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古代文字を読む令嬢は、無愛想な近衛騎士に守られる  作者: 橙華
第五章

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81話 未来へ繋ぐ 前編

81話 未来へ繋ぐ 前編




応急処置を終えても、シリルの表情から険しさは消えていなかった。


裂けた濃紺の袖の下では、右腕へ止血布が幾重にも巻かれている。左肩にも、エレノアの身体を支え続けた負荷が残っているはずだった。


それでも彼が気にしているのは、自分の傷ではない。青い瞳は何度もエレノアへ向き、その顔色や呼吸を確かめていた。


「本当に歩けるか」


「はい」


エレノアは力を込めて頷いた。


激流に打たれた身体は痛む。掴まれていた手首にも、赤い痕が残っている。それでも、立てないほどではなかった。


「少し痛みはありますが、歩けます」


シリルの眉間へ、さらに皺が寄る。


「無理なら言え」


「必ずお伝えします」


「すぐにだ」


「はい」


念を押され、もう一度頷く。


それでも、彼の目には迷いが残っていた。


ほんの少し前、自分の目の届かない場所へ送り出したエレノアは、通路から落ちたのだ。

あと一瞬遅ければ。手が届かなければ。今ここに、彼女はいなかったかもしれない。


その事実は、まだ生々しくシリルの中に残っている。


けれど巨大水路装置の各所からは、重く軋む音が断続的に響いている。破損した北側の主水路を一時的に止めたことで、別の流路へ水圧が移り始めているのだ。


もう、時間は残されていない。


「各員、配置へ戻る」


ダリウスの声が広大な空間へ響いた。


「次に異常が起きる前に、調律を完了させる」


「はっ」


騎士たちの返答が重なる。

エレノアも北の台座へ再び向かおうとした。


その瞬間、シリルの左手が、僅かに動いた。


止めようとしたのだろう。だがその手はエレノアへ触れる前に止まった。


エレノアが振り返ると、青い瞳と視線が重なった。


「シリル様」


彼は何も言わない。けれど、その沈黙だけで分かった。


離したくないのだ。

今度こそ。

自分の目が届く場所から、一歩たりとも。


エレノアは胸の奥が痛むような思いで、それでも静かに告げた。


「私は、大丈夫です」


「さっきもそう言った」


低い声だった。責めているわけではない。

ただ、怖かったのだ。


そのことが、エレノアにも分かった。


「はい。……ですが、シリル様」


一度、呼吸を整える。


「今は、私たちそれぞれに、果たさなければならない役目があります」


シリルの顎が僅かに強張った。


「分かっている」


「私が北へ行きます。シリル様は、西へ」


返事はない。エレノアは言葉を重ねた。


「第四の試練で、私は教えられました。信頼するということは、ずっとそばにいることではないのだと」


シリルの瞳が、僅かに動く。


蒼鏡の水殿では、互いの姿も見えず、声さえ信じられない中を進んだ。それでも最後には、相手が必ず自分の役目を果たすと信じた。


「あの時、私はシリル様を信じて進みました」


エレノアは静かに微笑んだ。


「今も、同じです。私は、シリル様が必ずご自分の役目を果たして戻ってくると信じています」


シリルの青い瞳が、僅かに揺れた。


「ですから」


エレノアは自分の胸元へ手を添える。


「シリル様も、私を信じてください」


沈黙が落ちた。巨大水路装置の轟音だけが、二人の間を通り過ぎていく。




シリルはエレノアを見つめていた。


離れればまた何か起こるかもしれない。今度は、間に合わないかもしれない。

その恐怖は消えない。おそらく。この先も、簡単には消えない。


けれど、守ることと、信じることは、同じではない。


そばにいることでしか守れないと思っていた。目を離せば失うような気がしていた。

だがエレノアは、守られるだけの人ではない。

自分と同じように、恐れながらも、自分にしかできない役目のために、前へ進む人だ。


そして、さきほども、激流の恐怖の中でさえ彼女は自分の知識を手放さなかった。宙吊りになりながら設計図を思い出し、オーウェンとリアナへ指示を出し、自分自身の命を繋いだ。


今度こそ、彼女と、そして仲間を信じるときだ。




シリルは、ゆっくりと息を吐いた。


「……分かった」


エレノアの瞳が、僅かに和らぐ。


だが、シリルはまだ続けた。


「何かあれば、調律より先に下がれ」


「分かりました」


「絶対に無理はするな」


「はい」


同じ言葉を重ねる。でも、先ほどとは違った。これは、引き止めるための言葉ではない。送り出すための言葉だった。


シリルはオーウェンとリアナへ視線を向ける。


「任せろ」


「必ずエレノア様を連れて戻る」


二人の返答を聞き、シリルは僅かに顎を引いた。


「頼む」


それだけだった。だが、二人には、その一言の重さが分かった。


エレノアは、そんなシリルを見つめた。


「シリル様」


青い瞳が戻ってくる。


「私は、必ず役目を果たします。そして必ず戻ります」


エレノアはシリルの手へそっと指先を重ねた。手袋越しの、ほんの短い接触だった。


昨日も、そして先ほども、何度も交わした言葉。今度はエレノアからはっきりと告げる。


「ですから、シリル様も――どうかご無事で、戻ってきてください」


シリルの瞳が僅かに揺れ、彼女の指先を包むように左手が動きかける。だが、ここが任務の最中であることを思い出したのか、その手は静かに止まった。


シリルは一瞬だけ目を伏せる。


それから、


「……ああ」


静かに答えた。


「君が役目を果たして、戻ってくると」


低く、けれど迷いなく。


「信じる」


シリルがその言葉を口にすることは珍しかった。エレノアの胸の奥へ温かなものが広がり、自然と表情が綻ぶ。


「はい。私もです」


一瞬だけ二人は互いを見つめた。


見えなくなっても、手が届かなくても。相手は必ず、自分の役目を果たして戻ってくる。


今はそれを信じて進むだけだった。


シリルは視線を外し、エレノアの手から離れる。離れがたい感情を断ち切るように。


「必ず戻れ」


「はい」


エレノアは北へ向き直ると、オーウェンとリアナがその両側へつく。『知恵』の石板を担う騎士たちも続いた。

一歩。また一歩。エレノアの背中が遠ざかる。


シリルはその姿を見ていた。

けれど呼び止めることはしなかった。やがて、幾重にも重なる水管の向こうへ蜂蜜色の髪が見えなくなる。


胸の奥へ不安は残っている。

消えるはずもない。


それでも、シリルは西へ向き直った。

自分の前には、『勇気』の石板。自分にしか果たせない役目が待っている。


――必ず戻ります。


エレノアの声を、胸へ置く。


ならば、自分も約束を果たす。

自分にしかできない役目を果たし、必ず、彼女のもとへ戻るために。


シリルは『勇気』の台座へ続く道を、迷いなく歩き始めた。





北側の通路には、先ほど噴き出した水がまだ残っていた。


石床は濡れ、淡い光を反射している。破損した透明管の裂け目からは、水滴が一つずつ落ちていた。


主流路を閉じたため、先ほどまでの猛烈な水音はない。代わりに、巨大な装置の奥から不規則な軋みが聞こえてくる。


オーウェンとリアナはエレノアを挟むように位置を取り、先ほど以上に周囲を警戒しながら進んだ。石板を運ぶ二人の騎士も濡れた床へ十分に注意を払い、一歩ずつ進んでいる。


「この先です」


エレノアが前方を示した。


通路の先に黒い台座が見えている。黒曜石を思わせる艶やかな石。中央には石板と同じ形の窪みがあり、その中を細い水が流れていた。


水は台座の一方から入り、窪みを横切ったあと、反対側の管へ吸い込まれている。石板を置けば、その下を水が通る構造になっているらしい。


台座の周囲には、古代ヴァレシア文字が刻まれていた。

エレノアは近づき、慎重に目で追う。


「『知恵を担う者、この流れへ鍵を還せ』」


読める。


ここが『知恵』の石板を置く場所で間違いない。


オーウェンとリアナは台座の周囲を一周した。先ほどのような亀裂がないか、時間を惜しみながらも一つずつ確かめていく。


「異常はない」


オーウェンが確認し、頷いた。


「こちらも問題ないわ」


リアナが反対側を確認し終え、エレノアの隣へ立つ。


「周囲は私たちが見ます。エレノア様は、ご自分の役目に集中してください」


オーウェンも頷いた。


「何かあれば、俺たちが止める」


エレノアは二人を見た。

シリルが、自分を託した相手たち。そして自分もまた、幾度も命を預けてきた仲間たち。


「……お願いします」


エレノアは静かに頷き、『知恵』の台座へ向き直った。







西の『勇気』の台座へ辿り着いた時、シリルの呼吸は僅かに乱れていた。


右腕には止血布が巻かれ、左肩にはエレノアの身体を支え続けた痛みが残っている。それでも歩みを止めることなく、運搬班のもとへ向かった。


同行していた騎士たちは、すでに『勇気』の石板を台座の前へ用意していた。


「隊長、腕が――」


「問題ない」


短く答え、シリルは黒い台座へ視線を移した。


中央には石板と同じ形の窪みがあり、その底を細い水が流れている。周囲に刻まれた古代文字は彼には読めない。だが、自分が何をすべきかは分かっていた。


――勇気ある者は、閉ざされた流れを拓く。


シリルは台座の前へ立つ。


その瞬間だった。


足元から伸びていた細い線へ、深い紺碧の光が灯る。


光は彼の立つ西の台座から、遥か中央へ向かって走っていった。







中央の足場では、ダリウスとアルヴィンが半球状の装置を見守っていた。


四方向へ延びた線のうち、一つ目の東の光が灯る。『資格』の石板を担うレオンハルト王が、台座へ到達した証だ。


「陛下です」


アルヴィンが息を潜める。


続いて南。


『信頼』を担うガレスが、所定の位置へ着いたのだろう。


やがて北にも、柔らかな白い光が灯る。


ダリウスの目が僅かに細められた。


「エレノア嬢も着いたか」


残るは西だけだった。


巨大水路装置の軋みが、低く空間を震わせている。


一瞬。


二瞬。


やがて最後の線へ、深い紺碧の光が走った。


「……揃いました」


アルヴィンの声が僅かに震える。


東。北。西。南。四つの光が、中央の半球状装置へ集まっていた。ダリウスは装置へ触れず、その変化を見据える。


「全員、配置についた」


その直後、四つの光が同時に強く輝いた。中央の装置へ、夜空に星が灯るような銀白色の光が浮かび上がる。


一度。


――瞬く。


二度目。


――さらに強く瞬く。


アルヴィンが息を呑んだ。


「『星の瞬きに従い、鍵を流れへ還せ』……」


ダリウスも理解した。


これが、待っていた合図だ。


そして三度目。


四方へ向けて、銀白色の光が一斉に走った。



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