91話 王命のその先へ
91話 王命のその先へ
荷造りは思っていた以上に早く進み、机の上に残されたのは、翌朝まで使う筆記具と数冊の本だけになっていた。衣装棚も今では半分以上が空いている。
見慣れていた部屋が少しずつ「滞在していた場所」へ戻っていくのを眺めながら、エレノアは最後の書物を布で包んでいた。
その時、扉を叩く音が響いた。
「はい」
侍女のマリエラが応じ扉を開ける。
廊下に立っていた者たちを見て僅かに目を見開いた。
「フェルディス様。アークライト様」
その名を聞きエレノアも顔を上げた。
そこにいたのは、赤茶色の髪を高い位置で結んだリアナと、明るい茶色の髪を持つオーウェンだった。
二人とも隊服姿ではあるが、いつもの任務中の張り詰めた気配はない。どうやら仕事の合間を縫って訪ねてきてくれたらしい。
「突然ごめんなさい、エレノア様。少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
「もちろんです。どうぞお入りください」
エレノアは急いで立ち上がった。マリエラも客人のために椅子を用意する。
オーウェンは部屋の中へ積まれた箱を見渡し、苦笑した。
「出発の準備をしていたんだな」
「はい。明日の午前には、王城を出る予定です」
その答えにリアナとオーウェンは揃って僅かに表情を曇らせる。だが、それもほんの一瞬のことだった。すぐにリアナが明るい笑顔を浮かべる。
「そうですよね。ご家族もずっとお帰りを待っていらっしゃいますものね」
「ええ。長い間心配をかけてしまいましたから」
「ご無事に戻られるのが、何よりです」
リアナの声には心からの安堵が込められていた。エレノアは胸が温かくなり小さく微笑む。
「リアナ様たちにも、長い間お世話になりました」
「お世話だなんて」
「最初に王命のお話を伝えに来てくださった日から、ずっと支えていただきました」
あの日、王都南地区のアシュフォード家を訪れたのは、シリルとリアナだった。何も知らずに家族と暮らしていたエレノアへ王命を告げた二人。
すべては、あの夕暮れから始まった。
リアナも同じことを思い出したのだろう。懐かしそうに目を細めた。
「ずいぶん前のことのように感じますね」
「はい」
実際にはそれほど長い年月が流れたわけではない。
それでも、古代遺跡を巡り幾つもの試練を越え、失われた王国の真実を知った。
王命を受ける前と今とでは、同じ自分でありながら見える世界がまるで違っていた。
「最初はあんな大きな任務になるなんて、思っていませんでした」
エレノアが言うと、オーウェンが肩をすくめた。
「俺たちもだ。古文書を解読して、何か手掛かりが見つかれば終わりだと思っていた」
「オーウェンは、最初から何も考えていなかっただけでしょう?」
「ひどい言い方だな。俺なりに考えていたぞ」
「何を?」
「……石板は重そうだ、とか」
「それを考えたとは言いません」
リアナが呆れたように返す。
久しぶりに聞く二人の軽いやり取りに、エレノアは思わず笑みを零した。
遺跡へ向かう道中でも張り詰めた野営地でも、二人の会話が、何度となく場の空気を和らげてくれた。
明日からはこうした声も身近では聞けなくなる。
そう思った瞬間、浮かんだ笑みの奥へ僅かな寂しさが混じった。
それに気づいたのか、リアナは一度オーウェンと視線を交わした。
「それで、今日は……」
珍しく少し言いづらそうに言葉を切る。
「エレノア様へお願いがあって参りました」
「私に、ですか?」
「はい」
リアナはエレノアの前へ身体を向き直した。
「王城をお出になっても、時々、近衛騎士団へ顔を見せに来ていただけませんか?」
予想していなかった言葉にエレノアは目を瞬いた。
「近衛騎士団へ……?」
「もちろん、記録のお仕事のために王城へいらした時でも構いません。少しだけでも近衛棟へ寄っていただけたら嬉しいです」
「俺たちも、エレノア嬢とまた話したい」
オーウェンも続ける。
「クラウディアもきっと喜ぶ。ガレス副団長は顔には出さないだろうが、歓迎するはずだ」
「団長は……まあ、団長室から出てきてくださるかは分かりませんけれど」
リアナが小さく笑う。
「でも、エレノア様がお越しになったと聞けば、きっとお時間を作ってくださいます」
エレノアは二人の顔を見つめた。
自分は近衛騎士ではない。王命によって、一時的に行動をともにしていただけだ。任務が終われば彼らは再び国王と王都を守る日常へ戻る。自分だけが、そこへ訪ねていってよいのだろうか。
「お気持ちは、とても嬉しいです」
エレノアは胸の前で両手を重ねた。
「ですが、皆様はお忙しいのではありませんか?」
リアナが首を傾げる。
「忙しい?」
「近衛騎士団の皆様には毎日の警護や訓練があります。任務を終えた私がお邪魔してしまっては……」
「邪魔にはなりません」
リアナはエレノアが言い終えるより先にきっぱりと答えた。普段の柔らかな調子より、少しだけ強い声だった。
「絶対に」
「そうだな」
オーウェンも真面目な顔で頷く。
「むしろ来てもらった方が助かる」
「助かる、とは?」
エレノアが不思議そうに尋ねる。
オーウェンの口が開くが、言葉が出るより先にリアナが素早く彼の腕を肘で小突いた。
「痛っ」
「オーウェン」
声は笑っている。けれど目は余計なことを言うな、と明確に告げていた。
「何でもない」
オーウェンは咳払いをする。
「俺たちが助かる、という意味だ。長い任務をともにした仲間が顔を見せてくれれば、励みになるからな」
「そうでしょうか」
「ああ。間違いない」
少々不自然なほど力強く断言する。エレノアは首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
リアナは内心でそっと胸を撫で下ろす。
危うく、このままエレノアが姿を見せなくなったら、誰よりもシリルが困る――などと口にするところだった。
シリルの想いにはリアナもオーウェンもとうに気づいている。専属護衛任務を解かれた時も本人は普段と変わらぬ顔をしていたが、長く共に過ごしてきた仲間には分かった。
謁見を終えたあとも姿勢も表情もいつもと変わらなかった。それでも、気軽に声を掛けられないほどの張り詰めたものが、その背中に残っているのが分かった。
毎日当然のように立っていたエレノアの隣を失ったことが、彼にとってどれほど大きかったのか。
あのまま互いに遠慮して会わなくなれば、シリルは何も言わず耐え、何事もなかったように第一隊長としての仕事へ戻るだろう。そして今まで以上に任務と書類へ埋没するに違いない。
リアナにはその姿があまりにも容易に想像できた。
だからといって、代わりに想いを告げるつもりはない。
それは、シリル自身が伝えるべきことだからだ。
リアナは小さく息を吐いた。
「それに、近衛騎士団の皆に、というだけではありません」
柔らかく微笑む。
「シリルにも、会いに来てください」
不意に名を出されエレノアの胸が小さく跳ねた。
「シリル様に……」
「はい」
「ですが、シリル様は第一隊の隊長でいらっしゃいます。私が訪ねてしまえば、それこそお仕事の妨げになるのでは……」
「なりません」
リアナの返事は、先ほど以上に早かった。
「絶対になりません」
「そこは俺も保証する」
オーウェンが深く頷く。
「どれほど忙しくても、エレノア嬢が来たと聞けばシリルは時間を作る」
「でも……」
「作ります」
リアナは断言した。
それは推測ではなく疑いようのない事実だった。
エレノアが訪れているのに、シリルが顔も見ずに帰すなど、リアナには到底考えられなかった。
「それとも」
オーウェンが何気ない口調を装いながら尋ねる。
「エレノア嬢は、もうシリルに会うつもりはないのか?」
「そんなことはありません」
エレノアは考えるより先に答えていた。自分でも驚くほど、はっきりとした声で。
リアナとオーウェンが、同時に目を瞬く。
「私は……」
エレノアは急に恥ずかしくなり、胸元で指を重ねた。
「また、お会いしたいと思っています」
会ってどうしたいのか、そこまで明確に考えたわけではなかった。けれど、もう会わなくてよいのかと問われた瞬間、胸の奥に浮かんだ答えだけは誤魔化せなかった。
「シリル様は、近いうちにお話ししたいことがあるとおっしゃってくださいました」
「そうなんですか?」
リアナが少し驚いた声を上げた。けれど、その目は僅かに輝いている。隣でオーウェンもほんの少し眉を上げる。
二人の間へ一瞬だけ通じ合うものがあった。
――ようやく言ったのか。
――話をする、までだけど。
そんな無言の会話を交わしたことにエレノアは気づかない。
「はい。ですから、またお会いできると思います」
「もちろんです」
リアナの笑顔が深くなる。
「それに、そのお話が終わったあともです」
「終わったあと……?」
「一度お会いして、それきりではなく」
リアナはエレノアの手をそっと取った。
「これからも、会いに来てください」
その温かな手にエレノアは目を僅かに見開いた。
「王命が終わったからといって、私たちのご縁まで終わるわけではありません」
リアナの声は明るい。そこには誤魔化しのない真心があった。
「私たちは、同じ任務を越えた仲間です。何度も食事を共にして、同じ野営地で夜を過ごし、危険な場所を歩いて。お互いの命を預け合ったでしょう?」
「はい……」
「それは、命令が終わったからといってなくなるものではありません」
リアナの言葉が、エレノアの胸へゆっくりと染み込んでいく。
これまでは王命があったから、彼らの傍にいられたのだと思っていた。古代文字を読めるから。任務に必要とされたから。自分は近衛騎士団と行動をともにできた。
その役目を失えば、彼らの日常から離れていくのが自然なのだと。けれど、共に歩いた時間まで、役目とともに消えてしまうわけではない。
オーウェンが、いつもの明るい笑みを浮かべる。
「詰所へ来たら茶くらいは出すよ」
「オーウェンが淹れるの?」
「それは……誰かに頼む」
「でしょうね」
リアナが呆れたように言う。
「私がお淹れします。エレノア様がお好きそうなお菓子も用意しますから」
「それでは、ますますお仕事の妨げになってしまいます」
「休憩も仕事のうちです」
「それは都合のよい理屈では……」
「とても大切なことです」
真顔で言い切るリアナに、エレノアはとうとう堪えきれず笑った。
リアナも笑う。オーウェンも肩を揺らした。
静かになりかけていた部屋へ三人の笑い声が広がっていく。
荷物を収める箱。空になった衣装棚。別れの準備を整えていた部屋がその瞬間だけは、以前の温もりを取り戻したようだった。
やがて笑いが収まると、エレノアはリアナの手をそっと握り返した。
「エレノア様。これからも近衛騎士棟へ来てくださいますか?」
「はい」
今度は、迷わず頷く。
「王城へ参りましたら皆様へご挨拶に伺います」
「ご挨拶だけではなく、ゆっくりしていってください」
「それから、シリルにも」
オーウェンが念を押すように付け加える。
その名を聞くだけで、なぜかまた、胸が小さく揺れた。
それでもエレノアは柔らかく微笑んだ。
「はい。シリル様にも、お会いしたいです」
リアナとオーウェンがまた一瞬だけ視線を交わす。互いの考えていることがはっきりと分かった。でも口には出さない。それはシリル自身が伝えるべきことだから。
二人にできるのはほんの少しだけ、途切れかけた道を繋ぐことだけだった。
「よかった」
リアナが心から安堵したように言う。
「本当に」
その声の深さを不思議に思いながらも、エレノアは笑みを返した。
◇
リアナとオーウェンは明日の見送りにも必ず来ると約束し、部屋を後にした。
一人になった部屋でエレノアは閉じられた扉をしばらく見つめていた。
――王命が終わったからといって、私たちのご縁まで終わるわけではありません。
リアナの言葉が、胸へ残っている。
机の上には、荷造りを待つ最後の箱。その中へ収めた白い便箋。
これまでは、誰かからの言葉が届くのを、ただ待つばかりだった。けれど、自分から言葉を届けてもいいのだ。
エレノアは箱へ近づき、先ほど収めたばかりの白い便箋を取り出して見つめた。今すぐ何かを書くわけではない。何を伝えたいのかも、まだ自分の中ではっきりしていない。
それでも、いつか自分から言葉を届けたくなった時のために、再び箱の中へ戻した。
王城を離れても、会いたいと思えば会いに来ていい。自分から、会いたいと伝えてもいい。
そのことを知っただけで、少しずつ空になっていた部屋が、先ほどまでとは違って見えた。
ここは何かを置いていくための場所ではない。大切なものを受け取り、これから先へ持っていくための場所だったのだ。
エレノアは机の上へ残った最後の書物を箱へ収めた。そして蓋を閉じる。
明日の別れは、終わる日ではない。
王命によって始まった道を離れ、今度は自分の意思で、大切な人たちへ繋がる道を歩き始める日なのだ。




