先輩のそこはかとない余裕
二年生の教室は三階にあるのだが、川崎先輩と一ノ瀬先輩がどのクラスなのかは知らない。
上級生のテリトリーに足を踏み入れるときはいつも緊張してしまう。放課後であることは幸いだった。
三階まで上ってくると、早足で廊下を歩く。教室の中をチェックし、川崎先輩たちがいなければ即通過する。
四組の教室の前を通ると、中にセミロングのエロい先輩とおさげのイケてる先輩が深刻そうな顔をして座っていた。吉報を届ける男がここに参上。
そっと教室に入り、先輩たちのもとに近付く。
「あ、守谷くん。見つかったの?」
僕に気付いた川崎先輩がそう尋ねてきたので、手を広げてペンギンを一ノ瀬先輩に見せる。
「はい。ペンギンってこれであってますか?」
すると、一ノ瀬先輩の顔がぱあっと明るくなった。
「見つけてくれたんだー! ありがとー!」
ペンギンを受け取った一ノ瀬先輩は、もう失くさないと言わんばかりに胸の前でぎゅっと握りしめた。
そして前のめりに聞いてくる。
「どこで見つけたの?」
「体育館と小体育館の間に落ちてましたよ」
そう教えると、一ノ瀬先輩は腑に落ちたように頷いた。
「あー、今日あそこで集会があったから、行く途中で落としたのかも」
通路からは幾分離れたところにあったが、おそらくは誰かに蹴られでもして遠くに言ってしまったのだろう。
とにかく見つかってよかった。安堵した一ノ瀬先輩の表情を見ると心底そう思う。
「おーい、一ノ瀬たち何話してんの? なんか楽しげだけど」
教室に残っていた男の先輩が声を掛けてきた。もちろん僕の知らない人である。
こうして気軽に話しかけられる様子を見ると、やはり一ノ瀬先輩や川崎先輩はカースト上位であることが窺える。僕のように男友達ばかりつくっている人間とはステージが違う。
さて、一年坊の僕にとっては死ぬほどいたたまれない状況に変化したので、さっさと退散することにした。
「じゃあ、僕はこれで失礼しますね」
「あ、待って! 何かお礼させてよ」
そそくさと教室を出ようとすると、一ノ瀬先輩の制止の声が届く。
「いえ! たいしたことしてないんで、それじゃ!」
知らない先輩たちの好奇の視線に耐えられず、足早に教室を後にした。
廊下を早足で歩いていると、様子を見ていたトリカが半笑いで言った。
「ちょっと精神力が弱すぎじゃない?」
「戦略的撤退、弱すぎってのは撤回しとくべき絶対」
「わ、へんてこな歌でごまかしてきたわ」
……そういえば、あのペンギンに憑いている霊について探るのを忘れていた。
まあ、いいか。
結局、雨脚は弱まったものの完全に止むには至らなかった。
濡れ鼠になって家に帰ってくると、黒猫が出迎えてくれた。
「おかえり。傘持っていかなかったの?」
ミカはそろそろと僕に近付き、湿ったスラックスを前足でぺしっと叩いた。
「ただいま。あえて置いてきたんだよ。水も滴る良い男、だろ?」
「ふーん」
ミカは大して興味も示さずにリビングの方へと引っ込んでいった。つれないヤツめ。
制服を着替えてリビングに行くと、トリカとミカがテレビの前にあるソファを陣取っていた。
テレビは大相撲を映しているが、それを見た母が素っ頓狂な声を上げた。
「あれ? 勝手にテレビついた?」
どうやらトリカかミカがリモコンを操作したらしい。
怪訝な顔をしている母に僕が声をかける。
「ただいま。僕が今つけたよ」
「あ、おかえり。気付かなかったわ」
腑に落ちた母は、台所の方へと歩いていった。どうやら料理中だったようだ。
トリカの隣に座り、肘掛けを陣取っているミカを抱えて膝に乗せる。
そして咎めるように言う。
「おまえら~お母さんには見えてないってわかってんのかぁ?」
「ほらアキラ! ハルマフジの取組が始まるわ!」
トリカは意に介さず、相撲に熱中していた。この俊敏な力士がトリカのお気に入りのようだった。
僕は最近横綱になった稀勢の里がお気に入りである。なかなか優勝できなかったところも含めてキャラが立っていて良いと思う。
「あーん、卑怯な手を使われたわ……」
相手の力士に変化され土をつけられてしまったようだ。
ミカの背中をなでながら僕は学校での出来事について回想していた。一ノ瀬先輩の制止を振り切って逃げるように帰ってしまったのは、さすがに印象を悪くしただろうか。いやでも完全アウェイの地で和気あいあいと話せるようなメンタルは持ち合わせていないし……。そもそも見つけたのはトリカだから礼を受けるのも違うし……。もっといえば探し物を見つけたくらいでお礼なんて……。
過ぎたことはしょうがないとしつつも、もっとスマートにできなかったかと後悔してしまう。
いや、うじうじするのはよくない。こういうものは切り替えが重要なのだ。
視線を下に落とし、黒猫に声をかける。
「ミカは今日なにしてたの?」
「んー、ユリの家に行って寝てた」
「寝てばっかだな」
「猫ってそういうものだし」
そう言って黒猫はあくびをした。ミカ曰く眠らずにいることもできるようだが、やることがないから寝ているのだそうだ。
ミカは基本的に夜の間は我が家に居るが、それ以外は吉岡さん家ないしその周辺をうろついている。言うなれば吉岡さん家は実家で、こっちは間借りしている家のような感じだ。
美咲ちゃんに自身の存在を感づかれないように吉岡さん家から離れたわけだが、やはり寂しいのだろう。
今の僕にできることは、家に居る間は思いっきり構ってやるくらいのものだ。
「うーん、めっちゃ温かいなミカは。うりうり」
「アキラ、邪魔、うざい。あっちいって」
◇◇◇
それからしばらく何もない日々を過ごし、いよいよテスト週間に入った。
とはいえ帰宅部の僕にはあまり関係ない話である。テスト週間とはつまり、部活動が休みになるということだからだ。
卓球部に所属しているトシは放課後になるといきいきとし始めた。
「この後どうする? マッダーナウ行く?」
「めっちゃウキウキしてんなお前……」
モロがその様子を見て呆れていた。
「高校入って最初のテストで躓きたくないから勉強するよ俺は。順位も上位は貼られるみたいだしよぉ」
「いやいや、中間なんて楽勝だから。授業でやったところが出るんだから。普段から真面目にやっときゃテスト勉強なんてする必要ないんだよ」
「なんでまだ受けてもねえのにそんなことがわかんだよ。人生二週目かお前は」
「先輩から聞いたんだよ。陽も遊びに行こうぜ? なあ?」
モロが嘆く一方で、クールなトシが珍しく遊びたがっていた。
トシの言ったことは確実に優等生のそれである。正直、モロが普段の授業をしっかり受けているとは思えない。むろん、僕もそうだ。ギリギリになって勉強して詰め込む典型的なパターンである。
つまり、この三人の中ではトシだけが優等生なのだ。こいつの口車に乗せられて遊びに行ったら、痛い目に遭うのは僕たちである。
「いや、トシ。せっかくの誘いを断るのは心苦しいけど、僕も勉強するよ」
「はぁ~? 陽もかよおい~」
トシが心底がっかりといった感じの溜息をつくと、モロが正論を述べる。
「つかそういうのってテストが終わってからの話だろ。いくら部活がないとはいってもよぉ」
「うるせー! 俺はな、今めちゃくちゃ遊びたいんだよ!」
これがテストがイヤで現実逃避しているならまだしも、勉強ができるヤツの台詞なのだからたまらない。もちろんテストはまだ実施されていないから正確なトシの実力のほどはわからないのだが、これまでの言動を顧みても頭は良い方だと推測できる。
モロはカバンを肩に引っ掛けて、教室の外に足を向けた。
「んじゃ俺はけーるわ。ヤマ張る作業で忙しいからな」
「ヤマもくそも授業でやったところだっつってんのに」
「けっ! じゃあそれを覚えてくらぁ」
そう言い捨ててモロは一足先に帰った。
それに続くようにして僕も席を立つ。
「おい陽ぁ、飯食いに行こうぜ? ゲーセンでもいいし。な?」
「いやーさっきモロも言ってたけど、そういうのはテストが終わってからの方がいいよ。そしたら僕らも付き合うしさ」
「はぁ~、……まあ、しょうがないかぁ」
トシは渋々と言った様子を隠そうともしなかったが、受け入れてくれた。
その後トシと一緒に駅まで歩き、そこで別れた。
電車の中。
僕が座席の端っこに座る一方で、トリカは相変わらず他人のスマホを覗き込んでいた。目を見張ったり、クスクスと笑ったりして楽しげな様子だ。
電車内は静かでまばらに座っている人たちは一様にスマホに目を落としている。こう見るとなんだか異様というか、スマホは本当に便利なものなんだなと思わせられる。
しかし、ときに風情を失くさせるようにも思うのだ。こういう移動中の待ち時間なんかは別に良いと思うのだが、例えば食事中だとか、家族団らんの時とか、そういうときにもスマホに目をやっている姿は客観的に見ると気持ちの良いものではない。
そんなことを考えていると、隣に同じ高校の女子が座ってきた。今の車内は閑散としているのにわざわざ。
それが僕はちょっと嬉しかった。
この隣に座った女子は大して考えていないだろうが、今のシチュエーションは女子に嫌悪感を抱かれるかどうかを確認できる絶好の機会なのだ。
「人間って面倒なことを考えて生きてるわね」
トリカがふわふわと寄ってきた。
自然とそういうことを考えてしまうのだ。トリカだって他人に嫌悪感を抱かれたら悲しいだろう? そういうことにならないように人はいろいろと気を遣うのだ。
「元の世界では私に嫌悪されたくない人間が死ぬほど気を遣ってくれたわね。相対的に見れば、アキラは私にかなり無礼を働いているわ」
無礼を働いているつもりはない。むしろ浮世離れしたトリカにも自然に接しているのだから、ありがたく思ってほしいものだ。
「ふふ、自然すぎて時々驚くこともあるけどね」
その言葉の意味を考え、僕はぞっとした。
最近はすっかり忘れていたが、トリカは封印されるような存在である。先の言動からも分かる通り、元の世界におけるトリカはめちゃくちゃ恐れられる存在だったと想像できる。
そんな化け物を相手に僕の自然すぎる言動の数々! 食い意地の張った女だとか、綿埃と黒フェルトの集合体だとか、パラメータはゴリラで見た目だけ美少女だとか、悪意なき悪口を頭の中で思ったり実際に言ったりした。
僕があまりにもナチュラルに悪態をつくものだから、トリカは僕の身の程知らずっぷりに驚き、サクッと殺しそうになったことがあったのかもしれない。実際には頭を小突かれたり、チョークをかまされたりする程度で済んでいるが、これは殺すのをこらえた結果なのかもしれない。
「あなたは私を暴君とでも思ってるの?」
表面上はそう見えずとも内に隠された本心はわからない。僕はトリカと違って心の中は読めないからな。
「確かにあなたの身の程知らずな言動には驚くけど、それはむしろ歓迎するわ。元の世界では私の顔色を窺う人間ばかりだったからね」
そしてトリカは笑顔で続ける。
「今みたいに遠慮のない関係がいいわ。それこそが友人というものでしょう?」
一瞬その笑顔に見惚れたが、ひとつ疑問が浮かんだ。
トリカは食い意地の張ったゴリラだが馬鹿ではない。ならば、力を誇示することなく人畜無害を装うこともできるはずだ。それにもかかわらず、トリカの顔色を窺う人間が多かったという。なぜ?
その疑問に反応してトリカが僕の膝の上にドスン! と座ってきた。たいして重くないとはいえ危うく声が出るところだった。
「いいところを突いたわね。なぜ私が恐れられるか。それは私が群衆の前でやむを得ず魔物を一掃したことがあったから。よかれと思ってやったけど、私の圧倒的な力に対して人間は畏怖の目を向けるばかりだったわ」
なるほどね。魔王を倒した勇者がその強さのあまり迫害されるといった話はフィクションでもたまに見かける。
そう考えると、善意から行動を起こしたトリカが不憫である。もし僕もその状況に居合わせたら、こんなふうに話すこともできなかったのだろうか。
僕の膝の上に乗るトリカが身体をひねって半身になり、僕の顔の輪郭をなぞるように指を這わせた。
その顔には艶美な笑みが浮かんでいた。
「アキラはすでに私の力を見てるでしょう? それで何か変わった?」
……いや、変わっていない、と思う。
トリカに対する恐怖のピークは出会ったときだ。意思の疎通ができることがわかってからは恐怖心も薄まった。
「つまり私が何を言いたいかというと、アキラが何を言っても私は寛容な精神で受け入れるから、何も遠慮しなくていいのよ、ということ」
じゃあアイアンクローとかもやめてくれよ。
「あら? それはコミュニケーションのひとつでしょう?」
満面の笑みで返された。物は言いようである。
トリカの理屈に思わず苦い笑みが浮かんだ。
「何が面白いのー?」
そのタイミングで隣に座っている女子に声をかけられた。驚いてそちらを見ると、見覚えのある顔があった。
「え。……あ、一ノ瀬先輩」
ゆるく巻いた髪を二つに結って下ろしているイケてる先輩が、ちょっとムッとした表情で僕を見ていた。
「守谷くん、全然私に気付かないから、ちょっとショック」
「すみません。ぼーっとしてました」
「ね、なんで笑ってたの?」
一ノ瀬先輩は興味津々といった様子で尋ねてきた。
まさかトリカのことを言うわけにもいかず、適当にごまかす。
「いやーその、思い出し笑いです。僕の友達がプリンスのことをプリンセスと言い間違えたときのことをふと思い出しまして……」
「えー、なにそれー」
くすくすと先輩が笑う。可愛らしいなと思った。
「そろそろテスト始まるけど、守谷くんはちゃんと勉強してる?」
「そうですね。最初のテストですし」
「そっかー。えらいえらい。守谷くんは真面目な子だねー」
なんだろう、女の先輩にそういうふうに言われるとなんだか変な気分になる。
ちらっとトリカを見ると、何故か不機嫌そうな顔をしていた。
それからテスト勉強なんかの話を少しした後、先輩はごそごそとスマホを取り出し、イヤホンジャックに差されているペンギンを見せてきた。
「前にさー、守谷くんがこれを見つけてくれたでしょ?」
「はい」
「これ見て何か変だなーって思うことある?」
それはどういう意図の質問なのだろうか。
単にデザイン的な話なのか、あるいは魔力を帯びた、つまり霊が憑いている話なのか。
判断できないので当たり障りなく返す。
「変とは思いませんけど。まあ、そういうアクセサリー自体が僕には縁がないものですから」
「そっかー」
一ノ瀬先輩は、ちょっと残念そうに肩を落とした。
そんな態度が気になったので、少し探りを入れてみる。
「……何か、気になることでもあるんですか?」
「ううん、なんでもないんだけどね」
先輩はにこっと微笑んだ。
こう、なんとかしてあげたくなるオーラを出されると男としては手を差し伸べたくなるが、昨今の草食系男子を地で行くような僕にはおよそ無理な話であった。
ちょっとした沈黙に耐えきれず、適当に話題を出す。
「そういえば川崎先輩と仲が良いんですね」
「うん、意外と気が合うし、気が楽だよね」
「へ、えー」
気が合う、ということは、もしかしてこの先輩もビッ……的な感じなのだろうか。
そんな考えが表情に出ていたのか、一ノ瀬先輩は笑った。
「あはは、私は男をとっかえひっかえはしてないよ。ていうかできないしね」
「そうですか。いやちょっとホッとしましたよ。うちの高校は川崎先輩みたいな人ばかりなのかと」
「んなわけないじゃーん。千穂がレアなだけだし、アレ以来そういうのもやめたみたいだしねー」
感慨深そうに先輩は続ける。
「千穂も痛い目見たおかげでやっとまともになったのかなって。守谷くんのおかげだね」
「いやいや、僕は居合わせただけですから……。むしろ川崎先輩の元カレたちができた人間だったおかげですよ」
川崎先輩は僕らの共通の知り合いということで、しばらく彼女のことを話して盛り上がった。
「守谷くんって聞き上手って言われない? さっきから千穂の話、引き出しすぎなんだけど!」
「初めて言われましたよ。先輩の口が軽いんじゃないですか?」
「なんだとー?」
そんなふうに和気あいあい話していると、僕が降りる駅に到着した。
「あ、それじゃ僕はここで」
「えー、まだ話したいことあったのにー」
「いやーすみません。また機会があればぜひ」
「うん。またねー」
別れの挨拶を交わし、僕は電車を降りた。
ホームを歩きながら、めちゃくちゃ楽しかったなーと思い返していると、トリカが不機嫌そうに毒づいた。
「私を膝の上に乗せたままよくもあそこまで女と話せたものね」
途中からひざ掛けくらいに思ってた。ごめんな。
心の中で謝るも、後ろから裸締めをくらった。僕は必死にタップした。




