見返りを求めない姿勢
廊下、壁、掃き出し窓、床、四方八方からすぅーっと黒いネズミが現れる。その数はおそらく百は越えているだろう。
その光景を目の当たりにした僕は、気持ち悪さのあまり鳥肌が立っていた。
僕が硬直している間、ミカはネズミに食らいつき、トリカはオールのような形の魔力でネズミを叩いていた。戦闘はすでに始まっているのだ。
「吉岡さんは二階に行ってて!」
春待の指示が飛ぶやいなや吉岡さんは迅速に居間を出ていった。
辻村先輩は居間の端に立ち、場を静観していた。その代わりに武蔵は刀を抜き、壁を伝うネズミを一刀で切り伏せる。
「今回はこっちの人数が多いせいか、ネズミの数も多いわね。トウジとサムライはしっかりやりなさい」
「おうよ、任せろ」
トリカの上から目線な物言いに、頼りがいのある返事をする春待である。
僕は、トリカやミカの行動するスペースを確保するために一旦廊下に出た。
改めて居間を眺めると、黒い塊がうようよと蠢いているのが見えた。この中に赤目のネズミがおり、そいつを倒せば他のネズミも消滅すると思われる。
僕は血眼になって赤目を探したが、なかなか見つからない。ミカたちがネズミをどんどん倒しているのだが、数が変動しているように見えない。減ったところから増えている。
足元に這い寄ってきたネズミを、思わず踏み潰す。砂のような感触の後、消滅した。
「気持ちわり」
僕でも倒せる程度に分裂したネズミは雑魚である。
赤目のネズミは表に出てこない可能性がある。こうして分裂したネズミたちに攻撃をさせて、自分は身を潜めるという習性があるかもしれない。攻撃が大した事ないので、こちらがやられることはないと思うが。
ふと、上から泣き声のようなものが聞こえた。美咲ちゃんの声だろうか。
これだけの数のネズミがいるのだ。物音も相当なものだろう。居間にいるネズミが全てではないのだ。
うかうかしていると、また逃げられてしまう。しかしこれだけ数が多いと……!
「面倒になってきたわね……。仕方ない。アキラ、こっち来なさい」
言われるがまま、トリカのそばに寄る。その過程で何匹かネズミを踏んだ。
僕が寄るのを確認したトリカは、自分の胸の前で右手の拳を握りしめ、それをぱっと開いた。
すると、手を起点にして魔力の光が球状に広がった。
その光が僕を通り過ぎる際、一瞬光が消失したような気がした。おそらく、内ポケットに入っている指輪がトリカの魔力を消滅させてしまったのだろう。
「結界を張ったわ。赤目のネズミが中にいるなら、これでもう逃げられない」
なるほど。僕は結界と聞くと、外からの侵入を防ぐものと先入観で決めつけていたが、中に閉じ込めることもできるようだ。トリカの封印を考えれば普通にわかることなのに、見落としていた。
“指輪で出来た穴もちゃんと補修されてるから安心しなさい”
脳裏にトリカの言葉が響く。ネズミの逃げ道はないようだ。
「トリカが移動したら、結界ごと移動するの?」
僕が質問すると、トリカは頷いた。
“指輪もそうだけど、封印の結界と私が張った結界が触れると、私の結界が消滅するから、アキラは常に私の傍にいること。私の結界は言ってみればシャボン玉のようなもので、最初の補修は力技だから次に穴が空いたら弾けるわ”
指輪の封印結界の中にできる限り大きくしたシャボン玉がある状態というわけだ。したがって指輪とトリカの距離を一定に保つ必要がある。
さて、この家からは一旦離れたほうがよさそうだ。家の中にいると壁の中や床の下にいるネズミを見逃してしまう。
結界を見た春待が苦笑いしていた。
「トリカちゃん、そんなことができるなら最初からやってくれよ」
「うるさいわね」
トリカは悪態をついた。
具体的な反論をしないのは、自分の弱みを見せないためだろう。
僕は二階にいる吉岡さんに電話して一度家を出ることを伝え、移動を始めた。
開けた空き地には大量の黒いネズミと、三人の人間、そしてミカとトリカと武蔵が勢揃いしていた。
「いやー、とりあえず虱潰しにしていけば、赤目のネズミも見つかりそうだな」
春待がやれやれといった感じで言った。
それに反応したのが辻村先輩だ。
「この結界の外に逃げてなければね。見た感じ直径20メートルくらいだし」
そうか。結界が発動した瞬間に赤目のネズミが結界の範囲にいたとは限らない。
辻村先輩が言ったようにトリカが魔力を使える範囲は指輪を中心に半径約10メートルだ。
“でも私の結界の範囲は直径18メートル程度ね。指輪と同心円状に結界を張れたら良かったんだけど、私は指輪に触れないからね”
要は赤目のネズミが居るか否かという話だ。まずは虱潰しに分裂したネズミを潰していこう。
そうして近くのネズミを踏み潰そうとすると、春待がトリカに声を掛けていた。
「結界を維持したまま範囲を狭めることはできないのか?」
「悪いけどできないわね。拙い結界だから」
「そうか。いや、気にしないで」
確認が済むと、春待はネズミの固まっている方へ向かった。
ミカと武蔵はすでにネズミの殲滅にかかっていた。僕も近くにいるネズミを踏み潰す。
最初は砂のような感触があったが、どんどん綿のように軽い感触に変わっている。一匹あたりのネズミの力が薄まっているのだろう。
しかし、強度は下っているが、ネズミの数はなかなか減らない。形を留めただけの脆弱なネズミを増やしてこちらの目を撹乱している。
これでは埒が明かないと思い、赤目のネズミを探すことにした。
結界内を歩き回り、ネズミを注視する。すると、これまでミカと同じくらいの大きさだったネズミがサイズダウンし、さらに分裂した。
「おーいマジかよ。これで赤目を見つけるのはむずいな」
春待がぼやいた。
それでも諦めない。強度が下がっているということは、分裂するのにも限界があるということだ。サイズダウンしたことも、その証明だろう。
僕は手当たり次第にネズミを踏み潰し、赤目のネズミを探した。結界が張られている限り、逃げ場はないのだ。
「結界を張り続けるのにも限界はあるわ。あと十五分ってところね」
僕の考えを読んだトリカがタイムリミットを提示してきた。
限界とはつまり、魔力が底をつくということか?
“そう。最近魔力を消費しちゃったからね”
確かに可視化をする機会は多かった。思い返すとファミレスでの姿の再現は特に無駄遣いだった。
時間を提示されると焦燥感が湧いてくる。あと十五分で赤目を見つけられるのか?
考えてる暇はない。とにかくネズミを消耗させることだ。
「見つけた!」
ネズミを踏み始めようというところで、ミカの鋭い声が飛んできた。
少し離れたところにミカがおり、前足で一匹のネズミを押さえつけている。
ダッシュで向かおうと思ったが、トリカの結界を思い出し、目配せしてから歩いて向かう。
春待も駆けつけて、そのネズミを一緒に確認する。
「確かに、目が赤い」
仰向けに押さえつけられた赤目のネズミはじたばたともがいているが、ミカの足からは逃れられない。
「よし、じゃあ確実に仕留めるために武蔵に斬ってもらおう」
春待が武蔵を手招きした。
赤目のネズミは観念したのか、ミカの足の下で動きを止めた。
こちらに来た武蔵は、ミカが離れた瞬間に躊躇もなく刀を一閃し、赤目のネズミを両断した。
「これで終わったのか……?」
しかし分裂したネズミは消えていない。何故だ?
そのとき、辻村先輩が「あ」と声を漏らした。
「今……見間違いじゃなければ、あの中に赤目のネズミがいたけど」
辻村先輩が分裂したネズミの集団を指して言った。
「マジ? 今こっちで斬ったんだぜ?」
春待はげんなりしていた。
僕も呆然としていると、トリカが側に寄ってきた。
「赤目は本体だけど、分裂したネズミに移動することもできるみたい。つまり、まだ生きているってことね」
先日のチホ先輩の件でも霊が移動するところは見た。しかし、今回は移動できるネズミの数が多すぎる。常に数百匹はいるような状況なのだ。
これを一気に全滅させられれば、赤目が移動する隙も与えずに済むが、そんなことが果たしてできるか……?
これまでのことを顧みると、武蔵もミカも広範囲に殲滅する術は持ち合わせていない。春待も僕と同様に踏み潰すくらいしかできないようだし、とにかく攻撃範囲が狭い。
「トリカ、なんとかできない?」
「……魔力さえあれば」
トリカは苦渋の表情を浮かべていた。とにかく魔力が不足しているらしい。
“魔力を使いたくないからサムライやトウジに期待したのに、アテが外れたわ”
トリカは嘆息した。
魔力が足りないなら……僕の体力を変換してもダメか?
僕の提案にトリカは渋い顔をした。
“……限界までくれるなら。多分足りる”
じゃあ使ってくれよ。体力だけなら寿命は減らないんだろ?
しかしトリカはなかなか首を縦に振らなかった。
ミカはまたネズミの集団に突撃し、武蔵も淡々とネズミを斬っていた。春待は中腰でネズミを注意深く観察し、辻村先輩もそれとなく探してくれているようだった。
とはいえ、これではジリ貧だ。結界の時間も限られている。
「トリカ。何か問題があるの?」
僕の体力を吸うことに関しての問いである。
「……明日から休みなんでしょう? 動けなくなるわよ」
僕の休日を潰すことが気掛かりだったようだ。
「馬鹿だな。ちょっと寝てりゃ回復するよ。ラーメンの件も忘れてないし。ゴールデンウィークが何日休みか知ってるか? 正確には覚えてないけど、七、八、九日くらいはあるから、休みが全部なくなることはないって」
僕が努めて明るく言うと、トリカも決心してくれた。
「わかったわ。あなたの体力と魔力を貰う」
僕はブレザーの内ポケットに手を突っ込み、指輪に触れる。
すると、みるみるうちに力が抜けて、立っていられなくなった。
「守谷!?」
春待の驚いた声が聞こえた。
片膝を立てて耐えていたが、力が入らなくなってうつ伏せに倒れた。
声も出せない。まぶたを開けることすら困難だ。
呼吸すらできなくなるのではないかと恐怖したが、ちゃんと息はできるし、意識もまだある。トリカが何をするのか見届けたかったので、僕は必死に目を開け、トリカの姿が見えるようになんとか仰向けになった。
トリカは開いていた手のひらをゆっくり握り始める。華奢な少女の身体から銀色の光が発された。
ふと光の壁が動いていることに気付く。球状の結界が徐々に小さくなっているのだ。先程春待に結界を狭められないと言ったのは、魔力不足が原因だったようだ。
僕のすぐそばの地面からネズミが出てきた。地中に潜んでいたネズミが、小さくなる結界に押されるようにしてあぶり出されたようだ。
光の壁が僕を通過し、結界の外に出される。結界の中に残っているのはトリカとネズミだけになった。
トリカは握りしめた拳を鍵を閉めるようにひねると、すたすたと結界の外に出てきた。直径3メートルほどとなった結界の中には、大量の黒いネズミだけが蠢いていた。
それから球状の結界はさらに小さくなっていき、ネズミたちを圧縮していく。魔力の檻の中で、逃げ場のない黒いネズミたちが右往左往している。
その間に、トリカは手のひらに雷光迸る魔力の弾を形成していた。それを直径2メートルほどとなった結界の中に、缶ジュースでも渡すかのように投げ入れた。
バチバチバチ! という耳障りな音と強烈なフラッシュの連続がしばらく続いた。光でまったく見えないのだが、おそらく魔力弾が結界の中でバウンドを繰り返していると思われた。
すっげぇエグい、と心の中で笑って、僕は意識を手放した。
◇◇◇
目が覚めると、見慣れた天井があった。
どうやら僕は自分の部屋のベッドに寝ているらしい。今何時だ……?
身体を起こそうとしたが、力が入らなかった。筋肉痛はないが、身体がだるかった。
「あ、起きた」
黒猫が僕の腹に乗ってきた。ミカだ。
「ミカ、今何時?」
声がかすれていた。
「今は夕方の五時」
「五時?」
確かネズミ退治をしていたのが午前一時くらいだから、十六時間ほど寝ていたことになる。
「あれ、さすがに二日目ってことはないよな?」
「うん。一日は経ってない」
そう答えた後、ミカは布団ごしに僕を踏みつけた。
「もう、すごく暇だったんだから」
「それは申し訳なかったけど、トリカは?」
「ちょっと寝るって言って消えた」
どうやら指輪の中に引っ込んでいるようだ。
ミカからあの後の顛末について聞いた。
まず、春待たちはネズミの件が解決したことを吉岡さんに伝えてくれたらしい。吉岡さんの父親が登場したので詳しい話はできなかったようだが、吉岡さんは心底安堵した表情をしていたとのこと。そして春待が僕を背負ってここまで運んでくれたらしい。
「めっちゃお世話になってるじゃん……」
「あの女は『置いてけば?』って言ってた」
「辻村先輩は本当に性格が悪いな」
「ね」
ミカの顎の下をわしゃわしゃしつつ、なんとか起き上がる。
今日が休みでよかった。もし平日だったら学校には行けなかったな。
ベッドから出ると、自分が昨夜の服装のままであることに気付く。ブレザーはハンガーに掛けてあるが、ワイシャツとスラックスはそのままだった。
ブレザーからスマホを取り出して見てみると、メールが一通来ていた。
「吉岡さんからだ……」
その名前を見て胸がときめいたのだが、昨夜の僕は気絶して春待に背負われていた男である。わかりやすく足手まといとなっていた僕を見て、吉岡さんは一体何を思っただろうか。
それを考えるとメールを開くのが怖くなってくる。
とはいえ見ないという選択肢はない。意を決してタップする。
「……ふー、お礼のメールだったか」
吉岡さんらしい丁寧な文章でお礼が書き綴られていた。高校生のメールとは思えない固い文章だったので、どう返信すべきか悩む。
悩んだ末に返信は保留にして、またベッドに戻った。
しばらく吉岡さんのメールを眺めてにやにやしていたが、ミカが何か落ち着かない様子だった。
「どうしたの?」
「あのね、残念な話なんだけど、ユリがハルマチのことを好きになったかも」
「ひょっ!?」
僕はミカの脇に手を入れて宙に掲げた。
「なぜ!? 根拠は!?」
「熱っぽい視線とか、赤くなった顔とか。下ろして」
「それじゃ確定じゃん! えー!? なんで!?」
「ユリがね、『どうして面識のない私たちのためにここまで協力してくれたんですか?』って言ったら、ハルマチは、『こんな家族思いの優しい子が困ってたら放っておけないだろ』って言ったの。それが効いたみたい。そろそろ下ろして」
「なんだそれ!?」
そんなこと普通言うか!? それで惚れちゃう吉岡さんもちょろすぎない!?
「ユリ、自分から連絡先も教えてた」
「自分から!?」
「横結びの女が不機嫌な顔してた」
「そらそうでしょ!」
「ハルマチはいつもと変わらない顔で連絡先を交換してた」
「鈍感!」
元から力の入らない身体からさらに力が抜けていった。
ミカを下ろして、僕は仰向けになる。
「別に吉岡さんとどうこうなろうとは思わなかったけどさ、なんか報われなー」
「わたしはアキラに感謝してる」
「……なんつーか、ミカって猫っぽくないよな」
「厳密にはもう猫じゃないし」
どこか寂しげなミカを撫でてやる。
「ミカはどうすんの? 吉岡さんのところに戻る?」
「ユリの家で暮らそうとは思ってない」
「そっか」
「あのね、わたしこの家に居たい。アキラとトリカはわたしのことが見えるし」
じっとミカが見つめてきた。翡翠色の目に吸い込まれそうだ。
「ああ、別に好きなだけ居たらいいけどさ、春待たちも見えるよ?」
卑屈になっている僕はついそんなことを言ってしまった。
「ハルマチはダメ。あの女が怖いから」
「あー、なるほどね」
「女がいなかったとしてもわたしはこっちがいい。アキラたちのこと気に入ってるから」
こいつ、猫のくせに僕の心を持っていくつもりか? いや、見た目だけで人を支配する猫だ。言葉を使えるならこうして取り入るくらいわけないだろう。
ともあれ寝ている間に失恋していた僕には、ミカの言葉が地味に嬉しかった。
「やだやだ、猫に慰めてもらうなんて情けないわね」
微弱な光とともにトリカが現れた。
「……なんか、薄くない?」
トリカの姿が透けて見えるのだ。それと、なんか画質の悪い動画のような粗さもある。
「魔力がないから仕方ないでしょ。アキラから魔力を貰えばそのうち戻るわ」
「そうか」
その不満気な顔を見て、昨夜のことを思い出す。
「そういやさぁ、ネズミをやっつけたときに使ってた魔法だけどさ、あれオーバーキルじゃない?」
「念には念を入れたまでよ。万が一倒し損ねたら魔力の無駄になるじゃない」
「そうだけども」
まあ、済んだことだからいいか。
「それより忘れてないでしょうね? ラーメンのこと」
「忘れてないよ。でもさ、僕の体力を使ったわけだし、トントンにはならないわけ?」
「うっ」
トリカは虚をつかれて妙な声を上げていた。苦り切ったその顔を見て思わず笑ってしまう。
「冗談だよ。僕も食いに行きたいしさ」
そう言うと、トリカは意地の悪い顔になる。
「どうせならトウジとユリも誘ったら?」
「なんで自ら首を絞めるようなことをしなくちゃいけないんだ」
「居心地悪そうにしてるアキラを見たいから」
「性格悪すぎ!」
そんな会話をしたことで、今回の件が終わったんだなと実感してきた。
いろいろと気になることは残っているのだが、今は身体を休めてゴールデンウィークに備えたいと思った。
◇◇◇
月曜日。
ゴールデンウィークとはいえ、平日が休みになるわけではない。土日を休んで月火と学校に行き、そこから五連休という日程だ。
日曜日はほとんどベッドの上で過ごしていたこともあり、あっという間に月曜日がやってきたような気持ちである。休んだ甲斐もあって体力はだいぶ回復した。
「ミカよりも寝てたわね」
ふわりと浮かぶ銀髪少女がからかうように言う。
「そのおかげで、わたしはアキラのご飯を食べられたけど」
ミカがすたすたと僕の少し前を歩いている。妖怪化したといってもやはり魚は好物のようだった。
今は清々しい気持ちで学校に向かっているところである。朝日の眩しさに目を細めながら駅に続く道を歩いていると、おかっぱ頭のシルエットが立っていた。吉岡さんとこうして会うのはネズミ退治以来だ。
「おはよう」
「おはようございます。あの、メール見ました?」
「あ」
そういえば、返信するのを忘れていた。春待に惚れた疑惑を聞いてショックを受け、メールのことなど吹き飛んでいた。
「見たけど、返信するの忘れてた。ごめん」
「いえ、届いてたなら良かったです。先日は本当にありがとうございました」
吉岡さんは深々と頭を下げた。
「いやいや! 実際にやってくれたのはトリカやミカや春待たちだからさ。あ、でもトリカとミカはここにいるから吉岡さんの気持ちは伝わってるんだけど」
僕はあたふたして、まとまりなく話をしてしまう。
彼女に顔を上げてもらって、駅に向かって歩き始めた。
「もうネズミは来てないんだよね?」
「みたいです。おかげさまで、美咲も安心して眠れるようになりました」
「よかったよかった」
安堵しつつ、僕は地味に気になっていたことを尋ねる。
「あの後さ、僕ちょっと寝ちゃって覚えてないんだけど、春待たちが吉岡さんちに行ったんだよね?」
「はい。ネズミがいなくなったことを報告しに来てくれたんですが、玄関で話しているところに父が来てしまいまして、父が春待さんたちを追い返してしまったんです。お二人には申し訳ないことをしてしまいました」
ミカから聞いた話と一緒だが、肝心なところが伏せられている。
僕はダサいと思いつつ、その辺を追求した。
「春待はなんて報告したの?」
「はい。トリカさんがとんでもない魔法を使ってネズミを退治したとか。それと、……いいえ、それだけです」
吉岡さんは顔を赤くし、少しうつむいていた。
僕がそれを見て絶望していると、トリカがこらえきれないといったように笑った。
「うふふふふっ! ユリったら完全に乙女の顔になってるわね」
「アキラ、気を落とさないで」
猫に慰められる始末である。
それから吉岡さんの口数が多くなった。照れ隠しだろうか。
その話の中には、ミカの死を美咲ちゃんに伝えたこともあった。
「ミカは玄関でネズミと戦ったと聞いて、靴箱の下を探してみたらミカの首輪が落ちてたんですよ。それを見せたら、美咲も信じてくれました」
「妖怪化したことは伝えてないんだね」
「はい。死因については事故ということにしました」
それで正解だと思う。ミカは複雑かもしれないが、霊や妖怪の類が見えたところで特に良いことはない。春待や辻村先輩は、小さな頃にそれが見えてしまったことでかなり苦労したと聞いている。
美咲ちゃんはミカ周りのことに関してのみ霊感が働いたようだが、見えるわけではないのだ。もしミカが妖怪化したと聞いたら、ミカを見たいがため、探すために妙な行動をしてしまうかもしれない。それは周囲から見れば奇異なものとして映る可能性がある。
美咲ちゃんには、今回の件はただの鼠害ということにしておいた方がいいだろう。もちろん色々と疑問は抱くと思うのだが。
「霊が見えるおかげで私と出会えたんだから、悪いことばかりじゃないでしょう?」
僕の思考を読んだトリカがにっこり笑ってそんなことを言った。清々しいほど自信過剰な言葉だが、まあ、確かにそうかもしれないな。
「わたしもいるし」
ミカがリュックを足がかりにして僕の頭に前足を掛けた。重いし暑い。
霊によるストレスと、トリカやミカと出会えたことを差し引きすると、現状ではまだマイナスかなと思うのだが、トリカやミカとの関係は今後も続くはず。そのうちプラスに転化していく可能性は大いにある。
話が一区切りすると、吉岡さんが真剣な表情になった。
「あの、守谷さんにお礼がしたいんです。守谷さんが話を聞いてくれなかったら、こうして解決しなかったと思いますから。何かして欲しいこととかありませんか?」
そう言われ、僕は反射的に遠慮していた。
「いやいや、僕はなにもしてないから……」
「そんなことありません。何か守谷さんも困ってることとか、私にして欲しいことがあったら、なんでも言ってください。できる範囲でなんでもします」
「なんでも……」
ただオウム返しに呟いただけなのだが、トリカが白い目で見てきた。
「イヤらしい」
失礼な! その発想こそがイヤらしいと言いたい。僕は何も不埒なことは考えていないのだ。
「じゃあユリに何をして欲しいの?」
それは……。
「はー。あなたの名誉のために黒タイツを穿いて欲しいという願望を持っていることは黙っておいてあげる」
言っちゃってる!
「黒タイツは冬になったら穿いてる。良かったね」
ミカが要らぬ情報を提供してきた。別に聞きたかったわけではなかったが、ありがとう!
俄然冬が楽しみになったが、それより吉岡さんはなかなか強情な様子。とにかくお礼をしないと気が済まないようだ。
しかし、何も思い浮かばない。
「ふふ、見返りを求めない姿勢はあなたの美点ね」
トリカは僕の心がわかってこんなことを言っているのだからたちが悪い。僕だって人並みに見返りを求めている。
ただ、こういうケースにおいては、見返りを求めている姿勢を表に出したくないだけである。見返りを欲しがっている自分の姿があまりにもダサいように思えてしまうからだ。
だから、今みたいに見返りの内容をこちらに委ねられると困る。与えられるものはありがたく頂くが、求めるものはないのだ。
隣を歩く吉岡さんは、僕の目をじっと見ていた。何もいらないは通用しないようだ。
「じゃあ、前にメロン味の飴を貰ったから、別の味の飴が欲しいかな」
「……守谷さん」
吉岡さんはちょっとがっかりしたような顔をした後、カバンから飴の入った袋を取り出し、袋ごと渡してきた。
「全部あげます。でも、私の感謝の気持ちはこの飴玉程度ではないですから」
「ほんとその気持だけで充分だから。ありがとね」
「お礼を言うのは私の方ですってば」
さっそくレモン味の飴を食べようとしたが、またしても手の上から飴が消えた。
「レモンっていうのは酸味が強いのね」
トリカの手癖の悪さに呆れていると、吉岡さんがくすくすと笑っていた。
「もしかして、前もトリカさんに食べられちゃったんですか?」
「はは、うん。実はそうなんだ。よく気づいたね」
「はい。だって、全然舐めてる気配がないですから。今ははっきりと飴が消えるところを見ちゃいましたけどね」
それからトリカの食い意地について吉岡さんに教えながら、学校へと向かった。トリカにはめちゃくちゃ睨まれた。
◇◇◇
四時間目の授業を終えて昼休みになると、春待が教室を訪ねてきた。
モロとトシがモテ男の出現に警戒心を露わにしたので、僕は春待を連れて廊下に出る。
「身体は大丈夫なのか?」
開口一番、僕の体調を気遣う春待である。モテる男は違うね。
「ああ、もうなんともないよ」
「おー、良かった。あのときはいきなりぶっ倒れたからびびったよ」
「家まで運んでくれてありがとな。ほんと」
僕が倒れたことについては、トリカが「重度の寝不足」と説明したらしい。
春待は声を潜める。
「ネズミを退治できたのはよかったけど、あれから梨奈のやつがトリカちゃんのことを危険視してるんだよな。あの魔法を見たらそうなるのもわかるんだけど……」
話題になっているトリカが教室から外に出てきた。
「言っておくけど、好きで魔法を使ったわけじゃないわ。アキラに頼まれたから仕方なく使ったの。私がいかに平和主義者かお分かり?」
「もちろんもちろん。トリカちゃんは何も問題ないんだよ」
春待のフォローにトリカは満足気である。
「まあ、梨奈も何か行動を起こすってことはないと思うんだけど、俺が守谷に近付くのをよく思ってない節があるんだよな。でも俺は気にしてないから、もし梨奈になんか言われても守谷も気にすんなよ? 俺たち、もう友達なんだからさ」
青臭い台詞を真剣に言う春待である。
「わかった。しかしあれだな、辻村先輩ってちょっと過保護だな」
「そうなんだよ! 気持ちはありがたいけど、母親より過保護」
「はははは!」
二人して廊下で笑いあっていると、春待の背後に件のサイドテール般若が現れた。
辻村先輩は僕にひと睨み利かし、春待の肩に手を掛けた。
「うわっ! 梨奈いたのか!」
「藤次、まだご飯の途中でしょ。戻るよ」
「あ、ちょっ! おい梨奈! まだ守谷と話が、あ、ダメだ握力がつええ」
辻村先輩は、春待の腕を取って強引に連れて行った。おっかねー。
引きずられる春待を見送っていると、どこからか吉岡さんが側に寄ってきた。
「声をかけるタイミングを窺ってたんですけど、連れて行かれちゃいましたか」
ミカ曰く、春待に惚れている吉岡さんだから、先日のお礼を言いたかったのかもしれない。
そう思っていると、吉岡さんは不意にくすくすと笑いだした。
「ふふふ、春待さんって恥ずかしい台詞を真面目な顔で言いますよね」
「確かに。でも本人は自然に言ってるし、恥ずかしいとは思ってないんだろうなぁ」
「そんな感じしますよね。だからこそ面白いというか」
吉岡さんは口を手で抑えて未だに笑っていた。どうやらツボのようだった。
◇◇◇
授業を終えて家に帰る道中、僕の弟である京介と女の子が歩いているところを見つけてしまった。
僕は彼らの背後につけて歩いているのだが、どうにも道を違える気配がない。もしかして彼らの目的地は僕の家か? いや、女の子の家が同じ方向という可能性もあるか。
いずれにしても僕は憤慨していた。僕が中学生のときは女子と下校などしたことがなかった。愚弟ごときが生意気である。
「弟に嫉妬しないの」
トリカにたしなめられていると、ミカが驚いた反応を示した。
「え、アキラってそんなに器が小さいの?」
「馬鹿。僕は“器デカ男”って言われてんだぞ」
僕の反論にトリカが冷笑した。
「そのあだ名は初耳だし、この上なくダサいわね」
「うるせー」
僕はある程度距離を保ったまま京介の後ろを歩いた。
後ろから観察しても特に何かわかるというわけではないが、女の子の方はなんとなく可愛い気配がする。身だしなみに気を遣っていそうだし、歩き方がなんとなく清楚。顔はもちろん見えないのでわからないが、後ろ姿は美人のそれである。
しばらく歩いていると、僕の家が見えてきた。ここでお別れするのだろうと思われたが、驚くべきことに女の子も家に入っていった。
「え、なにこれ。これじゃ家に帰れないじゃん」
僕が唖然として呟くと、ミカが疑問を呈した。
「どうして? 鍵を持ってないとか?」
「そうじゃなくて、今僕が家に入ったら完全にお邪魔虫じゃん」
「ふーん」
そう言いながら、僕は躊躇なく玄関の扉を開ける。
それを見てトリカが拍子抜けしていた。
「入るんじゃない」
「当たり前でしょ。僕の家だし」
弟の恋愛事情など知ったことではない。お邪魔虫になることこそが僕の本懐である。
「ただいまー! おらー! 兄貴が帰ったぞー!」
変なことをしているところに遭遇したくないので、僕が帰ってきたことを盛大にアピールした。
「それならさっさと自分の部屋に行けばいいのに」
トリカの物言いは冷ややかだが、顔は笑っていた。
リビングに行くと、女の子と京介がソファに座っていた。特に焦った様子もなく平然としている。
「お邪魔してます」
「お、おー。ごゆっくり」
女の子が毅然とした態度で言うものだから、尻込みしてしまった。
ここで顔が明らかになったわけだが、将来有望な美人さんであった。ストレートな黒髪ロングが似合いすぎている。
「ま、私には及ばないけど」
トリカが自信満々に言ったが、美とは主観的なものであり、僕にとってはトリカとこの子で大して差はないと言いたい。
京介が苦い顔をしているので、さっさと自分の部屋に引っ込もうとすると、女の子の方がソファから立ち上がった。
「あの、すみません。私、西山と言います。お兄さんに美咲の件でお話があるんですけど」
「美咲? 吉岡美咲ちゃん?」
「そうです。その美咲です」
どうやら彼女は美咲ちゃんの友達らしい。
「よく家に遊びに来てた。チトセって子だ」
ソファの肘掛けに陣取ったミカが補足してくれた。西山ちゃんはチトセという名前らしい。
その子が僕に何の用だろうと思っていると、彼女は深々と頭を下げた。
「美咲を助けてくれて本当にありがとうございました」
「え」
僕は突然の事態に何と言っていいかわからず、思考停止していた。
「美咲、最近ずっと元気がなかったんですけど、今日学校で会ったらすっきりした顔をしてて……話を聞いたら京介くんのお兄さんが助けてくれたって。私、美咲と親友だからとても心配してたんです。だから、本当にありがとうございました」
「あ、ああ、うん。いや、僕は大したことはしてないんだけど」
僕は彼女たちの関係が死ぬほど眩しかった。
わざわざ僕のところにお礼を言いに来たことから、彼女がどれだけ美咲ちゃんのことを心配していたかが窺える。それだけ大事に思っているのだろう。
「今日はお礼を言うために来たんです。美咲もお兄さんにとても感謝していましたよ。京介くんもありがとね」
そう言って彼女はペコリと会釈すると、僕の横を通り過ぎ玄関に向かった。京介は慌てて後を追い、見送りに行っていた。
「良い子ね」
トリカが微笑ましいものを見るような目になっていた。
その良い子を見送った京介が、仏頂面でリビングに戻ってきた。
「まさか兄ちゃんが吉岡さんを手助けしてたとはな」
「なんじゃその言い方は」
「別に?」
どすんとソファに腰掛けた京介である。
ははーん、読めたぞ。おそらく京介は美咲ちゃんではなく、あの西山という子が好きなのだろう。親友を心配する西山ちゃんのために美咲ちゃんの件を解決したかったが、何もできずに今日に至ったというところだろう。
もちろん、僕は弟をからかうような真似はしない。兄弟で恋愛のことなど話したくもない。ここはアンタッチャブルな領域なのだ。
「よかったわね。兄弟で姉妹のことを好きになってなくて」
確かに。吉岡さんと僕が恋仲になるのはもはや望めないが、微妙な状況を回避できたことは安堵すべきことである。
これで何も憂うことなくゴールデンウィークを満喫できるなーと思っていると、トリカに頬を引っ張られる。
「忘れてないでしょうね?」
忘れていません。ラーメンの件でしょう。
それはゴールデンウィーク中に行くつもりだ。混雑は予想できないが、まあ大丈夫だろう。
しかし、実際にどこの店に行くのかということについてはまだ決めかねていたので、これからトリカと一緒に決めることにしよう。
自室に入り、トリカとともにスマホとにらめっこした。
「私、このお店がいい」
「これ県外じゃねえか。やだよ」
「女の希望に応えられないからモテないのよね」
「ぐっ」
女の希望に応えられない非モテなので、近場のお店で勘弁してもらった。




