちゃごちゃしてるのよ。ほとんど片付けをしてないから」
「大丈夫です」
そんなやりとりを経て、菫さんの部屋に入ることができた。
まず目についたのはぬいぐるみだった。ベッドの上に熊のぬいぐるみが置いてあった。学習机の上や棚にも可愛らしい小物の類が並べられている。いかにも女の子の部屋だった。
ほとんど片付けをしていないとお母さんは言っていたが、掃除はしているようだった。簡単に片付けられるものでもないのかもしれない。
一ノ瀬先輩の表情は固い。亡くなった親友の部屋に入ったことで、いろいろと思い出が蘇ったのかもしれない。
部屋に入って数十秒ほど立ち尽くしていると、不意に女の子の声が聞こえた。
“倫っ……!”
菫さんの声を聞いた一ノ瀬先輩がびくっと肩を揺らした。
その背中に声をかける。
「今、先輩を呼びましたね」
「う、うん」
そんな会話に井上先輩が怪訝な顔をしていた。彼には聞こえなかったのだろう。
今の菫さんの声からも、この部屋に未練の要因があることは明らかだ。
かといって僕がこの部屋を物色するのもどうだろう。デリカシーに欠ける。
そんなことを思っているとき、トリカが声を掛けてきた。
「私の力を使わずともここまで来ることができたじゃない。魔力を認識できる力が役に立ったわね?」
そのトリカの言葉は、先程の僕の考え――霊の未練を推理するのに霊を認識できる能力が必ずしもいるだろうか――に対する反論だと思われた。しかし、実際には未練の在り処がわかっただけで、未練の内容がわかったわけではない。しかもこの場所に来たのも井上先輩のおかげである。
「それはあなたが写真の霊について話したからでしょう? まあ、確かに未練については判明してないけど、そこは私が協力してあげる」
トリカはふわふわと一ノ瀬先輩に寄っていき、ブレザー越しにスマホに刺さっているペンギンに触れた。
何をしているの?
「声を聞いたのよ。本当に儚い霊だからちょっとしか聞き取れなかったけど、“机”って言ってたわよ」
机! つまり、そこに何かあるということだ。
僕はさっそく一ノ瀬先輩にそれを伝えた。
「先輩、机に何かあるみたいです」
「机? わかった」
一ノ瀬先輩は机に近付き、まず机上を眺めた。教科書の類や写真、ペン立て、小物などあるが、それっぽいものはない。
続いて先輩は引き出しを開け始めた。鍵が付いている引き出しは避けて、それ以外のものから開けていくが、やはりこれというものはないようだ。
先輩は鍵付きの引き出しに手を掛けた。鍵はかかっていなかったようで、引き出しは動いた。
しかし、わずかに開けたところで先輩は引き出しを戻した。
「開けてもいいのかな……」
先輩は鍵付きの引き出しを開けることに躊躇いを覚えていた。
親友のプライベートなことがそこにあるのかもしれない。しかし、もう亡くなっているし、他のところはもう開けてしまっている。
僕は背中を押してあげることにした。
「僕が開けましょうか?」
「……ううん、私が開けるよ。ありがとね」
「いえ」
僕のような他人に開けられるくらいなら、先輩が開ける方がいいに決まっている。
意を決した先輩が、鍵付きの引き出しに手を掛けた。
引き出されたそこには――綺麗にラッピングされた袋があった。
先輩はそれを取り出すと、机の上に置いた。そしてそれをしばらく見つめていたが、不意に目を見開いた。
「これ、もしかして――」
一ノ瀬先輩は、震える手でその袋を開けた。
袋の中に入っていたものは、一枚のカードと花を模した二つのシュシュだった。
先輩はカードを手に取り、メッセージを読み始める。すると、先輩はその場にくずおれた。
「菫……っ」
座り込んだ先輩は、震える声で親友の名前を呼んだ。
嗚咽の声が漏れ、やがて幼い子供のように声を上げて泣き始めた。
それを見た井上先輩がどうしたものかとオロオロした後、ただ黙って一ノ瀬先輩の傍に座った。
……あのシュシュは生前の菫さんから一ノ瀬先輩へのプレゼントだ。一ノ瀬先輩の誕生日かなにかは僕にはわからない。でも間違いなく祝福の気持ちが込められた親友へのプレゼントだ。
未練。これを渡せなかったことが未練。トラックが迫り来る死の淵で、何より先に思ったことがこのプレゼントなのだ。霊として残るほどに、このプレゼントを渡して祝福したかった。
僕は袖で目を拭った。何度も。
「未練は晴れたようね」
トリカの言葉通り、スマホが入っているポケットから光の粒子が舞い上がり、天井を越えて消えていく。
そのとき、一ノ瀬先輩が不意に顔を上げた。
「ありがとう、菫……!」
この世を去っていく菫さんに先輩は感謝の言葉を伝えた。僕には聞こえなかったが、菫さんも親友に何か言葉を残したのだろう。
菫さんの気配がなくなると、その喪失感からか一ノ瀬先輩はまた涙を流した。
泣きじゃくる小さな背中に井上先輩がそっと手を添えた。
僕はただその場に立ち尽くし、一ノ瀬先輩が泣き止むのを待った。




