89話 任務の終わり 後編
89話 任務の終わり 後編
シリルが一歩下がる。
元の位置へ戻り、そして真っ直ぐ前だけを見据えている。
エレノアは声を掛けることはできなかった。
護衛任務は、もう終わった。
明日から、朝に彼が迎えに来ることはない。研究室へ向かう廊下で半歩前を歩く姿も、遠征の馬上で自分を守る腕も、疲れた時に差し出される手も。
これまで当たり前のようにそばにあったそれらは、王命とともに失われる。
無事に任務を終えたのに。
どうして。
こんなにも寂しいのだろう。
◇
二人の間に流れた僅かな変化を知っているのか、レオンハルト王はすぐに次の言葉を続けた。
「正式な褒賞については、後日改めて沙汰する」
全員の視線が王へ戻る。
「この任務は国家最高機密に関わる。よって、すべての功績を公に明かすことはできぬ。だが――」
王の声へ、確かな力が籠もる。
「そなたたちが王国を救った事実まで、なかったことにするつもりはない」
ダリウス。
ガレス。
エリオット。
シリル。
クラウディア。
オーウェン。
リアナ。
エレノア。
アルヴィン。
一人ずつに王の視線が向けられる。
「ダリウス」
「はっ」
「そなたは近衛騎士団長として、最後まで全体を統率した。予測のできぬ遺跡と装置を前にしながら、ただの一人も欠けることなく帰還させた働き、見事である」
「もったいなきお言葉」
「ガレス」
「はっ」
「副団長として前線を支え、信頼の石板を担った。そなたが繋いだ近衛騎士たちの力なくして、調律は成らなかったであろう」
「ありがたきお言葉にございます」
「クラウディア、オーウェン、リアナ」
三人が同時に姿勢を正す。
「そなたたちは幾度もの危険において、それぞれの役目を果たした。命を預け合い、仲間を守り抜いたそなたたちの働き、誇りに思う」
「はっ」
返答が一つに重なる。
「エリオット」
「はい」
「各地の情報をまとめ、遠征の物資と連絡を滞りなく支えた。表へ見えぬ働きもまた、任務を成功へ導いた力である」
「ありがたきお言葉にございます」
「アルヴィン」
「はい」
アルヴィンが深く頭を下げる。
「そなたの歴史と地理に関する知識が、失われた場所へ至る道を示した。この先も、見た真実を正しく記録し、未来へ残してほしい」
「生涯を懸けて、務めさせていただきます」
最後に。
王の視線は、エレノアとシリルへ向けられた。
「エレノア」
「はい」
「そなたは誰にも読めなかった文字を読み、断片となっていた知識を繋ぎ、幾千年もの時を越え王国を救う答えへ辿り着いた。そなたの知恵と、真実を未来へ渡そうとする心を、私は決して忘れぬ」
エレノアの瞳が潤む。
「ありがたきお言葉にございます」
「シリル」
「はっ」
「そなたは幾度も危険の前へ立ち、最後までエレノアを守り抜いた。恐れを知りながらも、その先へ踏み出し続けた働きは、『勇気』を担った者に相応しいものであった」
シリルの表情は変わらなかった。だが、左の指先が、僅かに動いた。
「見事であった」
「……ありがたきお言葉にございます」
王は全員を見渡した。
「そなたたちは、過去から受け取った命を未来へ繋いだ。その功績に相応しい褒賞を、必ず与える。本日は、十分に身体を休めよ」
「はっ」
全員の返答が、謁見の間へ力強く響いた。
これで、正式な報告は終わった。
極秘任務も。
王命も。
すべて完遂された。
◇
謁見の間を退出すると、それまで張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。
オーウェンが大きく息を吐く。
「これで、本当に終わったんだな」
リアナが、その隣で微笑んだ。
「長かったわね」
「もう遺跡の床が崩れたり、幻惑が迫ってきたりするのは御免だ」
「そんなことを言っていると、次の任務でまた崩れるわよ」
「やめてくれ」
二人の会話に、クラウディアの口元も僅かに和らぐ。
ガレスはそれを横目に見ながら、短く告げた。
「気を抜くのは、傷が治ってからにしろ」
「副団長、それはシリルに言った方がいいんじゃないですか?」
オーウェンの言葉に皆の視線がシリルへ向くと、シリルは一言だけ返した。
「治っている」
すぐにエレノアが口を開く。
「まだ治っていません」
あまりにも間を置かない返答だった。
一瞬の沈黙。
次いで、オーウェンが堪えきれないように笑った。リアナも口元へ手を当てている。
「エレノア様に見張っていただいた方がよさそうね」
リアナは冗談めかして笑った。
けれど、その言葉にエレノアの表情が僅かに曇る。
もう、自分はシリルのそばにいる理由を持っていない。治るまで見守りたいと思っても、毎日傷の具合を尋ねることが許されるのか分からない。
同じことを考えたのか、シリルも何も答えなかった。
先ほどまでの穏やかな空気へ薄い寂しさが混じる。それに気づいたクラウディアが、静かに話題を変えた。
「まずは今日は休みましょう。正式な褒賞についても、近く沙汰があるはずです」
「そうですね」
アルヴィンが穏やかに頷く。
一人、また一人と、それぞれの行き先へ向かって仲間たちが廊下を離れていく。
やがて残ったのは、エレノアとシリルだけだった。
これまでなら、シリルは当然のようにエレノアの部屋まで同行した。王城内であっても、専属護衛として、彼女を一人で歩かせることはなかった。
だが、今日は違う。
シリルはいつものように一歩を踏み出しかけ――止まった。
護衛任務は終わった。もう彼女を送る命令は受けていない。もう、その必要はない。
そう理解した瞬間、先ほど胸へ生まれた空白が、再び重く沈んだ。
シリルはゆっくりと足を戻す。その小さな動きにエレノアも気づいた。
「……シリル様?」
シリルはすぐには答えない。
長い廊下に窓から午後の光が差し込む。外からは運河を流れる水音がかすかに聞こえる。
二人の間に、今までとは異なる距離が生まれていた。
「護衛任務は終わった」
低い声だった。
「……はい」
分かっていたことなのに、彼自身の口から告げられると、胸が痛んだ。
「これまで、本当にありがとうございました」
エレノアは笑おうとした。けれど、上手く笑えているか分からない。
「何度も、助けていただきました。……私は、シリル様がいてくださらなければ、ここまで来られませんでした」
シリルは黙って聞いている。
エレノアは深く一礼した。
「心より、感謝いたします」
頭を下げたまま、胸の奥へ込み上げる寂しさを、必死に抑える。
これで終わりなのだ。
これからシリルは、近衛騎士団第一隊の隊長として日常へ戻る。エレノアもまた、自分の家へ帰って家族と暮らし、研究を続けていく。
それぞれが、本来の場所へ戻るのだ。
「エレノア嬢」
呼ばれ、顔を上げる。
シリルは真っ直ぐ彼女を見つめていた。青い瞳の奥に、何かを決めたような強い光がある。
「任務は終わった」
先ほどと同じ言葉。
でも、今度はその先があった。
「だが、以前、伝えたことを覚えているか」
エレノアは目を瞬いた。
星環の祭壇へ向かう前。――『最後の任務が終わったら、話したいことがある。』確かに彼は、そう告げていた。
「……はい」
胸が、僅かに速く鳴り始める。
「覚えております」
シリルは小さく頷いた。
「近いうちに、時間をもらいたい」
簡潔な言葉だった。
何を話すのかはここでは告げない。それでも、王命が終わったあとももう一度会いたいと、彼の意思で求めてくれた。
その事実だけで、エレノアの胸の空白へ温かな光が差し込む。
「はい。お待ちしております」
今度は、自然に微笑むことができた。シリルの表情もほんの僅かに和らぐ。
「では、私は部屋へ戻りますね」
エレノアがそう告げ、ひとりで歩き出そうとする。
その瞬間。
「待て」
思ったより強い声が出た。
エレノアがすぐに振り返る。シリル自身も、一瞬だけ黙った。
もう護衛ではない。送る義務もない。
それでも。
「……今日は送る」
「ですが、護衛任務は……」
「任務ではない」
即座に返され、エレノアの瞳が大きく開かれた。
「俺が、そうしたい」
それだけ言うと、再び、エレノアの半歩前へ立った。
いつもと同じ位置だった。
けれど今は、そこへ立てと命じる王命は、もうない。
エレノアはそのことに気づき、胸の高鳴りを抑えながら、その隣へ一歩近づく。
「では……お願いいたします」
「ああ」
二人は並んで歩き始めた。
窓の外では、長い時を越えて受け継がれてきた水が、陽光を受けながら穏やかに流れていた。
過去から未来へ。
終わりではなく、新たな始まりへ向かうように。




