88話 任務の終わり 前編
88話 任務の終わり 前編
王都へ帰還してから、五日が過ぎた。
各地から届く報告は、日を追うごとに増えていた。
北部の一部の村では、低下を続けていた井戸の水位が僅かに上昇し、東部では細くなっていた河川の流れが回復へ向かっている。南部の農村からも、減少していた農業用水へ少しずつ水が戻り始めたとの知らせが届いていた。
もちろん、すべてが元通りになったわけではない。一度減った水が、僅か数日で以前と同じ量へ戻るはずもなく、乾いた農地や低下した井戸が完全に回復するには、まだ時間が必要だった。
それでも、これまで各地から届いていたのは、水が減った、井戸が浅くなった、川が細くなったという報告ばかりだった。
今は違う。少しずつではあっても、届き始めたのは回復を知らせる言葉だった。
巨大水路装置から送り出された水は、確かに王国各地へ届いている。
王国へ迫りつつあった危機は、過去から託された知識を受け継ぎ、力を合わせた彼らの手によって、確かに防がれたのだ。
◇
その日の午後、エレノアは王城の奥にある謁見の間へ向かっていた。
窓から差し込む陽光が、磨き上げられた床へ淡い光を落としている。廊下の窓の向こうでは、王都を巡る運河が穏やかに流れていた。
その水面を目にするたび、エレノアの胸には言葉にできない感情が込み上げる。
この水の遥か下には、巨大水路装置がある。
幾つもの時代を越え、名も残らなかった人々の願いと知識に守られながら、今も王国の隅々へ水を送り続けている。
けれど、その真実を知る者はごく僅かだった。
巨大水路装置。記憶石。星環の祭壇。そして、ヴァレシア王国の滅亡とリーヴェル王国建国を結ぶ、失われていた歴史。
そのすべては、国家最高機密として封じられた。
国民に公表されたのは、王命による水源調査の結果、地方の水量減少に改善の兆しが見られたということだけだった。
大きな歓声が上がったわけではない。王都の人々にとっては、遠い土地で起きていた異変が収まりつつあるという、一つの知らせにすぎない。
けれど、エレノアたちは知っている。
何事も起こらなかったかのように人々の日常が続いていくことこそ、自分たちが王国を救うことができた、何よりの証なのだと。
だが今日、エレノアが謁見の間へ呼ばれた理由は、水の回復報告だけではなかった。
極秘任務の完遂を、正式に宣言するため。
そして、長く続いた王命の任を、終えるためだった。
「エレノア嬢」
低く落ち着いた声が、少し前方から届いた。その声に顔を上げると、廊下の分岐にシリルが立っていた。
白を基調とした近衛騎士の礼装に、濃紺のマント。
負傷した右腕は上着の下へ収められ、見た目には普段と変わらない。だが、右手を強く握ることはまだできないはずだ。左肩の炎症も完全には引いていないと聞いている。
それでも背筋は真っすぐ伸び、わずかな弱さも感じさせなかった。
シリルはエレノアへ近づくと、いつものように頭から足元までへ静かに視線を巡らせた。
「身体は」
「もう、ほとんど痛みません」
「ほとんど?」
エレノアは僅かに言葉へ詰まった。
「……脇腹に、少しだけ」
青い瞳が細められる。
「医師には」
「もう心配ないと言われました」
「無理はするな」
「はい」
今度は素直に頷く。続いて、エレノアの視線が彼の肩と腕へ移った。
「シリル様の体調は、いかがですか?」
「順調だ」
「痛みは?」
以前なら、問題ないと答えていただろう。
だが、シリルは僅かな間のあと、低く答えた。
「まだ少しある」
正直な返事に、エレノアは目を瞬いた。それから、ほっとしたように微笑む。
「きちんと教えてくださったのですね」
「君が、そうしろと言った」
「はい」
胸の奥へ、柔らかな喜びが広がった。
エレノアがそうしてほしいと頼んだから、彼はこれまで口にしなかった痛みを、きちんと言葉にしてくれた。
ほんの些細な変化なのかもしれない。けれどエレノアには、それがとても大切なことに思えた。
「もう少しだけ、無理をなさらないでくださいね」
「ああ」
短い返事だが、その声も、以前より僅かに柔らかい。
二人は並んで歩き始めた。シリルはいつものように、エレノアの半歩前へ立つ。
人とすれ違う時には自分の身体を外側へ置き、曲がり角では先に視線を向ける。危険がないことを確かめてから、エレノアの歩調へ合わせて進む。
何度も繰り返されてきた動き。あまりにも自然で、いつの間にか、エレノアにとっても当たり前となっていた光景だった。
けれど今日をもって、この位置に彼が立つ理由は、なくなる。
そのことを思った途端、エレノアの胸の奥に小さな寂しさが生まれた。
任務は無事に終わった。王国を救うこともできた。本来なら、喜ぶべきことだ。
それなのに、王命が終わることを思うと、心のどこかが静かに沈んでいく。
「どうした」
シリルが足を緩めたので、エレノアは慌てて首を横へ振る。
「いいえ。何でもありません」
しばらく彼女を見つめたけれど、無理に聞き出そうとはしなかった。
「そうか」
それだけ答え、再び前を向く。
エレノアもその背中を追った。
今日までは、王命が二人を繋いでいた。
シリルは近衛騎士団第一隊長だ。本来なら、没落した元伯爵家の令嬢でしかない自分が、こうして毎日のように顔を合わせ、言葉を交わせるような相手ではない。
任務が終われば、彼は本来の務めへ戻る。自分もまた、家族の待つ屋敷へ帰ることになる。
これから先、王城で偶然顔を合わせることはあるかもしれない。けれど、今までのように毎日そばにいることも、当たり前のように言葉を交わすことも、きっとなくなる。
もうこの先。
この半歩後ろを歩けることもないのだろう。
そう思った途端、胸の奥がきゅっと縮むような感覚がして、エレノアは自分でも戸惑いながら、そっと胸元へ手を添えた。
◇
謁見の間にはこの極秘任務に関わった者たちと、一部の重鎮のみが揃っていた。
玉座には、国王レオンハルト・リーヴェル。その傍らには宰相。
近衛騎士団長ダリウス・クロフォード。副団長ガレス・オルディン。補佐官エリオット。クラウディア、オーウェン、リアナ。
そして、古代歴史学者のアルヴィンもいる。
エレノアとシリルが所定の位置へ並ぶと、謁見の間の扉が静かに閉じられた。
この場にいる者以外に、今日の正式な報告を聞く者はいない。
全員が揃ったことを確認し、ダリウスが一歩前へ出た。
「陛下」
胸へ掌を当て、深く頭を下げる。
「王命により開始された、四枚の石板の探索および王国各地における水源異変の調査について、ご報告申し上げます」
「許す」
「はっ」
ダリウスは顔を上げる。
「四枚の石板はすべて発見・回収され、それらに導かれる形で星環の祭壇を経て、王都地下に存在する巨大水路装置へ到達いたしました」
静かな声が、広い謁見の間へ響く。
「四枚の石板を所定の台座へ還し、碑文に示された手順に従って調律を完了いたしました。その後、地方各地の井戸、河川、湧水および農業用水において、回復の兆しを確認しております」
宰相が手元の報告書を開いた。
「特に水位低下が報告されていた地域では、減少が止まり、一部では緩やかな回復が始まっております。遠方の地域については、今後も観測が必要ですが、現時点では水源異変の進行は収束へ向かったと判断して差し支えないでしょう」
レオンハルト王が、静かに頷く。
「巨大水路装置および記憶石に関する記録は」
エリオットが一礼した。
「陛下のご命令に従い、閲覧を許可された者のみで作成の準備を開始しております。調律を行うべき時期、必要な手順、四枚の石板の役割については、現存する古代ヴァレシア文字の原文を正確に写し残したうえで、現代語による訳文と詳細な解説を併記いたします。」
一度言葉を切り、さらに続ける。
「また、記録を一か所へ集約せず、複数の場所で保持するための方法についても検討を進めております」
「よい」
王は深く息を吐いた。
王国を救うだけでは足りない。
二千年後、同じ危機を迎える未来の者たちへ、正確な知識を残さなければならない。
ヴァレシアの過ちを、繰り返さないために。
名も知らぬ先人たちから受け取ったものを、今度こそ、完全な形で次代へ渡すために。
レオンハルトは、その場に並ぶ者たちを一人ずつ見渡した。
「皆、よく務めを果たした」
穏やかだが、重みのある声だった。
「東の地下神殿に始まり、四枚の石板に導かれて幾つもの試練を越え、失われた巨大水路装置へ到達した。そして、国から水が失われる前に流れを取り戻した」
エレノアの胸には、これまでの旅一つ一つが蘇っていた。
地下神殿、知恵の祠、誓約の回廊、星鏡庭園、蒼鏡の水殿、星環の祭壇。そして、巨大水路装置。
幾度も危険へ晒された。それでも誰一人として欠けることなく、辿り着いた場所。
「これをもって」
王の声が、謁見の間へ響く。
「四枚の石板の探索および水源異変の解明に関する王命は、完遂されたものとする」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが、僅かにほどけた。
終わった、本当に。
長く続いた任務が、今ここで正式に終わったのだ。
ダリウスは深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます」
その声には、安堵が滲んでいた。
レオンハルト王の視線が、エレノアへ向けられる。
「エレノア・アシュフォード」
「はい」
名を呼ばれ、エレノアは一歩前へ進んだ。裾を整え、深く一礼する。
「そなたへ命じていた、古代文字判読役としての特別任務について」
一度、言葉を切る。
「本日をもって、その任を解く」
静かな宣言だった。
最初に王命を受けた時、エレノアは古代文字を読む役目だけを与えられた。
自分がどこへ向かうのかも、その知識が王国の未来を救うことになるとも知らなかった。ただ、必要とされたことに応えようとした。
父から教わった文字を、自分がこれまで積み重ねてきたものを、王国のために役立てようとした。
その役目が、今、終わろうとしている。
「長きにわたり、そなたへ大きな責を負わせた」
王の深青の瞳が、穏やかに細められる。
「幾度も危険へ晒しながら、最後まで役目を果たさせたことを、王として心苦しく思う」
エレノアは小さく首を横へ振った。
「もったいなきお言葉にございます。私は、この任を与えていただいたことを光栄に思っております」
声が僅かに震える。
「父から受け継いだ知識によって、王国の未来へ水を繋ぐことができました」
それでも、翡翠色の瞳で真っ直ぐ王を見つめた。
「これ以上の喜びはございません」
レオンハルトは静かに頷いた。
「見事であった」
その一言に胸の奥が熱くなる。
エレノアはもう一度、深く頭を下げた。
「謹んで、任をお返しいたします」
元の位置へ戻ったエレノアの隣にはシリルが立っている。
これまで彼女が王命下にある限り、彼は専属護衛として常にそばにいた。
けれどエレノアの任務が終わった今。
もう一つの王命も、役目を終える。
レオンハルト王の視線が、シリルへ向けられた。
「シリル・ヴァルモント」
「はっ」
シリルは一歩前へ進み、胸へ掌を当てる。
姿勢はいつもと変わらない。冷静で、隙がなく。近衛騎士として申し分のない立ち姿。
「そなたへ命じていた、エレノア・アシュフォードの専属護衛について」
王の言葉が、ゆっくりと続く。
「本日をもって、エレノア・アシュフォードの専属護衛任務を解く」
分かっていた。
当然のことだった。
エレノアの特別任務が終われば、その身を守るために与えられた専属護衛の任も終わる。
王命を受けたあの日から、シリルの役目はエレノアを守ることだった。王城でも、遺跡でも、馬上でも。彼女が危険へ向かう時には常にそばにいることを許され、むしろ離れないことこそが任務だった。
それが、今日で終わる。
明日からは、エレノアがどこへ行くのか、誰と会うのか、無事に一日を過ごせたのか。
それを当然のように知ることは、もうできない。
危険はないかとそばへ立つ理由も、王命だからと彼女を訪ねる理由も、護衛だからと躊躇なく手を差し伸べる理由も失われる。
任務の完遂を誰より願っていた。王国を救いエレノアを無事に家族のもとへ帰す。それがシリルの望みだった。
それなのに望みが叶った今、胸の内には達成感や安堵とはまるで異なる感情が重く沈んでいた。
身体の一部を突然失ったような、冷たく深い空白だった。
明日から彼女の隣は自分の場所ではない。
その事実が、これまでのどの危機とも違うかたちでシリルの胸を強く締めつけた。
けれど表情には出さない。出すことは許されない。これは任務だ。終わりを受け入れることまでが、近衛騎士としての責務だった。
シリルは深く頭を下げた。
「御意」
短く、いつもと変わらぬ声だった。
ただ一人、すぐ隣にいたエレノアだけが、その声にほんの僅かな硬さが混じったことへ気づいた。




