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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第五章

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89話 任務の終わり 後編

89話 任務の終わり 後編



シリルが一歩下がる。


元の位置へ戻り、そして真っ直ぐ前だけを見据えている。


エレノアは声を掛けることはできなかった。



護衛任務は、もう終わった。


明日から、朝に彼が迎えに来ることはない。研究室へ向かう廊下で半歩前を歩く姿も、遠征の馬上で自分を守る腕も、疲れた時に差し出される手も。


これまで当たり前のようにそばにあったそれらは、王命とともに失われる。


無事に任務を終えたのに。


どうして。


こんなにも寂しいのだろう。





二人の間に流れた僅かな変化を知っているのか、レオンハルト王はすぐに次の言葉を続けた。


「正式な褒賞については、後日改めて沙汰する」


全員の視線が王へ戻る。


「この任務は国家最高機密に関わる。よって、すべての功績を公に明かすことはできぬ。だが――」


王の声へ、確かな力が籠もる。


「そなたたちが王国を救った事実まで、なかったことにするつもりはない」


ダリウス。

ガレス。

エリオット。

シリル。

クラウディア。

オーウェン。

リアナ。

エレノア。

アルヴィン。


一人ずつに王の視線が向けられる。


「ダリウス」


「はっ」


「そなたは近衛騎士団長として、最後まで全体を統率した。予測のできぬ遺跡と装置を前にしながら、ただの一人も欠けることなく帰還させた働き、見事である」


「もったいなきお言葉」


「ガレス」


「はっ」


「副団長として前線を支え、信頼の石板を担った。そなたが繋いだ近衛騎士たちの力なくして、調律は成らなかったであろう」


「ありがたきお言葉にございます」


「クラウディア、オーウェン、リアナ」


三人が同時に姿勢を正す。


「そなたたちは幾度もの危険において、それぞれの役目を果たした。命を預け合い、仲間を守り抜いたそなたたちの働き、誇りに思う」


「はっ」


返答が一つに重なる。


「エリオット」


「はい」


「各地の情報をまとめ、遠征の物資と連絡を滞りなく支えた。表へ見えぬ働きもまた、任務を成功へ導いた力である」


「ありがたきお言葉にございます」


「アルヴィン」


「はい」


アルヴィンが深く頭を下げる。


「そなたの歴史と地理に関する知識が、失われた場所へ至る道を示した。この先も、見た真実を正しく記録し、未来へ残してほしい」


「生涯を懸けて、務めさせていただきます」


最後に。


王の視線は、エレノアとシリルへ向けられた。


「エレノア」


「はい」


「そなたは誰にも読めなかった文字を読み、断片となっていた知識を繋ぎ、幾千年もの時を越え王国を救う答えへ辿り着いた。そなたの知恵と、真実を未来へ渡そうとする心を、私は決して忘れぬ」


エレノアの瞳が潤む。


「ありがたきお言葉にございます」


「シリル」


「はっ」


「そなたは幾度も危険の前へ立ち、最後までエレノアを守り抜いた。恐れを知りながらも、その先へ踏み出し続けた働きは、『勇気』を担った者に相応しいものであった」


シリルの表情は変わらなかった。だが、左の指先が、僅かに動いた。


「見事であった」


「……ありがたきお言葉にございます」


王は全員を見渡した。


「そなたたちは、過去から受け取った命を未来へ繋いだ。その功績に相応しい褒賞を、必ず与える。本日は、十分に身体を休めよ」


「はっ」


全員の返答が、謁見の間へ力強く響いた。


これで、正式な報告は終わった。


極秘任務も。


王命も。


すべて完遂された。





謁見の間を退出すると、それまで張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。


オーウェンが大きく息を吐く。


「これで、本当に終わったんだな」


リアナが、その隣で微笑んだ。


「長かったわね」


「もう遺跡の床が崩れたり、幻惑が迫ってきたりするのは御免だ」


「そんなことを言っていると、次の任務でまた崩れるわよ」


「やめてくれ」


二人の会話に、クラウディアの口元も僅かに和らぐ。


ガレスはそれを横目に見ながら、短く告げた。


「気を抜くのは、傷が治ってからにしろ」


「副団長、それはシリルに言った方がいいんじゃないですか?」


オーウェンの言葉に皆の視線がシリルへ向くと、シリルは一言だけ返した。


「治っている」


すぐにエレノアが口を開く。


「まだ治っていません」


あまりにも間を置かない返答だった。


一瞬の沈黙。


次いで、オーウェンが堪えきれないように笑った。リアナも口元へ手を当てている。


「エレノア様に見張っていただいた方がよさそうね」


リアナは冗談めかして笑った。


けれど、その言葉にエレノアの表情が僅かに曇る。


もう、自分はシリルのそばにいる理由を持っていない。治るまで見守りたいと思っても、毎日傷の具合を尋ねることが許されるのか分からない。


同じことを考えたのか、シリルも何も答えなかった。


先ほどまでの穏やかな空気へ薄い寂しさが混じる。それに気づいたクラウディアが、静かに話題を変えた。


「まずは今日は休みましょう。正式な褒賞についても、近く沙汰があるはずです」


「そうですね」


アルヴィンが穏やかに頷く。


一人、また一人と、それぞれの行き先へ向かって仲間たちが廊下を離れていく。


やがて残ったのは、エレノアとシリルだけだった。


これまでなら、シリルは当然のようにエレノアの部屋まで同行した。王城内であっても、専属護衛として、彼女を一人で歩かせることはなかった。


だが、今日は違う。


シリルはいつものように一歩を踏み出しかけ――止まった。


護衛任務は終わった。もう彼女を送る命令は受けていない。もう、その必要はない。

そう理解した瞬間、先ほど胸へ生まれた空白が、再び重く沈んだ。


シリルはゆっくりと足を戻す。その小さな動きにエレノアも気づいた。


「……シリル様?」


シリルはすぐには答えない。


長い廊下に窓から午後の光が差し込む。外からは運河を流れる水音がかすかに聞こえる。


二人の間に、今までとは異なる距離が生まれていた。 




「護衛任務は終わった」


低い声だった。


「……はい」


分かっていたことなのに、彼自身の口から告げられると、胸が痛んだ。


「これまで、本当にありがとうございました」


エレノアは笑おうとした。けれど、上手く笑えているか分からない。


「何度も、助けていただきました。……私は、シリル様がいてくださらなければ、ここまで来られませんでした」


シリルは黙って聞いている。


エレノアは深く一礼した。


「心より、感謝いたします」


頭を下げたまま、胸の奥へ込み上げる寂しさを、必死に抑える。




これで終わりなのだ。


これからシリルは、近衛騎士団第一隊の隊長として日常へ戻る。エレノアもまた、自分の家へ帰って家族と暮らし、研究を続けていく。


それぞれが、本来の場所へ戻るのだ。




「エレノア嬢」


呼ばれ、顔を上げる。


シリルは真っ直ぐ彼女を見つめていた。青い瞳の奥に、何かを決めたような強い光がある。


「任務は終わった」


先ほどと同じ言葉。


でも、今度はその先があった。


「だが、以前、伝えたことを覚えているか」


エレノアは目を瞬いた。


星環の祭壇へ向かう前。――『最後の任務が終わったら、話したいことがある。』確かに彼は、そう告げていた。


「……はい」


胸が、僅かに速く鳴り始める。


「覚えております」


シリルは小さく頷いた。


「近いうちに、時間をもらいたい」


簡潔な言葉だった。


何を話すのかはここでは告げない。それでも、王命が終わったあとももう一度会いたいと、彼の意思で求めてくれた。


その事実だけで、エレノアの胸の空白へ温かな光が差し込む。


「はい。お待ちしております」


今度は、自然に微笑むことができた。シリルの表情もほんの僅かに和らぐ。


「では、私は部屋へ戻りますね」


エレノアがそう告げ、ひとりで歩き出そうとする。


その瞬間。


「待て」


思ったより強い声が出た。


エレノアがすぐに振り返る。シリル自身も、一瞬だけ黙った。


もう護衛ではない。送る義務もない。


それでも。


「……今日は送る」


「ですが、護衛任務は……」


「任務ではない」


即座に返され、エレノアの瞳が大きく開かれた。


「俺が、そうしたい」


それだけ言うと、再び、エレノアの半歩前へ立った。


いつもと同じ位置だった。


けれど今は、そこへ立てと命じる王命は、もうない。


エレノアはそのことに気づき、胸の高鳴りを抑えながら、その隣へ一歩近づく。


「では……お願いいたします」


「ああ」


二人は並んで歩き始めた。





窓の外では、長い時を越えて受け継がれてきた水が、陽光を受けながら穏やかに流れていた。


過去から未来へ。


終わりではなく、新たな始まりへ向かうように。


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