92話 家路への水路
92話 家路への水路
王城を離れる朝は、よく晴れていた。
薄く霞んだ青空の下、朝の光を受けた運河が白亜の城壁に沿って静かに流れている。
エレノアは荷物のなくなった部屋の中央に立っていた。
本棚に並んでいた書物は研究室へ返し、衣装や私物はすべて木箱へ収められた。窓辺に置かれていた椅子だけが以前と変わらない位置で朝日を浴びている。
「エレノア様」
背後から控えめな声がした。振り返ると、王命による滞在のあいだ身の回りを任されていた侍女のマリエラが、扉のそばに立っていた。
いつもと変わらず落ち着いた佇まいをしているが、その目元には僅かな寂しさが滲んでいた。
「お荷物はすべて船着場へ運ばれました。私も船着場までご一緒させていただきます。」
「ありがとう、マリエラ」
エレノアは室内をもう一度見回した。
「長い間、本当にお世話になりました」
「こちらこそ、お仕えできましたことを光栄に存じます」
マリエラは深く一礼した。
「どうかお健やかにお過ごしくださいませ」
「ええ。あなたも」
互いに微笑み合う。けれどマリエラと共に扉へ向かおうとしたエレノアの足は、すぐには動かなかった。
するとマリエラが柔らかな声で告げる。
「……このお部屋を離れられても、エレノア様が築かれたご縁までなくなるわけではございません」
エレノアは目を瞬いた。
「ご縁……」
「はい」
マリエラの微笑みにはそれ以上の言葉を必要としない何かがあった。エレノアも小さく頷く。
「……そうね」
王命は終わったが、王城で出会った人々との繋がりまで、すべてが終わるわけではない。
エレノアは静かに部屋を振り返る。
「お世話になりました」
今度こそ別れを告げ、扉を閉じた。
◇
王城の船着場には一艘の小舟が待っていた。
王都南地区へ向かうための、屋根付きの小さな船だ。
船尾にはエレノアの荷物が積まれ、王城の従者たちが最後の積み込みを確認している。その傍らにはここまで見送りに来てくれたマリエラの姿もあった。
「エレノア嬢」
聞き慣れた声に振り返る。
船着場へ続く白い石段を、近衛騎士たちが下りてくるところだった。
先頭にはダリウス。その後ろにガレス、クラウディア、オーウェン、リアナ、エリオット、アルヴィン。少し離れた最後尾には、シリルの姿もあった。
「皆様……」
エレノアは驚いたまま彼らを見つめた。
「お仕事がおありなのでは?」
「少しくらい抜けても、王城は崩れん」
ダリウスが低く答える。その横でオーウェンが小さく笑った。
「団長がそう言うと、本当に崩れそうな気がしますね」
「余計なことを言うな」
ガレスの一言にオーウェンは肩をすくめる。いつもと変わらないやり取りだった。
それが嬉しくて、エレノアの表情が自然と和らいだ。
ダリウスが一歩前へ進む。
「長い間、ご苦労だった」
「いいえ。私の方こそ、皆様に何度も助けていただきました」
「いや。エレノア嬢がいなければ、我々は最初の石板すら読めなかった」
飾り気のない言葉だった。だが、ダリウスが口にしたからこそ、その重みが胸へ深く届く。
「胸を張って帰れ」
エレノアは一瞬言葉を失った。それから、深く頭を下げる。
「……はい。ありがとうございます」
続いてガレスが、簡潔に告げた。
「記録作成で城へ来る時や困ったことがあれば、遠慮せず騎士団を頼れ」
「ありがとうございます、ガレス副団長様」
「それと」
彼の視線が、エレノアの顔から少し離れた位置へ向く。
そこにはシリルが立っていた。
「城へ来た時、無理をしている騎士がいたら止めてやってくれ」
「副団長」
シリルの低い声が飛んだが、ガレスは表情を変えない。
「医師の指示を聞かん者には監視役が必要だ」
エレノアは思わずシリルの右腕を見た。上着の下へ隠されているが、まだ完治はしていない。
「もちろんです」
迷わず答えると、今度はシリルが僅かに眉を寄せた。
その様子を見てリアナが堪えきれないように笑う。
「やっぱり、エレノア様にお願いするのが一番効きそうですね」
「ねえシリル?」
「……治っている」
「ほら、こう言ってますけど」
「治っていません」
エレノアが即座に返す。
一瞬の沈黙のあと。
オーウェンが吹き出し、リアナも笑い声を上げた。クラウディアの口元にも穏やかな笑みが浮かぶ。
「シリルも、これからは少しご自分を大切になさい」
「はい」
さすがに先輩であるクラウディアへは、シリルも短く応じた。エレノアも皆につられるように笑った。
遺跡へ向かう旅の最中にはこんなふうに笑える日が来るとは思っていなかった。
王命によって一時的に行動をともにしただけではない。彼らは今も、自分を仲間として見送りに来てくれたのだ。そのことがどうしようもなく嬉しい。
リアナがエレノアの手を取った。
「また、絶対にお会いしましょうね」
「はい。記録作成のためにこれからも王城へ参りますから」
「お仕事の時だけではなくて」
明るい茶色の瞳が、親しげに細められる。
「今度は何も背負わずに、お茶を飲みましょう」
「遺跡も、試練も、石板もなしでな」
オーウェンが横から付け加えた。
「それならまたゆっくりお話しできますね」
エレノアが笑うと、リアナも嬉しそうに頷く。
「約束ですよ」
「ええ。必ず」
クラウディアはそんな二人を穏やかに見守っていた。やがてエレノアへ向き直る。
「長い任務のあとは心も身体も、自分で思う以上に疲れているものです。しばらくはご家族のもとでゆっくりなさって」
「はい」
「王城へ来る日は、焦らなくて構いません」
落ち着いた声音には姉のような優しさがあった。
「ありがとうございます、クラウディア様」
エリオットも一礼する。
「次の記録作成日は改めて使者をお送りいたします」
「承知いたしました」
「急ぎではございませんので、まずはお休みください」
誰もが同じことを言ってくれる。無事に帰ってきたのだから、今は休んでよいのだと。
アルヴィンも穏やかに笑った。
「ですから、これはお別れではありませんね。王立研究所でもお会いしますし、エレノアさんとはまだまだ一緒に読み解かなければならないものがありますから」
「はい。アルヴィン先生。これからもよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
船頭が出航の時刻が近いことを静かに告げた。
「マリエラも本当にありがとう」
「どうか、お健やかに。……また王城へお越しになる日を、お待ちしております」
「ええ。また会いましょう」
エレノアは一人ずつへ改めて礼を述べる。
そして最後に、シリルの前へ立った。
周囲には仲間たちがいる。それなのに、二人の間だけ、運河の水音が急に大きくなったように感じられた。
シリルはいつもの無表情に近い顔でエレノアを見つめている。
「傷の具合は、いかがですか?」
「順調だ」
「痛みはどうです?」
以前交わした約束を覚えているのだろう。シリルは誤魔化さなかった。
「右腕にまだ少しある。肩はほとんど痛まない」
エレノアはほっとしたように息をつく。
「では、まだ無理をなさらないでください」
「ああ」
「訓練は先生の許可が出るまではなさらないでくださいね」
「分かっている」
「本当にですよ?」
「明日診察だ。そこで許可が出るまではしない」
先回りするような返答にエレノアは目を瞬いた。
シリルの青い瞳が、ほんの僅かに和らぐ。
「君に言われたからな」
胸が、小さく鳴った。
「……ありがとうございます」
礼を言うことではないのかもしれない。それでも、ほかに言葉が見つからなかった。
短い沈黙が流れ、エレノアは王命を解かれた日のことを思い出した。
――近いうちに、時間をもらいたい。
あの言葉について、尋ねたい気持ちはある。けれど、自分から急かしてよいものではない気がして、口にはできなかった。
シリルの唇が僅かに動いた。何かを言おうとしたようだったが、ほんの僅かな沈黙のあと、彼が口にしたのは意外な言葉だった。
「着いたら、知らせてくれ」
エレノアは少し驚いた。
「シリル様へ、でしょうか?」
「ああ」
任務はもう終わっている。
専属護衛ではない彼へ、無事に帰ったと報告する必要はない。
それでもシリルは知りたいと思ってくれている。
エレノアの胸へ、温かな喜びが広がった。
「承知いたしました。必ずお知らせいたします」
シリルは小さく頷く。
「気をつけて帰れ」
「はい」
エレノアは柔らかく微笑んだ。
「シリル様も、お元気で」
その言葉を口にした途端。
まるで長い別れを告げているように思えて、胸が痛んだ。
シリルの瞳にも、一瞬だけ何かが揺れる。
「……すぐに会う」
エレノアは息を止める。
低く、静かな声だった。
シリルはそれ以上何も言わない。
けれど、その一言だけで、胸の奥にあった寂しさが少し薄らいだ。
「はい」
今度は、心から笑うことができた。
「またお会いしましょう」
◇
小舟へ乗り込むと、船頭が岸へ繋いでいた綱を解いた。
「皆様、本当にありがとうございました」
エレノアは振り返り、深く頭を下げる。
リアナが大きく手を振った。
「またお会いしましょう、エレノア様!必ずですよ!」
オーウェンも片手を上げる。
「次はもっと平和な場所でな!」
船体が僅かに揺れ、ゆっくりと、白い石造りの船着場から離れていく。
騎士たちが胸に掌を当て、王命をともにした一人の仲間へ、騎士としての礼を示した。
そしてシリルは、岸辺へ立ったまま、何も言わなかった。
手を振ることもない。ただ、まっすぐエレノアを見つめている。
かつて任務のために小舟へ乗った時、シリルは護衛として隣にいた。
今は岸に残り、離れていくエレノアを見送っている。
二人の間へ、少しずつ水面の距離が広がっていく。
エレノアは、彼から目を逸らせなかった。
船着場が小さくなり、それぞれの顔が見分けられなくなっても、濃紺の隊服を纏った長身の姿だけは、最後まで見つめ続けた。
やがて運河が緩やかに曲がり、白亜の壁が視界を遮った。
シリルの姿が見えなくなった瞬間、胸の内にぽっかりとした空白が生まれる。エレノアは膝の上で、そっと両手を重ねた。
寂しい。
その感情を、もう誤魔化すことはできなかった。
毎日のように会えていた人と、明日からは当たり前のようには会えない。振り返ればそこにいる、そんな日々はもう終わったのだ。
王城を離れることよりも、あの部屋から離れることよりも、その事実が、何よりも寂しかった。
けれど――
『すぐに会う』
最後に告げられた言葉を胸の中で繰り返すと、先ほど生まれた空白へ、ほんの少しだけ温かなものが戻ってくる。
この水路の先には、父と母とフローリアが待つ家がある。そして王城には、また会いたいと思える人たちがいる。
王命によって始まった旅は終わった。
けれど自分の帰る場所も、これから向かいたい場所も、そのどちらもエレノアにとって大切な場所になっていた。
小舟は穏やかな水を分けながら、王都南地区へ向かって進んでいった。




