2.おにいちゃんって呼んでごらん
タイ海老でだって、満面の笑みになることはなかったリヒト。
その彼が、落とし穴と汚水の危害を加えられそうになったのに、朗らかに声を上げて笑っている。
「……もっとつまらない女の子かと思ったけど、意外だったなぁ」
リヒトは笑いすぎて出てきた涙を右手で拭いながら、反対の手をヴィヴィアナに伸ばす。
「ぴぇっ?!」
「ごめんね、少し我慢して。俺の治癒魔法はまだ対象に触れないと発動できないから」
「あ……」
リヒトのさらりとした、温度の低い指先がそっとヴィヴィアナの頬に触れる。
無機質めいた美貌の彼は、体温も印象どおり低いらしい。
(でも、魔力は温かいんだ……)
ヴィヴィアナを癒やすための魔力がリヒトの指先から流れ込み、スーッと痛みが引いていく。
リヒトはヴィヴィアナに対して「意外だった」と言ったが、彼の魔力がこんなに温かいなんて、ヴィヴィアナにとってはそっちのほうが意外だ。
(と言うか、治してくれたのが意外って言うか)
タイ海老のリヒトは、それがたとえゲームヒロインでも初対面の相手には超塩対応だった。
(なのに、治療してくれて、しかも涙が出るほど笑うなんて……!)
思い出すだけで鼓動がキュンキュンと暴走しそうだ。
既にリヒトはスンッとした表情に戻ってしまっているが、彼の笑顔をもう一度見たくて仕方がない。
「もう痛くないです、ありがとうございます……!」
どうにかまたリヒトが笑わないかと、ヴィヴィアナはついジッと彼を見つめてしまう。
それをどう受け止めたのかリヒトは眉尻を下げた。
「重ね重ねごめん……。浄化魔法もまだ得意じゃなくて、君のワンピースは綺麗にできないんだ」
「あ、いえっ、そんなの気にしないでください! 治療していただいただけでも本当にありがたいです……!」
「けど、君は俺を助けようとして転んだんだろう」
「いえいえいえ! 私が勝手にやっただけですから……! 本当に大丈夫です!」
笑ってほしいのに困った顔をさせてしまった。
なんとかリヒトを励ましたくて、ヴィヴィアナはあわあわと言葉を探す。
「うーん、けどこのままじゃ俺が申し訳なくて仕方がないよ。……あ、そうだ。君は今日からフィンスター家の屋敷に来るんだよね?」
「あっ、はい。その予定です」
「じゃあさ、今すぐに俺と屋敷へ帰って仕立て屋を呼ぼう。一応君の部屋や当面の日用品は両親が整えていたけど、自分で選んだほうが嬉しいでしょ?」
「えっ、そんなっ、申し訳ないです……!」
「俺なりのお詫びとお礼だから受け取って欲しい。大丈夫、俺の名義で動かせる資金がけっこうあるんだよ。だからお金の心配もいらない」
「うぅっ、でも」
養女になった途端に新しい服を仕立てさせるなんて、厚かましすぎやしないだろうか。
ヴィヴィアナがリヒトの言葉に頷けないでいると、彼はとんでもない必殺技を繰り出してきた。
「……妹に、お兄ちゃんらしいことさせて欲しいなぁ。ね?」
ヴィヴィアナの前で屈んで目線を合わせたリヒトが、上目遣いでこてんと首を傾げたのだ。
(白皙の美少年の上目遣いおねだりーーーー!)
しかも今、彼はヴィヴィアナを妹と呼び、自分のことをお兄ちゃんと言った。
その響きの甘美なことといったら!
(私のこと、家族って認めてくれたんだ)
じんわりとヴィヴィアナの胸に温かいものが広がっていく。
「えっと、じゃあ、せっかくなのでリヒト様のご厚意に甘えさせてください」
「ん?」
「えっ?」
やっぱり厚かましかっただろうか。
ヴィヴィアナが焦っていると、リヒトはにっこりと微笑む。まるで後光が差しそうなくらいの極上の笑みだ。
「おにいちゃんって、呼んでごらん?」
「ぴぇっ?!」
タイ海老のヴィヴィアナはリヒトのことをそのまま名前で呼んでいた。
フィンスター家の過去に関する情報は多くはなかったが、それでもゲームの彼らには家族らしい空気はなかったはずだ。
(だって、だからこそヴィヴィアナは悪役になっちゃったんだもの)
これは粛清回避に早速一歩近づいたのではないだろうか。
(でも、おにいちゃんって呼ぶのは、なんだか妙に気恥ずかしい……!)
子爵夫妻の子供はヴィヴィアナだけ、つまりヴィヴィアナはひとりっ子だった。
孤児院でもみんなのことは名前で呼んでいる。
誰かを兄と呼ぶのは初めての経験だ。
「えっと、あの、えっと……よろしくお願いします、おにいちゃん……」
(なんだか照れるっ! ほっぺた熱いから絶対に赤くなってる……っ!)
「ふふ、よくできましたヴィヴィ。ちゃんと呼べて、いい子。これからよろしくね」
リヒトは蕩けるように微笑むと、優しくヴィヴィアナの頭を撫でた。




