5.帰る場所
「えっと、その……」
思いもよらなかったアレクシスからの誘いに、ヴィヴィアナは咄嗟に返事ができない。
王子の誕生パーティーという特別な行事への参加を養女の立場で勝手に決められないというのも大きいが、何よりヴィヴィアナにはもっと深刻な理由があった。
(タイ海老の悪役令嬢は王太子に執着してたから、できれば殿下との接触は避けないと……っ)
なのにこんなに気軽に自宅で王族とエンカウントしてしまうなんて、自分はまだまだ公爵家の力を理解できていなかった。
(もしこれで私が殿下を好きになっちゃって、タイ海老と同じ行動をとってしまったらと思うと、怖いよ……っ)
ゲームでリヒトに粛清されたヴィヴィアナは、魔力を封じられた上でフィンスター家から追放され、僻地の修道院とは名ばかりの閉鎖施設に生涯幽閉されていた。
殺風景な部屋に閉じ込められたヴィヴィアナのスチルは、学園に君臨していたときの面影はどこにもなく、生きる屍のようでとても恐ろしかったのを覚えている。
(それに、そんなことになったらもう二度とおにいちゃんに会えなくなっちゃう……っ)
リヒトだけじゃない。義両親もフィンスター家で働く人々も、既にヴィヴィアナの中で失いたくない人たちになっていた。
もしヴィヴィアナがゲームのように暴走し闇堕ちしたら、彼らの人生だって巻き込んでしまうかもしれない。
(そんなの、絶対に嫌……!)
想像したヴィヴィアナの身体にぶるりと悪寒が走る。
「ヴィヴィ……?」
ヴィヴィアナの様子に気がついたリヒトが怪訝そうに眉をひそめた。
「おにいちゃん……」
アレクシスの誕生パーティーには行きたくない。
けれどヴィヴィアナが断ったら、それこそ不敬だと言われてしまう行為だ。
自分ではどうしたらいいかわからなくて、ヴィヴィアナは無意識にリヒトの袖をきゅっと掴む。
「……大丈夫、お兄ちゃんに任せな」
潤んだヴィヴィアナの瞳を見て何かを察したのか、リヒトが優しくヴィヴィアナの肩を抱いた。
「悪いねアレクシス。公爵家の人間になったばかりのヴィヴィを、王太子の誕生パーティーなんていう、古狸どもの腹の探り合いの場所には連れて行けないな。お前もわかるだろう? 何に利用されるかわからない」
「……確かに、それもそうだな。俺たちには敵も多い」
「あぁ。最近は面倒な奴らが力をつけてきてるって情報も入ってきてる。……そんなに残念そうな顔をするなよ。代わりに、アレクシスが前に羨ましがっていた俺のコレクションから好きな化石を贈るよ。どれでも選んでいい」
「えっ! あのレアなやつでもいいのかっ?」
「いいよ」
「言質とったからな!」
王太子といえどまだ七歳の少年。
欲しかった貴重な化石をプレゼントしてもらえると聞き、アレクシスは上機嫌で城に帰って行った。
「ごめんなさい、おにいちゃん。私のために大切なコレクションを……」
「謝らないで。今の俺にヴィヴィ以上に大事にしたいものなんてないから、気にしなくていいんだよ」
リヒトは優しく瞳を細めると、本当に宝物に触れるみたいにヴィヴィアナの頭を撫でた。
*
雷は嫌いだ。
空を分厚く覆う黒い雲も、突然走る白い光も、身が竦む轟音も、全てが『あの日』を思い出すから。
『ヴィヴィ、父さんと母さんは大事な用があるから、お前はしばらくここで待っていなさい』
『大丈夫よ。そんなには待たないわ』
そう言って、嵐の日にヴィヴィアナを孤児院に置き去りにした実の両親。
けれど、彼らは最初から迎えに来る気などなかった。
そのことをヴィヴィアナが知ったのは、置き去りにされてからだいぶ先のことだった。両親は嵐の日に既に院長に少額の金を渡し話をつけていたのだ。
三日経っても七日経っても十日経っても。
父の言った『しばらく』が終わらないことに、幼いヴィヴィアナの希望と心は削られていった。
(だったら、最初からせめて希望なんて持たないようにしてくれればよかったのに……!)
自身を悪者にしたくない、卑怯な保身。
そのためだけの嘘がどれほどヴィヴィアナを傷つけたのか、彼らは理解しているのだろうか。果たされない約束ならないほうがよかった。
寂しい。どうして。寂しい。寂しい。寂しい。寂しい。どうして私だけ。寂しい。寂しい。寂しい。寂しい。寂しい。寂しい。寂しい!
――――みんな、私みたいに欠けてしまえばいいのに!
「――きゃあぁっ……!」
ドロドロとした真っ黒い自分の影に襲われそうになって、ヴィヴィアナは自分の悲鳴で目を覚ました。
「夢……」
この一年、雷の日には決まってこの夢を見る。きっともう今夜は眠れないだろう。
孤児院では子爵家の娘だからと特別に個室を与えられていたが、却ってその孤独がヴィヴィアナを苦しめた。
眠れない夜はいつも一人で自身を抱きしめて、外が明るくなるのをただひたすら待っていた。
「早く、朝にならないかな……」
ヴィヴィアナのために用意された、花と天使の飾りの可愛らしい置き時計。その針はまだ夜中を示している。
あとどれくらい、一人でこうしていればいいのだろう。
「うっ、ぅえ……っ」
無性に悲しくなり、溢れる涙をこらえるため膝を抱えたとき――――。
「ヴィヴィ、大丈夫?」
ノックの音と、リヒトの声が聞こえた。
「水を飲むために起きたらヴィヴィの悲鳴が聞こえたんだ。入るよ?」
ヴィヴィアナの返事を待ってから入室したリヒトは、ヴィヴィアナの様子を見て焦ったようにベッドまで駆け寄ってくる。
「どうしたのヴィヴィ。汗びっしょりじゃないか。怖い夢でも見たの?」
「うん……」
「可哀想に。そんなに怖い夢だったんだね」
ヴィヴィアナを慰めながら、リヒトが労るようにヴィヴィアナの額に触れる。
すると、その体温の低い指先からスッと清涼感が広がっていくのを感じた。汗のべたつきや不快感が消え、不思議と心も落ち着いてくる。
「これって……浄化魔法? おにいちゃん、浄化魔法も使えるようになったの?」
「うん、実はね特訓したんだ。初めてヴィヴィに会った日に汚れたワンピースを綺麗にしてあげられなかったことが不甲斐なくて」
「それでもうこんなに使えるようになるなんて、すごい……!」
「ふふ、ヴィヴィにそう言ってもらえるために頑張ったんだよ」
ヴィヴィアナが公爵家に来てからまだ二週間ほどしか経っていない。それなのに、得意でないと言っていた浄化魔法をもう使いこなせるようになるなんて、リヒトは本当に優秀なのだ。
「おにいちゃんがいてくれて、よかった……きゃぁ?!」
再び雷鳴が轟き、ヴィヴィアナは慌てて耳を塞いだ。
震える彼女の肩をリヒトは優しく抱き寄せる。
「ヴィヴィ、枕を持って俺の部屋においで。一緒に寝よう」
「いいの?」
「もちろん」
リヒトの部屋はコレクションの化石や標本が飾られていて、冬の朝のような清廉な香りがする。
彼のベッドは大きくて、ヴィヴィアナと二人で寝てもまだまだ余裕がある。
ベッドに入ると、リヒトはヴィヴィアナをギュッと抱きしめ、よしよしと後頭部を撫でてくれた。
「ヴィヴィ、君はさっき『おにいちゃんがいてくれて、よかった』と言ってくれたけどね、俺もヴィヴィがいてくれて本当によかったと思っているんだよ。ヴィヴィがいるから、ヴィヴィの自慢の兄になりたいから、俺は頑張れる」
十二歳のリヒトがヴィヴィアナの実の両親のことをどこまで聞いているかはわからない。
けれど彼はヴィヴィアナの心についた傷跡を癒やすように、何度もヴィヴィアナの背中を擦りながら、繰り返し言い聞かせてくれる。
「ヴィヴィ。君は、俺の人生に必要な存在だよ」
「……おにいちゃんは何でもできて、何でも持っているのに?」
「確かに俺は恵まれた人生を歩んでいるだろうね。けどヴィヴィに出会うまで、俺の世界はモノクロで、透明な膜を隔てて外を見ているような感覚だったんだ。ずっと、色んな感覚や感情が他人事みたいだった」
「それって、嫌じゃなかった……?」
「嫌だという感覚もなかったんだよ。でもヴィヴィに初めて出会ったあの日、こんなに面白い生き物がいるんだって、気づいたら声を出して笑ってた」
出会った日のことを思い出したのか、リヒトの喉が笑いで震える。
「なにそれ、私は珍獣だったの」
「ふふ、拗ねてる顔も可愛い。こんなに面白い生き物が俺の家族になるって、最高じゃないかって思った。そう思った瞬間、透明な膜がなくなったんだよ」
「……なくなって、どうだった?」
「毎日が最高に充実してる。自分のために勉強や魔法の鍛錬をするのはただの義務だったけれど、ヴィヴィの理想の兄になるために努力するのは俺の願いで目標だ。ヴィヴィのためだと思うと、何でも楽しいよ」
「おにいちゃんが楽しいならよかった」
「ヴィヴィ、俺の世界を彩ってくれてありがとう」
リヒトの言葉と瞳が、ヴィヴィアナの中の嵐を静めていく。
迷子のようだった心が、帰る場所を見つけた喜びで震える。
「安心してお休み。悪い夢からだって、俺はヴィヴィを守るよ」
指先と同じように体温の低いリヒトの唇が、ヴィヴィアナの額にそっと触れた。
(おにいちゃんなら、絶対に私を守ってくれる……)
優しく抱きしめてくれるリヒトの腕の中なら、もう何も怖くはない。
彼の心臓の音を聞きながら、ヴィヴィアナは穏やかな夢の世界へ誘われた。




