80話 交わした約束 後編
80話 交わした約束 後編
エレノアの身体は、上層の通路の外へ投げ出された。
下では、無数の水路と金属の輪が動いている。
落ちれば、助からない。
エレノア自身も、そう理解した。
視界が回る。
身体が落ちていく。
その時。
「っ!」
手首へ激しい衝撃が走った。
シリルだった。
北側主水路の真下へ続く下層通路へ滑り込み、落下してきたエレノアへ咄嗟に手を伸ばしていた。
右手で通路の銀色の縁を掴み、左手でエレノアの手首を握っている。その身体は腹這いになり、胸から先がすでに通路の外へはみ出していた。
「シリル様……!」
エレノアは宙へぶら下がっていた。
足元には何もない。
吹き上がる冷たい風。
轟音。
横からは、なおも猛烈な水が二人へ叩きつけている。
「手を、離すな」
シリルの声は、苦しげに掠れていた。
「はい……!」
エレノアは空いている手で、シリルの腕を掴もうとする。
けれど水圧で身体が揺さぶられる。
一度振られるたび、手首へ激痛が走った。
シリルの肩も、腕も、限界まで引き伸ばされている。
上層では、オーウェンが荒い息を整える間もなく身を起こした。
「エレノア嬢が!」
「下! シリルが掴んでる!」
リアナの声にオーウェンが縁から下を覗く。激流の向こう、下層の細い通路で、シリルが辛うじてエレノアを支えていた。
すぐに駆けつけようとしたが、破裂した管から噴き出す水が通路を横一面に塞いでいる。正面から踏み込めば再び外へ弾き飛ばされる。
オーウェンは一瞬で周囲へ視線を走らせた。
「……こっちなら通れる」
破裂した管が通路へせり出している根元と、壁との間には、人一人がようやく身体を通せるほどの隙間が残っていた。水柱の直撃を受けない、壁際のほんの僅かな空間。
オーウェンは壁へ身体を押しつけるようにして、その隙間へ滑り込んだ。背中を管へ擦りながら進む。飛沫が顔へ叩きつけられ、足元も濡れて滑る。
それでもようやく水流の反対側――リアナたちが来た道側へ抜けた。
「オーウェン、怪我は!」
「無事だ」
短く答え、すぐに下層へ視線を戻す。
そこではまだ、シリルがエレノアを掴み続けていた。
「シリル! 耐えろ!」
オーウェンが叫ぶ。
シリルは答えなかった。
答える余裕すらない。
右手の指が銀色の縁へ食い込んでいる。
左腕には、エレノア一人分の重さ。
さらに横から受け続ける猛烈な水圧。
左肩は外れそうなほど強く引かれ、皮膚の下では筋と骨が軋むような痛みが走っていた。
それでも、握った手だけは緩まなかった。
エレノアは見上げる。
濡れた黒髪、苦痛に歪む横顔、食いしばられた歯。
自分を掴む左手が、僅かに震えている。
このままでは。
「シリル様」
声が水音に掻き消されそうになる。
「何だ」
返事は短い。
それでも、すぐに答えてくれた。
「このままでは……二人とも落ちます」
青い瞳が鋭く細められる。
「黙っていろ」
「ですが」
「話すな。力を抜くな」
「シリル様の腕が……」
彼の身体が、僅かに下へ滑った。通路の縁を掴む右手から、金属と革手袋の擦れる音がする。
エレノアの胸へ、冷たい恐怖が広がった。このまま自分を支え続ければ、本当に彼まで落ちる。
それだけは嫌だった。
彼だけでも助かるのなら。
「私の手を離して――」
「絶対に離さない」
水音を切り裂くように、シリルの声が響いた。
迷いのない断言。
「ですが、このままでは」
「離さない」
もう一度。
今度は低く。
唸るような声だった。
「君を落とすくらいなら、腕が千切れても構わない」
エレノアの息が止まる。
これまで彼がどれほど強く自分を守ろうとしてきたのか。
分かっていたつもりだった。
けれど、その言葉に含まれたものは、護衛という役目だけでは到底説明できないほど切実だった。
「シリル様……」
「必ず、引き上げる」
苦しげな息の合間にも、声だけは揺らがない。
「だから、俺を見ていろ」
エレノアは涙が滲みそうになる目を見開き、必死に彼を見つめた。
◇
「水を止めるしかない!」
オーウェンは来た道の奥へ視線を走らせていた。
「この勢いじゃ、下へ近づけない!」
リアナも破裂した管と周囲の機構を見回す。
「中央へ伝えて! 分岐弁を閉じれば流れを止められるはず!」
同行していた騎士が来た道へ駆け戻る。
だが、中央まで戻って操作方法を探していては間に合わない。
シリルの腕は限界へ近づいている。エレノアの身体も、何度も水流へ振られていた。
「エレノア様!」
リアナが声を張る。
「設計図です!この管を止めるには、どこを操作すればいいんですか!」
設計図。半球状の装置へ刻まれていた、巨大水路全体の概略図だ。エレノアは強く目を閉じて記憶を辿った。
激流に打たれ、身体が揺れ、恐怖で思考が乱れそうになる。
それでも。
シリルが手を離さずにいてくれる。
オーウェンとリアナが、自分の言葉を信じて動いてくれる。
ならば、自分も果たさなければならない。知恵を託された者として。
あの図を思い出す。
四方の主水路、北側へ伸びる太い線、その手前に三つの円形印があった。一つ目は主分岐、二つ目は水量調整、三つ目は緊急遮断。
古代文字の注記――『主流路に歪み生じし時、上流の第三弁を閉じ、下流の第二弁を開け』。
「上流……」
エレノアは息を吸い込む。
「北側通路の手前に、三つの銀の輪があるはずです!」
オーウェンが振り返る。
来た道の先。管が分岐する場所に、確かに銀色の輪が三つ並んでいる。
「ある!」
「一番奥の輪を、右へ最後まで回してください! そのあと、中央の輪を左へ!」
オーウェンが走り出す。リアナはその場に残り、二人の状態を見守る。
「シリル、もう少しよ!」
だが返事はない。
シリルの右手が、さらに数センチ滑る。
袖が捲れ、濡れた腕が露出する。
筋肉が限界まで張りつめ。
腕が震え始めていた。
それでも、左手だけはエレノアを掴み続けている。
「これだ!」
遠くでオーウェンが、最初の銀輪へ手を掛ける。
「右へ回す!」
長く動かされていなかった機構は、容易には動かない。
オーウェンが全身の力を込める。
銀輪は重く軋みながら、少しずつ右へ回っていった。
「まだです!」
エレノアが叫ぶ。
「最後まで!」
「分かってる!」
さらに力を込める。
――ガンッ
輪が限界まで回り切った瞬間、水流が大きく脈打つ。
「次は中央!」
オーウェンが隣の輪へ飛びつく。
左へ。
水に濡れた手が滑る。
リアナが走り寄り、反対側から輪を掴んだ。
「一緒に!」
二人で力を加える。
動かない。
さらに押す。
古い機構の奥から、重い音が響く。
――ゴゴゴゴ……。
輪が、ゆっくりと回り始めた。
エレノアの横で噴き出していた水の勢いが、僅かに弱まる。
「もう少し!」
リアナが声を上げる。
最後まで回し切った瞬間。
管の内部で、水の向きが変わった。
轟音が遠ざかる。
白い水柱が細くなり。
勢いを失い。
やがて、途切れた。
大量の水滴だけが、静かな空間へ落ちていく。
「下へ!」
オーウェンが叫ぶ。先ほどシリルが使った連絡階段へ、リアナとともに駆け込んだ。
激流が止まった瞬間、シリルは息を吐くことすらせず、全身へ力を込めた。
「上がれ!」
右腕で通路の縁を引き寄せ、残る力全てを左腕に込めてエレノアを持ち上げる。
「シリル様……!」
エレノアも必死に足を通路の側面へ掛けようとする。だが、濡れた通路が滑る。
シリルの身体が軋んだ。
「手を伸ばして!」
下層通路へ辿り着いたリアナが通路の縁へ伏せ、身を乗り出した。オーウェンも反対側へ滑り込む。
「エレノア様、こちらへ!」
エレノアは空いている手を伸ばした。
リアナの指先が触れる。
一度滑り。
二度目で、しっかりと掴まれた。
オーウェンもエレノアの腕を取る。
「引くぞ!」
三人の力が重なった。
エレノアの肩が通路の高さまで上がる。
胸元が縁へ掛かり。
やがて全身が、濡れた石床の上へ引き戻された。
「エレノア様!」
リアナが身体を支え、危険な縁から離す。
けれど、まだ終わっていない。
シリルの身体が通路の外へ残っている。
エレノアを引き上げるために力を使い果たし、右手だけで辛うじてぶら下がっていた。
「シリル!」
オーウェンがすぐに腕を掴む。
リアナも加わり、二人がかりで引き上げる。
濡れた外套が石床へ擦れ、シリルの身体もようやく通路の上へ戻った。
全員がその場へ倒れ込むように息を吐く。
水滴が周囲へぽたぽたと落ち、巨大水路装置の低い振動だけが、再び空間を満たした。
「シリル様……」
エレノアが起き上がる。
身体中が痛む。
手首も、肩も、激流に打たれた脇腹も。
けれど、そのすべてを忘れてシリルへ駆け寄った。
シリルもまた、すぐに身体を起こした。
自分の状態を確かめるより先に、エレノアの肩を掴む。
「怪我は…っ」
声が荒い。呼吸も整っていない。それでも、青い瞳はエレノアの顔から腕、足元へ必死に動く。
「頭は打ったか」
「いいえ」
「息は」
「大丈夫です」
「痛む場所は」
「少しだけです。本当に――」
最後まで言い終える前に、シリルの手が止まった。
エレノアの顔を見つめる。
濡れた髪に蒼白な頬。けれど、確かに自分を見返している翡翠色の瞳。
生きている。
ここにいる。
その事実を認めた瞬間。
張り詰めていた何かが、シリルの中で切れた。
気づけば、腕が伸びていた。
次の瞬間、エレノアの身体は強く胸元へ抱き寄せられていた。
濡れた隊服。
速く打つ心臓。
震える強い腕。
エレノアの頬が、彼の胸元へ押し当てられる。
「……シリル様?」
返事はなかった。
ただ、抱き締める腕へさらに力が籠もる。失いかけたものが、本当にここにいるのか確かめるように。
エレノアは驚いたまま、動けなかった。シリルが人前で、ここまで感情を露わにしたことなど一度もない。
やがて。
耳元で、掠れた声がした。
「……無事でよかった」
低い。
震える声だった。
エレノアの胸が、大きく揺れる。
いつも冷静で、どんな危険を前にしても、表情一つ変えない人。その人が今、自分を抱き締めながら震えている。
水路へ落ちかけたのは、自分なのに。
シリルの方が、ひどく怯えているようだった。
エレノアはそっと、濡れた隊服を掴んだ。
「ありがとうございます」
声が震える。
「助けてくださって……」
シリルは何も答えない。
ただ、しばらくのあいだ彼女を離さなかった。
◇
やがて遠くから、急ぐ足音が響いた。
先ほど中央へ戻った騎士から報告を受け、ダリウスとアルヴィンが駆けつけてきたのだ。
「無事か!」
ダリウスの声に、シリルはようやくエレノアを抱いていた腕を緩めた。だが、エレノアの肩へ添えた手は離れない。
「全員無事です」
いつもの調子へ戻そうとする声。けれど、僅かに掠れている。
ダリウスが周囲の状況を確認し、破損した管へ視線を向けた。
「負傷者は」
「エレノア様とシリルです」
リアナが報告する。
「エレノア様が通路から落下して、シリルが掴み上げました」
「シリルは」
「問題ありません」
即答だった。
その時、エレノアの視線が、シリルの右腕へ止まった。
濃紺の袖口。
そこから、赤い雫が落ちている。
一滴。
また一滴。
水滴とは違う、濃い色。
「……血」
シリルが視線を落とす。
右腕の袖が、前腕の外側で大きく裂けていた。
エレノアを支えるあいだ、通路の鋭い金属縁へ押しつけられていたのだろう。長い裂傷から血が流れ、濡れた袖を赤く染めている。
さらに彼女の全体重と猛烈な水圧を受け止め続けた左肩は、僅かに下がっていた。左手の指先も、小さく震えている。
それでもシリルは、自分の傷に気づいてすらいなかった。
「シリル様、腕が……!」
エレノアは震える手で、傷の少し上へ触れた。直接傷口へ触れないよう、けれど流れる血を止めようとする。
「これほど……」
「浅い」
「浅くありません」
「動く」
「そういう問題ではありません」
声が強くなる。
視界が滲んだ。
自分を掴み。
落とすまいと耐え。
その間に、これほどの傷を負っていた。
それでもシリルは、何一つ訴えなかった。自分の痛みより、エレノアが無事かどうかだけを確かめていた。
「私のために……」
堪えようとした涙が、翡翠色の瞳へ浮かぶ。
シリルの眉が僅かに寄った。
「泣くな」
「ですが……」
「君が無事なら、それでいい」
また。
そんなことを言う。
自分のことなど何でもないように。
エレノアは唇を噛み、涙を堪えようとした。
それでも、一筋だけ頬を伝った。
シリルの左手が動く。
けれど、濡れた手袋で触れることを躊躇したのか、途中で止まった。
エレノアはその手を、自分からそっと取った。
「よくありません」
涙を滲ませたまま、真っ直ぐ彼を見つめる。
「シリル様も無事でなければ、私はよくありません」
シリルの青い瞳が、僅かに見開かれた。
エレノアは続ける。
「私だけが助かればいいなんて、思わないでください。私は、シリル様にも無事でいていただきたいです」
言葉にした瞬間。
それがどれほど強い願いなのか、自分自身でも分かった。
彼が傷つけば苦しい。
いなくなることなど、考えたくもない。
いつから、これほど大切になっていたのだろう。まだ、その感情を深くは理解していない。
それでも、
エレノアの言葉は、シリルの胸へ深く届いていた。
彼はしばらく何も言わなかった。やがて、エレノアの手を静かに握り返す。
「……分かった」
低い声だった。
「俺も、必ず戻る」
エレノアの瞳が、僅かに揺れる。
「約束してくださいますか」
「ああ」
シリルは迷いなく頷いた。
「約束する」
ダリウスが二人の様子を見つめたあと、静かに口を開く。
「まず治療だ。調律は、その後に再開する。……だが、急げ」
視線が、破損した水管へ向けられる。
流れは止められた。しかしその影響で、巨大装置のほかの場所から低い軋みが響き始めている。
一つの流れを塞いだ分、別の管へ、負荷が移り始めているのだ。
危機は去っていない。むしろ調律を完了しなければ、次はどこが破損するか分からない。
エレノアは涙を拭い、シリルの傷へ止血布を当てた。シリルも拒まなかった。ただ、その間もエレノアから一度も目を離さなかった。
四枚の石板は、まだ台座へ還されていない。調律も、まだ始まってはいなかった。
それでも、この短い時間の中で二人は新たな約束を交わした。
――必ず、戻る。
それは、どちらか一方だけが相手を守るための約束ではない。
二人とも無事に帰るための約束だった。
王国へ水を繋ぐために。そして、その約束を果たすために。
二人はもう一度、それぞれの役目へ向かわなければならない。




